【第一楽章】sad
‐それは、楽園の記憶‐






世界創世神話

……神は「宇宙」を一通り創りあげた後、最後に残った原初の混沌をひとつの球体に封じ込めた。
 そしてそれを回転させるよう、太陽に命じた。
 ぐるぐると回る球体の中で、混沌は水と土に分かれた。海と陸のはじまりである。

 この神話により、一部の宗教家の間では、遠心分離器の発明は神の領域を侵すものと捉えられ、 未だにその使用を禁止されている。

「驚いたよ、そんな昔話にこだわっている輩がいるなんて」
 随分と酔っているらしい若い男は、カウンターに頬杖をつきながら眠そうな声で隣の女に話しかけた。
 女のほうはと云えば、まだまだ素面の面もちで、カクテルグラスを揺らしながら男の言葉に応えた。
「そおねえ、たかがヒトの発明が神の領域を侵すなんて、そんなのは愚にもつかない自惚れだと思うわ」
「そういう意味じゃない」
 男は、殆ど氷しか残っていないスローテキーラをあおった。
「あんな昔話……球体の中の世界? そんな話を朗々と……バカみたいじゃないか」
「あら」
 と、女はカウンターにグラスを置き、背を伸ばして男を見据えた。
「信じていないの? 世界は昔、球の中にあったのよ。世界の源を、神が手ずからお納めになったの。 神と、遊星と、天使たちが、宇宙の末子なる地球に目をかけて大切に、大切に育て上げてきたの」
 軽く睨まれて、男はばつが悪そうに肩をすくめた。
「嘘だと云ってるわけじゃないんだ。わかってる。憶えてるよ。
世界は昔、球の中にあった。……ただ」
 と、男は視線を落とした。
「ただ、あれは本当に昔の……もう戻れない昔の話じゃないか。 それを、まるで今も『楽園』の内側にいるような口振りで話す奴らがいる。それが気に障るんだ」
 男の声は段々と大きくなっていった。
「ここがもう、あのころの世界じゃないってことに、あいつらは気づいていないのか? あんなに大きな出来事を 忘れてしまったというのか?」
 それは、苛立っているとも、嘆いているとも聞こえた。
女は、不機嫌な子どもをあやすように、そっと彼の髪に触れた。
「責めたら可哀想よ。憶えている方が不思議なのだから」
「忘れるものか」
 男はうつむき、独り言ともとれる低く小さな声で呟いた。
「あの日、僕は海岸にいたんだ。大勢の人が集まって騒いでいた。理由は尋ねるまでもなかった。 大きな波が、壁のようにそそり立っていた。僕はそれを津波というやつかと思った。 でも違っていた。それは波なんかじゃなかった。 裂けてめくれあがってしまった、世界の殻だったんだ。 そいつは、陸に打ち上げられた魚みたいに二、三度跳ねたかと思うと、 今度は外へ……地球を外へ外へと巻きこんでいった。……そして」
 男は何か苦いものを噛んだかのように一瞬顔を歪ませた。
「そして、僕は弾けた世界の裂け目から、天空へ落ちていった。 遠くに、脱ぎ捨てられた服のように裏返った地球が見えた。 それが僕の、楽園での最後の記憶だった」
 男はそこまで話すと、ふと顔をあげ、空になったグラスを手に取りカウンターの向こうのバーテンダーに「もう一杯」のジェスチャーを示した。
 しかし、それを制して女は云った。
「水にしておきなさい」
 そしてカウンターに向き直ると、最上級の微笑みとともに言葉を付け加えた。
「私はブルームーンを」
 男は、軽い抗議の眼差しを彼女に向けたが、相手は全く意に介していないようだった。
 そして、やがて差し出された鮮やかな青色のカクテルを手に取ると、晴れやかな笑みとともに「乾杯」の仕草をしてみせた。
「あなたの記憶に間違いはないわ。でもその後のことは知らないでしょう? 天使たちが、宇宙に放り出された人間たちをつかまえたのよ。 それから神は人間が再び地上に還れるように、取りはからって下さった」
「取りはからった、ね。人間に新しく与えられた躰はあまりにも脆いよ。 数十年もすれば、常に天へ投げ出されようとする魂を繋ぎ止めておく力を失ってしまう」
「そうしたら、また天使が魂をつかまえるわ。ヒトが、広い宇宙で迷子に ならないように、必ずこの地球に戻れるように。…地球は、人間は、ちゃんと神に愛されているのよ。 それでも、あなたにとってこの世界は『楽園』ではないのかしら?」
「……わからない。でも、あのころとは何もかも違う」
 男は冷たい水を一気に飲み干すと、そのまま黙り込んだ。
 女はうなだれる男をひとしきり見つめ、やがて口を開いた。
「だけど大地が剥き出しになったおかげで、私は自由にここに降りてこられるように なったんだもの。感謝したいぐらいだわ。そうでなければ、わたしは未だにあの堅い殻の外から、 あなたを見ているだけだったかもしれない」
 そう云って彼女は、グラス越しにウィンクをしてみせた。
 その飽くまで甘く、しかし余裕を見せつける表情に、男は苦笑を漏らした。
「そして僕のほうは君に気づくこともなかった?」
「そういうこと」
 満足げにほほえむ女の背中で、白く大きな翼が頷くように揺れた。

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