戦死者は、今の日本の礎か?
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 7月、あるメーリングリストに加わっていたが、そこで太平洋戦争での戦死者について、Bさんから、メーリングリスト参加者に宛てて、次のような発言があった。1度目は、黙っていたが、この見解が更に繰り返されたので、後日、メーリングリストを通じてBさんに反論した。以下の文は、その時の反論をもとに書かれたものです。
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 Bさんの見解の抜粋。
「7月××日送信分
私の意識の中ではこうです。 2度と起こしてはならない戦争ですが、終戦直前「自分の行動は犬死にでは無い」と信じつつ最後の戦いに消えていった方々『きっと生き残った人達がすばらしい日本を再興してくれる。その捨石になるのなら・・』との思い」
「8月××日送信分
(言葉足らずでしたが、私としては人は無念の死を迎える場合、暗黙の中で自然な感情として、未来・子孫の幸せへの希望を抱いているはずだと思っています。)」
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1、死者は何を思って死んでいったか?
 実際は、どうでしょうか?果たして、死者が「無念」の思いで死んでいったのでしょうか?また、死に際して、未来の「日本」について思いを巡らすことが出来るような「余裕」があるのでしょうか?
 教育勅語が1890年、天皇の名によって発布され、この教育勅語はそれ以降、敗戦まで学校教育に大きな影響力を発揮していった。この教育勅語のもとでは、人々(臣民)は、天皇の赤子として、天皇のために命を捨てることが、もっとも尊いこととされ、「立派」に死んで「英霊」となったあかつきには、護国の神として靖国神社にまつられることが最も名誉なこととされた。
 「天皇のために立派に死んで、靖国で会おう」と言うのが、公的な模範的な「死」の意味づけであった。当時の、戦闘行為に臨む人々は、この公的な「死の意味」を自分のものとした人もいた(この場合、自分の死を「無念」とは考えない)。一方、これに同化できずに様々なことを考える人たちも当然いたが、基本的に人間は「死への恐怖や生きたい」という本能があるので、模範的な「死」の意味づけですべて納得することは少々、難しい。
 また人間は普通、「生きるか死ぬか」の瀬戸際では、自分の存在についてのみ考え、「きっと生き残った人達がすばらしい日本を再興してくれる」とか「未来・子孫の幸せへの希望」とかに思いを巡らせることは、ほとんど不可能だ。飢餓に苦しむ人たちは、どうやって食べ物を手に入れるかを必死で考え、空襲で逃げまどう人たちは、どこが安全な場所かを必死で探す。
 このように考えると、Bさんの前提とされている死者の「思い」は大変、非現実的な希望的な思いこみだと思われます。 
 
2、アジア諸国の戦争の被害にあった人々や、植民地支配で苦しんだ人々が、最初に引用したBさんの表現を見て、納得するでしょうか?
 
 今回の15年に及ぶ戦争は、沖縄を除けば、戦闘行為がアジア全域に広がっている。日本軍人・軍属の死者230万人(靖国に祭られる対象者)、外地での一般邦人30万人(靖国の対象外)、空襲などでの内地で民間人50万人(靖国の対象外)計310万人の他に、アジアの犠牲者は少なくとも2000万人と言われています。ただこの数も日本政府がきちんと調査をしていないので、概数だ(朝日新聞8月8日)。このアジアの膨大な犠牲者やそれに繋がる人々にとって、Bさんの日本人死者の捉え方は、「美化」以外のなにものでもない。死者は、日本政府による「被害者」であると同時に、戦争遂行者であり、他国の人々にとっては、ほとんどの場合「加害者」である。
 
3、戦争の「犠牲者」という捉え方は、国内の事で考えても、あまりにも一面的だ
 
 戦争は、ある日急に起こり、人々が犠牲者になるのではない。様々な社会的な仕掛けや、教育の変化、言論の変化の長い積み重ねによって、戦争ということが可能となる。
 今回の戦争は、15年戦争といわれている。ではその少し前、1910年の朝鮮併合を日本の人々は、どうとらえたか?1931年に「満州事変」がおこり、その後中国北部の「満州国」に「新天地」を求めて多くの日本人が「移植」していったが、移植した人々は、当時の中国の人々にとって「加害者」ではないのか?また、1937年の南京攻略(南京大虐殺)を、当時の多くの日本の人々は圧倒的に歓迎したのではないか。
 最終的に、戦場という場面や国内で「犠牲者」となったかも知れないが、それまでに多くの人々が戦争遂行に手を貸しており、戦争サポーター(共犯者)とも言うことが出来る。(もちろん、これを可能としたのは、教育勅語のもとの教育体制とマスコミの統制が大きく関係している)。
 
4、現在の日本社会の礎になったのは、「戦死者」ではない。
 
 日本関係で310万の戦死者という犠牲を払って敗戦を迎えたが、敗戦後、日本が次のような社会のままであったならどうなっているのか、考えてみてください。
 
 ア、戦前と同じように天皇主権(「天皇は神聖にして侵すべからず」)の憲法のまま
 イ、天皇は現人神(あらひとがみ)のまま(人間宣言をせず)
 ウ、教育勅語に基づく教育体制のまま
 エ、徴兵制がある
 オ、選挙権は満25歳以上の男子のみ(1925年からの選挙制度)
 カ、男尊女卑と家長父性を基礎とした家制度のまま
 キ、治安維持法が存在し、言論の自由がなく、不敬罪が存在する
 ク、大土地所有制が維持されている
 ケ、基本的人権という概念が存在しない
 
 310万の「犠牲者」があったとしても、戦前と同じような社会体制が続いていたら、今とは全く違った社会となっていただろう。敗戦後、社会体制の「大変化」(その最も根本が平和憲法の制定)があったからこそ、今のような社会となったわけだ。犠牲者がいくら多くても、社会体制や憲法が戦前と同じなら現在、どのような社会になっているか想像してください。実際、社会体制や憲法が戦前と同じ可能性は敗戦当時、おおいにあった(敗戦当時の政府の憲法原案は、天皇主権の国体護持を目的とするものだった)。
 戦前に天皇がいかに大きな力と影響力を持っていたかは、次の1956年(敗戦11年後)の調査でわかる。1956年9月の雑誌「知性」の調査では、
 「戦前に、天皇は神あるいは普通の人間以上の存在」と考えていた人が、84%にのぼっており、
 「戦後になって、天皇は神あるいは普通の人間以上の存在」と考えていた人は19%に減り、「普通の人間」と考える割合が81%となる。
 この数字をみてもいかに戦前は教育勅語に基づいて現人神の天皇主権が機能していたかがわかる。
 結局、現代の日本社会の礎になったのは、平和憲法と教育基本法だ。(しかも、この2つがいま、覆されようとしている。ご存じのように、その覆す最先端のキャンペーンを張っているのが、産経新聞と扶桑社だ)。
 
5、結論
 戦死者は、戦争遂行サポーター(協力者)、加害者、犠牲者という最低3つの視点でとらえる必要がある。非現実的な犠牲者の「思い」を想定して現実の私たちの行動のよりどころとしようとするのは、戦争犠牲者の勝手な「利用」であり「美化」である
 
                             (2001年9月2日)
P.S.15年戦争を理解するお勧めの一冊
 「戦争と罪責」(野田正彰著、岩波書店、1998年、2300円)
 
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