1 研究史

 木曽は木曽谷と言われているように全域が山地であるから、草木がよく茂り薬草も多いとみられていたらしく、

以前から県外の採集者が薬草の採集を目的にして入りこんでいたらしい。尾張の水谷豊文もその一人である。水谷は文化六年(一八○九)に木曽を南がら歩いて福島町・大滝村を経て帰り、その時の手記によって「木曽採薬記」を残している。

 それを見ると六月二六日に中津川を出発し湯舟沢を歩き、翌二七日馬籠から大戸を通って山口を歩き、二八日は坂下に渡って北上している。その間に見た植物の名を漢名や仮名で記し、その方言も付記していて、「アサヒランは昔はあったが今は絶えた」などと記している。また木曽川べりで見た三三種の植物名をあけ、「フウロノウの一種リビョウソウは下痢病を治す」などとも記している。

 大正から昭和にかけ木曽の植物を調ぺた人に小泉秀雄がある。小泉は山形県出身であるが、当時長野県女子師範学校に勤務していて、県下の植物調査を行っていた。その頃木曽の小学校に勤務していて小泉の指導を受けていた四賀村出身の横内斎は、小泉の調査記録と自己の調査に基づいて「木曽谷の植物」を書き、昭和23年に木曽教育会がこれを出版している。それによれば小泉は山口村を四回調ぺているが、大正13年5月4日には麻生から賤母国有林を調ぺ「この辺カシ類・ソヨゴ・モミ・ツガ・アセビ多く半ば暖帯の感あり」と記している。

 また翌年4月19日には神坂地区を歩き、シロパナタンボポ・シハイスミレ・ハルリンドウなどを見ているが、更に同年5月4日には、上山口で謝訪神社の大杉とシダレエノキを観察している。更にこの年10月12日にも村の北部を調ペ「賤母国有休一帯は10月中句でも紅葉の景色なく青々と茂っている」とも記している。以上の調査で小泉はシナノスミレ・ハナノキ・ヤマザクラ・ミヤマウメモドキなども見、カシ類の多いことをあげている。

 シダレエノキは調査委員であった小泉によって「木曽山口村の枝垂榎」として大正15年に長野県発行の「史績名勝天然記念物調査報告第六輯」に記載報告され、天然記念物として県の指定を受けている。戦後これは県下の他の諸件とともに一斉に指定を解除されたが、前に山口小中学校長の職にあって村の植物調査を行っていた私、奥原弘人の調査に基づぎ、謝訪神社の社叢に暖帯植物の多いことを併せ、長野県文化財専門委員山崎林治の報告によって昭和三七年発行の「長野県指定文化財調査報告第一集」に記載され、天然記念物として長野県教育委員会の指定を受け今日に至っている。

 諏訪神社の境内の一部である国道の西側に、 一本の大杉があったが、国道の拡幅に際し昭和40年9月20日に伐採された。周囲八bの大樹であったが、樹齢は三六○余年と、大きさの割合に樹齢が少ないことを知った。伐採前は樹勢が盛んで枯枝はなく、太枝にはセッコクの大株が多数着生していて毎年花を開き見事であった。

 賤母国有林の植物については当時大桑小学校に勤務していた奥原が何回か調査した上、雑誌「信濃教育」の昭和26年3月号に「賤母国有林の植物」として、その貴重な植物相を報告し保護を訴えた。その後横内の提言もあって、長野営林局が学術参考保護林として特別に保護を強化することになった。同国有林の植物相について横内は昭和36年に「賤母学術参考保護林の植物と生態」として長野営林局から出版し、519種類を記載している。奥原はその後も更に調査を続け、その結果を昭和53年に「長野県植物研究会誌第十一号」に「賊母国有林の植物」と題して報告し、585種・16変種・14品種計615種類を、学名に和名を添えて発表した。但しこれらの調査には南木曽町の区域も含まれている。

 本村に勤務いていた頃の奥原は木曽谷南部に着生蘭の多いのに注目して調査し、その結果を昭和31年10月「植物研究雑誌」に「木曽谷の気生蘭」として発表した。この中で山口村では7種の着生蘭が106件の樹木または岩石に、神坂村では4種が56本の樹木に着生していることを述べ、珍種モミランの分布を発表し、学界の注目を集めた。

 昭和51年に山口村が大戸に植物園を開設するに際し、その植物調査を奥原に求めた。ここは藪と湿地で立ち入り難い所であったが、遊歩道をつくり観察を便にした。調査の結果、ここに一八種のシダ植物、二七五種の種子植物を確認し、特に暖帯植物・湿生植物が多く、食虫植物もあり、中てもヒトツバタゴにとっては県下堆一の自生地であることをあげ、県指定の天然記念物としての価値あることを報告し、これを「自然植物園」として現状を保護することを勧告した。

 〔附記〕 昭和大皇は植物に対するご造話が深かったことで知られている。そこで木曽の珍樹であるハナノキとヒトツバタゴを皇居に植えていたたぎたいと考え、昭和五七年秋、神坂育ちの苗木を二本すつ持参し、宮内庁で侍従に渡した。今では大きくなっていると思うが、昭和大皇はその七年後に崩御されたので花をご覧になることは出来なかったであろう。