第9日目(4月28日 日曜日) 望月宿〜芦田宿〜長久保宿〜和田宿〜和田峠


★望月宿本陣跡(望月町歴史民俗資料館) / ますや洋品店 / 真山家住宅












今日は和田峠まで歩く予定なので、7:30頃には宿を出発した。宿の少し先に望月町歴史民俗資料館があるが、これは本陣の跡である。近くのますや洋品店の建物もなかなか趣がある。その少し先に「やまとや」という看板のかかった古い家がある。これは、かつて旅籠兼問屋であった真山(さなやま)家の住宅で、国の重要文化財に指定されている。主屋は街道に面し、間口6間、2階建て。奥行きもかなり広く、貴人の泊まる上段の間もあるという。1765年(明和2年)の望月宿大火の直後に再建され、江戸中期の問屋、旅籠の遺構をよく残した貴重な建物である。残念ながら一般公開されていないので、中を見学することはできなかった。


★間の宿「茂田井」への道 / 茂田井宿武重本家酒造

望月宿を出た後、旧道は少し分かりにくくなるが、やがて広い国道142号線を横切る。これから先は比較的広い県道になり、分かりやすい。この道をしばらく歩くと「右中仙道茂田井間之宿方面」と大きく書いた道標が見えてくる。ここには「中仙道茂田井入口」の説明板も立っている。
ここから坂を下りてゆくと、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。中でも2軒の造り酒屋の白壁や土蔵は見事で、非常に印象的である。
はじめに見えるのが武重本家酒造(叶屋)で、昔から豪農として知られ、酒造業を始めたのは1865年(慶応元年)のことだという。
歌人若山牧水は、ここ茂田井にも幾たびか足を留め、うまい酒に酔いしれて歌を詠んだ。道の向かい側に歌碑が立てられている。また、純米酒「牧水」などが現在も製造販売中である。


★茂田井宿街道風景 / 大沢酒造入口付近

道は坂になっていて、白壁はなおも続く。脇には清冽な用水が流れている。坂を登ったところに大沢酒造(蔦屋)の入口がある。私が通りかかって中をのぞきこんでいたら、庭を掃いていたおじいさんが声を掛けてくれた。屋敷内に「しなの山林美術館」と酒蔵を改造した「民俗資料館」があり、自由に見学してよいという。美術館は、大沢家の当主が描いた絵画や書を中心に展示されていた。各種展覧会等で賞をとっている腕前の方で、なかなか見ごたえがあった。
帰りがけに先ほどのおじいさんが、「前の道を和宮さんが泣きながら通ったんだよ」と、さも見ていたかのように言ったのがおかしかった。実際、この道を大行列が通ったんだなあ、と感慨深かった。
この辺り、街道沿いの民家も古い造りの立派な家が多い。坂を登りきると家並みの間から大きな浅間山が見えた。


★芦田宿土屋本陣門 / 同 本陣建物

茂田井の集落を出て芦田川を越えると、もうすぐ芦田宿である。芦田宿の中心部に立派な白壁と門構えの大きな古い建物がある。旧本陣土屋家である。門は開いており、中に建物の説明などが書いてある。通常はここまでで、建物内の見学は事前に予約しないとできない。
ところが、私が立ち寄ったこの日、玄関の扉が開けられ、中に人がいて説明を聞いている。私は何の疑問も抱かずに靴を脱いであがりこみ、一緒に説明を聞いた。そのうち説明している方が気が付いて「ご一緒の方ですか」と聞く。ここでようやく私も状況がのみこめた。見学の予約をしていた若いご夫婦が、土屋家の当主夫人に説明していただいている最中だったのである。私も事情を説明して一緒に見学させてもらうことにした。夫人には「あなたラッキーですよ」と何度も言われた。
建物は1800年(寛政12年)建てられたものだという。土屋家の先祖は武田氏の武将で土屋右衛門尉信近といったが、その後芦田に土着したという。夫人が壁に掛けられた絵図を指差して、「これが家の祖先ですよ」といわれた。そこには武田信玄のそばに控える若い武将が描かれていた。また、そばにあった巻物をひろげて見せてくださったが、そこには土屋家の細かい系図が記されていた。部屋は広く、上段の間をはじめ室内の装飾品なども立派である。
また、文化財を個人で維持管理する際の大変さなども話された。現在、長野県の県宝になっているそうである。


