芭蕉句碑
うぐひすを魂にねむるか嬌柳(たおやなぎ)  ばせを
昭和12年建立。青木月斗書

謡曲「井筒」の井跡
「伊勢物語」にも出てくる井筒の話は謡曲「井筒」となった。謡曲の舞台はこの地であり、井筒の井跡も残っている

在原神社
明治初年まで在原寺があったが、廃仏毀釈で神社となった。在原業平の没後その邸を寺にしたと伝えられる

天理から櫟本(いちのもと)、帯解(おびとけ)を経て奈良へ。古都奈良散策

石上神社を出たあとも山の辺の道は東海自然歩道として続いているのだが、市街地の一般道路と重なる部分も多くなり、沿道にそれほど魅力的なポイントもなくなる。私は、天理から奈良までは古い街道の面影も残る、旧上街道を主に歩くこととした。約15Kmの道のりである。


天理駅から在原神社へ
この日は名張駅8:48の電車で出発し、桜井駅でJRに乗り換え、天理駅に着いたのは10時近かった。今日は、朝から久しぶりの雨である。天理駅から歩き始めるが、どの道が上街道の道筋なのかはっきりわからないので、とりあえず最初のポイントである在原神社、和爾下神社までは国道169号線を行くことにした。
昨日も通ったにぎやかな天理商店街を行くと国道169号線に出る。まっすぐな雨の国道を20分くらい歩くと名阪国道が見えてくる。その手前で左に曲がると道沿いに小さな神社がある。在原神社である。境内に小さな社殿が建っており、説明板によると、在原神社が鎮座するこの地には明治9年まで在原寺という寺院があり、本堂、庫裏、楼門などが並んでいたという。創立は元慶四年(880)といわれ、在原業平の病没後にその邸を寺にしたという。また、この地は謡曲「井筒」の舞台にもなったことで知られている。社殿近くの井戸の前に次の説明板が立っている。

謡曲「井筒」と在原寺 (説明板より)
在原業平(825~880)は平城帝の皇子阿保親王の五男で、兄の行平とともに在原姓を名乗って臣籍に入り、右近衛中将となり歌人としても知られています。女性遍歴も多彩で「伊勢物語」のヒーローとされています。その業平と昔契った井筒の女(実は紀有常の娘)が現れ、業平との在りし日の交情を物語るのが謡曲「井筒」です。
謡曲の舞台となっている「大和の国石上の在原寺の旧跡」が当所だといわれ、曲にゆかりの深い井筒の井の跡もかすかに残っています。井筒とは井戸の地上の部分を木や石で囲んだもののことで、紀有常の娘が幼時、背丈をこの井筒で業平と計りあったといわれます。


また、境内には次の芭蕉句碑が建っている。

       うぐひすを魂にねむるか嬌柳(たおやなぎ)     はせを

この句は「虚栗」に出ている句で、天和三年以前、すなわち芭蕉が「野ざらし紀行」などの旅に出るまえ、40歳以前の作であろうといわれている。
東大寺の歴史
東大寺の創建は、743年(天平15年)、聖武天皇が盧舎那(るしゃな)大仏造立の詔を出したことにはじまる。当時、聖武天皇は数年の間に恭仁(くに)、難波、紫香楽(しがらき)と次々に都を遷しており、大仏建立も当初は近江の紫香楽宮で始められた。しかし、平城京に再遷都することになり、745年平城京東山麓の現在地に造立が決まり、同年東大寺が起工された。
747年にはじまった大仏鋳造は、749年までの足掛け3年に及んだ。大仏鋳造がほぼ終わると、それを安置する大仏殿が建造された。そして、大仏殿がほぼ完成した752年(天平勝宝4年)4月9日、盛大に開眼供養会が行われた。
その後、1180年((治承4年)、平重衡による南都焼討ちで、ほとんど焼失してしまう。このときはすぐに復興工事が始まり、1185年に大仏開眼供養会が行われた。
さらにその後、戦国時代の1567年に、ふたたび大仏殿や諸堂が焼亡した。大仏は長年露座のままだったが、1684年になって江戸幕府に大仏殿再興の訴願が提出され、1692年(元禄五年)に大仏修理ガ行われた。その後、大仏殿再興にとりかかり、1709年(宝永六年)に完成した。これが現在の大仏殿である。

東大寺を出たあとは、奈良公園を抜けて三条通りに出、JR奈良駅に向かう。奈良駅に着いたのは17時ころだった。

盧舎那仏坐像(国宝)
1180年と1567年の火災により大きく破損したが、江戸時代に大々的に補修され現在に至っている

大仏殿(国宝)
現在の建物は1709年に再興されたもので、世界最大の木造建築物である。1973年(昭和48年)から昭和の大修理が行われ、全面的に屋根瓦が葺きかえられた