★芦田宿街道沿いの古い建物 「酢屋茂」 / 同 「金丸土屋旅館」

旧本陣の近くには風情のある建物がいくつか残っている。「酢屋茂」は味噌醤油醸造業で現在も営業中である。また、「金丸土屋旅館」は江戸期には「つちや」という旅籠であり、現在でも宿場内における唯一の宿泊施設である。
この宿場内でも近年、古い建物は激減しているとのことである。


★笠取峠の松並木 

芦田の町並みを抜けると旧道は国道142号線の広い道を横断する。道は上り坂となり、両側は松並木になっている。これが笠取峠の松並木である。道は遊歩道のようになっており、800mくらい続いている。並木のはずれには休憩所があり、車の駐車スペースもある。
ここから先、旧道は広い国道142号線と合流し、2Kmくらいの国道歩きを余儀なくされる。歩道はあるが、山間のまっすぐな下り道で車はビュンビュン飛ばす。8月になって私もこの道を車で走ったが、この区間は一瞬のうちに通り過ぎてしまった感じである。国道はそのうち九十九折れの道になるが、この部分は車の少ない旧国道が残されているのでこちらのほうを歩く。


★長久保宿歴史資料館(一福処濱屋) / 長久保宿旧本陣石合家住宅

国道をどんどん下ってゆくと、やがて旧道は右に分かれてゆく。長久保宿への入口である。この先にはのどかな街道風景が残っていた。
宿場の中に入ってゆくと、はじめに「一福処濱屋」という看板をかけた建物が目についた。説明板があり、この建物は明治時代初期に旅籠として建てられたが、中山道の交通量が減ったため開業には至らなかった。近年、所有者から町に寄付され、改修後長久保宿歴史資料館として開館した、とある。
その少し先に旧本陣石合家住宅がある。説明板によると、江戸初期の本陣建築で、上段の間、二之間、三之間、入側等が現存する。中山道旧本陣中、最古の建築として貴重である。ただ、建物は公開されていないので、内部の見学はできない。また、門の付近からでは建物の外観もよく分からなかった。


★竹内家住宅(釜鳴屋) / 長久保宿の中山道

少し先に古い町屋造りの建物がある。「釜鳴屋」といい、寛永時代から昭和初期まで酒造業を営んでいた。この住宅の建築年代は江戸時代前期といわれているが不詳である。大きさは間口九間半、奥行き十間半のほぼ正方形に近い形で建坪は約100坪にもなる。屋根には「本うだつ」があげられている。
街道沿いには、この他に二階に古い看板を掲げた家が数軒ある。しかし、ここでも古い家屋は年々減少しているようである。
中山道はやがてT字路になりこれを左に曲がる。町並みはまだ続いているが、やがて先ほどの国道142号線に合流する。


★是より和田宿の道標 / 道標の位置から国道142号線方面を望む

しばらく国道142号線を歩く。この辺は大型トラックの通行が多いが歩道がないので恐ろしい。やがて依田川を渡り、新しい国道は左に分かれてゆく(ガイドブックの地図にはこの新しい国道はまだ記載されていない)。我々が歩く中山道は旧国道のほうである。この道は車の通行はほとんどないが、和田宿まで延々4Kmくらい続いている。途中、古い民家なども所々に残る静かな道である。
中山道はやがて旧国道とも分かれ、坂を登ってゆく。登りきったところに「是より和田宿」の大きな道標が建っている。これから先は和田村が「歴史の道」として整備している。


★和田宿旧旅籠「河内屋」 / 石器資料館

やがて道は和田宿の中心部に入ってゆく。追川という小さな川を渡ると、すぐ右手に「河内屋」の看板をかけた建物がある。説明板によると、これは昔の旅籠屋で、1861年の大火で焼失したが翌年再建された。昭和58年歴史の道整備事業の一環として復元し、歴史の道資料館とした、とある。中は古い民具などを集めた資料館となっている。
なお、この建物の奥に「石器資料館」というのがある。これから先の和田峠は古来、黒曜石の産地として有名で、この資料館には黒曜石の産出地の地図をはじめ、歴史、黒曜石の原石、石器等発掘物、石器の作り方など盛りたくさんな展示があり、一見の価値がある。(入館料:石器資料館、河内屋、本陣共通で300円。9:00〜16:00。月曜休館)


★和田宿街道風景 / 和田宿本陣(復元)

河内屋を過ぎると道沿いには問屋跡などの古い建物が並んでいる。その少し先に復元された和田宿本陣が建っている。河内屋と同じく1861年の大火で焼失したが、翌年再建されている。明治以後、本陣としての機能を終え、和田村役場などとして使用されていた。昭和59年役場の移転に伴い解体の運命にあったが調査の結果、重要な遺構としての価値が認められ、昭和61年より解体修理が行われ、5年の歳月をもって往時の姿に復元されたという。
和田村をはじめとする関係者の歴史の道整備にかける心意気を感じる。

★和田宿から唐沢一里塚まで

鍛冶足(かじあし)という地区を過ぎたところで旧道は国道と交差する。交差点の先に中山道一里塚跡碑が建っている。江戸より五十里とある。旧道はこの先もしばらく続くが、やがて国道に合流する。この後は長い国道歩きになる。交通量が多い上に歩道がないので十分な注意が必要だ。
途中、唐沢集落の部分だけ旧道が残されている。唐沢には往時、立場茶屋があった。
唐沢集落の少し先に唐沢一里塚が残されている。これは古中山道の一里塚で、塚の形が完全に残されている。国道から50mくらい階段を上ったところにあるが、塚だけが残っていて前後の道筋は残っていない。静かな気持ちのよい場所で、ここでしばらく休憩する。時計を見たら15:50だった。


★「歴史の道中山道」の標識 / 林の中の峠道 / 接待茶屋跡












さらに国道を歩くと、やがて「歴史の道中山道」標識が現れる。ここから中山道旧道は国道と別れ、峠の山道を歩くことになる。ここから宿泊場所のある東餅屋までは約4Kmくらいある。
中山道旧道は途中で一度だけ国道と合流するところがある。ここの国道の脇に「接待茶屋」が建っている。1820年(文政2年)に中山道を通った江戸の商人中村与兵衛が和田峠と碓氷峠の険しさに驚き、当時の金で1千両を幕府に寄付した。幕府からの下付金により和田宿では接待茶屋を設け、毎年11月から3月まで峠を越える旅人に1椀の粥を与え、牛馬には桶一杯の煮麦を施したという。昭和58年、歴史の道保存事業の一環として復元されている。


★本日の宿泊場所ロッジ和田峠

接待茶屋を過ぎると道はまた峠道となる。道はよく整備されているので歩きやすいが、結構上りのきついところもあるので、一日の最後の行程としてはややつらいところである。4月末の17時頃というとだんだんと日も翳ってくる。少々心細くなってきた頃キャンプ場が見え、そのうちロッジ和田峠の案内板が見えたときは正直ほっとした。ロッジ到着は17:20頃だった。
ところで、芦田宿本陣で出会った(お世話になった)若いご夫婦と食事のときに一緒になった。やはり、昨年東海道を歩き今年は中山道を歩いているのだという。昨日は望月宿の井出野屋旅館に泊まったということなので、今日は全く同じコースをたどったことになる。私もうれしくなって話がはずんだ。


 

歩行距離 約29Km   歩数 46,300歩