東大寺南大門(国宝)
現在の南大門は、1199(正治元年)に再建されたものである。入母屋造り、本瓦葺きで高さ約26m。両脇の金剛力士像とともに国宝となっている

柿本人麻呂について・・『逆説の日本史(井沢元彦著)』、『水底(みなそこ)の歌(梅原猛著)』より
柿本人麻呂に関しては、はっきりとした史料が残っておらず、古来より様々な論議が行われてきた。それらの論議が江戸時代に契沖、賀茂真淵らにより論考され、その説は現代に引き継がれ、ほぼ定説・常識化するに至った。その骨子は次のとおりである。
①人麻呂は正史にのっていないから、六位以下の身分であった。万葉集で人麻呂の死を「死」と記しているのも六位以下の証である。
②宮廷で歌を詠むことを仕事にしていた。後には地方官として地方に赴いた。
③古今集の「仮名序」の中で人麻呂の官位を「正三位」と記している部分は、後世の人が書き加えたもので誤りである。(真淵説)

これに対して、「逆説の日本史」(井沢元彦著)で展開されている議論を紹介しておこう。この議論の基になっているのは、梅原猛著「水底の歌 柿本人麻呂論」である。
①人麻呂は決して六位以下の下級官吏ではなく、かなりの身分の高官であった。
②それなのに正史に載っていないのは、別の名前で記載されていたから。それは柿本猨(さる)という名前である。この人の生没年が、人麻呂の生没年と同じ(同一人物)である、と仮定しても他のいろいろな状況から判断して不合理を生じない。別の名前を持つことは、当時、他にも見られることである。
③人麻呂は石見で刑死した。これは人麻呂が持統、文武朝で何らかの事件に巻き込まれて失脚し、最終的に石見で刑死したとみられる。
④高位の身分でも、罪人として死んだ場合には「死」と記される。万葉集が人麻呂の死を「死」と表現しているのはこのためである。
⑤人麻呂は、平城天皇の時代に、大伴家持の復権に伴って名誉回復し、正三位を追贈された。
⑥人麻呂は政治的敗者で、非業の最期を遂げた。だからこそ「歌聖」となった。

梅原説は、従来から大きな疑問とされていた古今集の「仮名序」の謎を見事に解き明かしている。また、そのほかの点でも大きな矛盾はないようにみえる。ただ、従来の定説・常識を覆すものなので、この梅原説は現在に至るまで学会から認められていないらしい。私は門外漢だが、梅原・井沢説は逆説ではなく、本命の説に思えるのだが。

和爾下(わにした)神社、「影媛(かげひめ)あわれ」碑
在原神社を出て国道169号線に戻り、少し先に進むと道の右側に和爾下神社の赤い鳥居が見えてくる。国道を渡り鳥居をくぐると周りは鬱蒼とした森で、その中を参道が長く続いている。朝まだ早く、雨の降りそぼつ薄暗い参道は薄気味悪ささえ感じる。
参道を進んでゆくと、道の脇に大きな石碑が建っている。説明板により、日本書紀に載っている長歌、「影媛あわれ」が刻まれた碑であることが分かる。この場所にこの碑が建っているということは、古代の山ノ辺の道はこの辺りを通っていたのだろうか。

上街道・櫟本(いちのもと)を行く
和爾下神社を出たあとは、国道と並行して残っている旧上街道を歩くことにする。国道を渡って西に少し歩くと、いかにも旧街道という感じの道がある。これが旧上街道だろうと見当をつけ、この道を歩きはじめる。しばらくすると道の脇に「山ノ辺の道」と刻まれた古い道標があった。このあたりは櫟本(いちのもと)町であり、この道の先には帯解寺がある。先に記した「影媛あわれ」の歌に出てくる大宅(おおやけ)を現在の帯解寺辺りに比定すれば、この道が古代の山ノ辺の道になるのだろう。ちなみに、現在の東海自然歩道は、大宅=白毫寺説をとって、白毫寺を経て春日山に向かうコースになっている。

櫟本(いちのもと)から帯解(おびとけ)へ
街道を歩いてゆくと、古い小さな神社がある。楢神社という。由緒ありそうな神社だが、特に説明はない。雨の中にもかかわらず、熱心に拝礼している人がいた。きっと、地元の人々の尊崇をうけているのだろう。さらに、雨の旧街道を進む。やがて家並みが少し途切れ、街道からJRの電車が見えてくる。帯解駅が近くなったようだ。帯解寺はもう近い。

称念寺の芭蕉句碑、三条通りから猿沢の池へ
帯解寺を出たあとも街道はまっすぐに続いている。奈良市街が近づくにつれ、町の様子もなんとなく華やかに感じられるようになる。街道から少し離れたところに称念寺というお寺があり、そこに芭蕉句碑があるということで探した。この辺りには寺院が多く、近くまで行ったのだが、結局見つからなかった。入口が少し路地を入ったところにあり、見逃したようだ。ここに建っている句碑は次の句である。

       菊の香や奈良には古き仏達   芭蕉翁

この句は、元禄七年重陽の日、九月九日の作である。この前日、八日に芭蕉は郷里伊賀上野を発って奈良に着き、猿沢の池のあたりで一泊。九日には大阪に足を進め、翌十日から発病したという。すなわち、この句は最後の旅のときの句である。私は、あとでこのような経緯を知り、もう少し気を入れてこの句碑を探せばよかったと思った。
もとの道に戻り、先を続けると、やがて三条通りに出る。この通りを東にまっすぐ行けば猿沢の池に出る。

古都奈良散策① 猿沢の池、興福寺近辺
ようやく猿沢の池に着いた。池の向こうには興福寺五重塔が見える。ポスターなどでよく見る風景であるが今日は暗い雨空で、あまりさえない。池の端に立派な休憩所があったので、そこで昼食にした。13:30ころだった。
昼食もすみ、元気に古都奈良の散策を始める。このあたりを散策するのはずいぶん久しぶりのことだ。まず、興福寺五重塔に向かった。中学校の修学旅行のとき、この塔の前で友人と写真をとったことを思い出した。ついで興福寺国宝館に入った。ここでは、写真やTV映像でおなじみの阿修羅像をじっくりと鑑賞した。興福寺では、現在、2010年の創建1300周年に向けて中金堂の再建工事が進められている。

古都奈良散策② 奈良国立博物館、奈良公園、若草山と鹿
そのあと、私は奈良国立博物館に向かった。この博物館には、これまで入った記憶がない。とりあえず、常設展を一通りざっと見た。それこそ、国宝級のものばかり展示されているが、一度にいろいろのものを見て、かつ写真もとれないので、あまり印象に残らなかった。事前に調べて見たいものを絞ったほうがよいのかもしれない。特別展もやっていたが、時間もあまりないので、今回は省略した。
続いて東大寺方面に向かうが、途中、奈良公園に遊ぶ鹿の姿を見た。今も昔も変わらない風景だ。背後の若草山、春日山は雨に煙っていた。

古都奈良散策③ 東大寺大仏殿、盧舎那(るしゃな)仏坐像
東大寺に向かう参道は、修学旅行の生徒や一般の観光客で大変にぎやかだ。やがて大きな南大門が見え、これをくぐるとその先に大きな大仏殿が見える。
まず、南大門を見てみよう。わが国では中国にならって寺院や都城は南が正面とされたので、この南大門は正門である。現在の建物は1199年(正治元年)に再建されたものである。門の両脇には東大寺を守護する木像金剛力士像(国宝)が一対安置されている。これは運慶、快慶らによって製作された。門をくぐって大仏殿に向かう。広い参道だが、ここも修学旅行生や一般の観光客でにぎわっている。大仏殿は大きい。その中の大仏様も大きい。大仏殿の中は、説明者と生徒たちの声がひびきあい、とても大仏様を拝むという雰囲気ではない。大仏様の周りをぐるりと回って、写真を撮って外に出た。

帯解寺(おびとけでら)・子安地蔵尊
やがて、道の脇に「帯解寺」の大きな看板が見えてきた。このお寺は安産祈願のお寺として知られ、山号は子安山である。
寺伝では、9世紀中ごろの天安2年(858)、文徳天皇后の染殿皇后が当寺に懐妊祈願をしたところ惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、帯解寺と名乗るようになったという。以来、安産祈願の寺として信仰をあつめるようになった。20世紀以降も美智子皇后、雅子皇太子妃をはじめ、三笠宮、高円宮、秋篠宮などの皇族が当寺において安産祈願を行っている、とある。

野ざらし紀行・畿内行脚7

柿本寺(しほんじ)跡、柿本人麻呂の歌塚
参道をまっすぐ行くと、一番奥の少し高くなった場所に社殿がある。この場所は古墳の頂だという。社殿から参道を少し戻ったところに「柿本寺跡」の案内がある。近くに歌塚と柿本人麻呂像が建っている。説明板によると、「この辺りにはかつて、柿本寺(しほんじ)というお寺があった。この寺は名前の通り柿本氏の氏寺で、ここに柿本人麻呂の遺骨を葬ったのが『歌塚』だといわれている。寺跡には今も礎石の一部が残っており、奈良時代の古瓦が採集されている。」とある。
柿本人麻呂は、史料がほとんど残っておらず、大変謎の多い人物である。私は新庄市の柿本神社でも「柿本太夫人麻呂の墓」を見た。ここ和爾下神社の境内にも人麻呂の遺骨を葬ったという「歌塚」がある。謎の多い人物だけに、人麻呂には各地に残る伝承も多いようだ。ここで、人麻呂についての謎の解明を試みた、梅原・井沢説を紹介しておこう。

長歌 「影媛(かげひめ)あわれ」 (日本書紀 武烈天皇即位前記 より)
石の上(いそのかみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ 物多(ものきわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保(おさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いい)さへ盛り 玉盌(たまもひ)に 水さへ盛り 泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛(かげひめ)あわれ


この長歌は、日本書紀 武烈天皇 即位前記に記されている。影媛(かげひめ)は恋人を武烈に殺され、その弔いのため布留のあたりから乃楽(なら)山へ泣きながら駆けつける。そのときの様子を歌ったものである。この歌には付近の地名が読み込まれているが、それらはいすれも布留から奈良山へ行く途中の山間部の集落などの名である
石上、布留は現在も地名として残っている。高橋は、この碑の建っている現在の櫟本(いちのもと)と考えられており、影媛はこの付近を泣きそぼちながら通り過ぎたのだろうか。また、大宅(おおやけ)は奈良市帯解または白毫寺に、春日春日山山麓にそれぞれ比定されており、古代の山ノ辺の道は布留から先、そのようなルートを通って奈良山まで通じていたということが分かる。

「山ノ辺の道」道標
櫟本から帯解に通じる道は古代の「山ノ辺の道」の道筋とも考えられている

櫟本(いちのもと)の旧上街道
古い街道の面影が残っている。これから先、奈良市街までこのような道が続く

帯解寺本堂
本尊は木造地蔵菩薩半跏像(帯解子安地蔵菩薩)(重文)で、鎌倉時代の作である

帯解寺山門と鐘楼
街道に面して山門、鐘楼などが建っている。安産祈願の寺であり、境内で岩田帯の販売なども行われている

奈良市街付近の街道の様子
奈良市街が近くなり、沿道には古い造りの大きな商店、旅籠風の家も目につくようになる

称念寺の長い塀?
塀の内がお寺のように見えず、入口も見つからなかったので通り過ぎてしまったが、どうもこれが目指すお寺だったようだ

三条通り(南都銀行本店前付近)
JR奈良駅前から猿沢池方面に通じる賑やかな通り

奈良国立博物館
仏教美術を中心として展示するわが国屈指の博物館である。本館は仏像彫刻関係の常設展、新館は絵画、工芸などの分野の常設展と特別展が行われる

奈良公園で草を食む鹿たち
背後の若草山は雨に煙っていた。これも奈良の代表的な風景だろう
奈良の鹿は昔から神の使いとされ、殺生を固く禁じられてきたという

街道からJR電車を望む
このあたりから奈良市になる。家並みが少し途切れ、ちょうど桜井線の電車が見えた。帯解駅そして帯解寺はもう近い

楢神社
旧道沿いの小さな神社。雨のなか熱心に拝礼している人がいた。このあたりは天理市楢(なら)町である

興福寺五重塔(国宝)
高さ50.8m、京都東寺の五重塔に次ぐ高さだという。室町時代の建築で、国宝

猿沢の池より興福寺五重塔を望む
あいにくの雨空で、くすんで見えるが、やはり古都奈良の代表的な風景なのだろう

柿本人麻呂像
歌塚碑近くに建てられている人麻呂像。人麻呂の像はいくつか伝わっているが、これはそのうちの一つを模したもの

柿本寺跡に建つ「歌塚碑」
この地は奈良時代?に創建された柿本寺の跡で、ここに柿本人麻呂の遺骨を葬ったのが今の歌塚だと伝えられている。なお、現在の歌塚の碑は享保17年(1732)に建てられたものである

影媛(かげひめ)あわれ碑
日本書紀に書かれた長歌「影媛あわれ」が、全文万葉仮名で刻まれている。この碑がここに建っているということは、古代の「山ノ辺の道」はこの辺りを通っていたのだろうか

和爾下神社参道
鳥居をくぐりるとまっすぐな参道が長く続いている。周りは鬱蒼とした森である
参道途中の左手に柿本寺跡がある