第8日目(4月27日 土曜日) 沓掛宿〜追分宿〜小田井宿〜岩村田宿〜塩名田宿〜八幡宿〜望月宿



★遠近(おちこち)神社 / 借宿(かりじゅく)集落の旧道

旧道はいったん国道に合流した後、バイパスの下をくぐり、借宿集落に入ってゆく。途中に借宿立場茶屋跡というのがある。さらに少しゆくと赤い鳥居に「遠近宮」という額を掲げた小さな神社がある。この先の借宿集落を通る旧道はなんとなく風情のある道筋である。この道もやがて国道と合流する。


★追分宿郷土館 / 旅籠「油屋」

国道に合流した後、しばらく歩くと旧道は右に分かれ、追分宿に入ってゆく。1602年(慶長7年)に近世の宿場として追分宿が成立した。北国街道への分岐点、交通の要衝として驚異的に繁栄する。それには飯盛女が一役買っていたことは否定できない。文化期には旅籠53軒のうち43軒が飯盛女を置いていた。資料によると、幕末の人口802人のうち男280人、女522人、しかも女のうち飯盛女は264人にも及んでいたという。現在の宿場跡は国道から外れているため、静かなたたずまいが残っている。町並みの中ごろ右手奥に追分宿郷土館があり、追分宿の歴史と文化がわかりやすく展示されている。また、すぐそばに旅籠屋「油屋」が現在も旅館として営業を続けている。


★高札場跡(復元) / つがる屋(枡形茶屋)

旅籠「油屋」は、かつての脇本陣で作家の堀辰雄や川端康成等がよく泊まったので有名である。昭和12年に全焼し、建物はその後の再建である。堀辰雄は軽井沢を愛し、晩年はここ追分に住み、作品を残した。住居は堀辰雄文学記念館として公開されている。近くに高札場が復元されている。高札の実物は先ほどの郷土館に展示されている。町並みのはずれ、旧道が国道にぶつかる手前に「つがる屋」という古い看板を掲げた家がある。昔の道はここでちょうど枡形になっており、枡形の茶屋と呼ばれた。2階の漆喰壁に「つがるや」の大きな文字もくっきりと残っている。昔の面影を知るに十分な貴重な建物である。


★「分去れ」の全景 / 分去れの道標(左、中山道 右、北国街道)

国道にぶつかった後、国道を少し行くと「分去れ」につく。ここで中山道と北国街道が分かれる。その分岐点が分去れで、現在もいろいろな碑等が残っている。
手前中央に分去れの道標。前面に「東二世安楽 追分町」、左横に「従是中山道」、右横に「従是北国街道」とある。その後ろに手水鉢のような小さな道しるべ石がある。正面に「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」と刻まれている。みよしのは桜で有名な奈良の吉野のことである。その後ろには大きな常夜灯があり、その他この一角には森羅亭万象(平賀源内)の歌碑、石地蔵坐像なども建っている。


★国道18号線と旧中山道との分岐点 / 旧道から浅間山を眺める

分去れのすこし先で旧道は国道18号線と分かれる。ここには「旧中山道」という大きな道路標識が立てられている。中山道はここで国道18号線とはお別れし、旧来の道筋をたどることになる。
これからは旧道らしい静かな道が続く。途中に原野の広がる土地があり、浅間山が意外に近く見えた。このあたりは鎌倉末期の浅間山噴火時の火砕流の跡だという。


★中山道・御代田の一里塚入口 / 御代田の一里塚

中山道は一本道でまっすぐに続く。やがて御代田の集落に入ってゆくが、道の右側に御代田の一里塚の入口標識が見えてくる。ここから少し離れた畑の中に一里塚がある。この塚には大きな枝垂桜が植えられており、4月に歩いたときには桜が見事に咲いていた。しかし、残念ながら先に述べた事情によりこのときの写真はない。
中山道は、しなの鉄道の線路を地下道でくぐり、広い道を渡る。御代田駅が近いのでこの辺りは人家や商店も多い。


★中山道小田井宿 / 小田井宿本陣跡 / 上問屋跡(安川家住宅)












★下問屋跡(尾台家住宅)
小田井宿中心部は、しなの鉄道(旧信越本線)御代田駅から2Kmくらい離れている。これは鉄道を引くときに近くを通ることに反対した結果だという。このため町の中心は御代田に移り、小田井は取り残されてしまった。
しかし、そのおかげ(?)で、現在ここには本陣跡、上・下問屋跡、旅籠などの宿場の核心部の建物が残されている。また、清流の流れる宿場用水も残されており、往時の宿場の名残を偲ぶことができる。
本陣安川家は1756年の建築で、近年大改修が行われたそうである。上問屋安川家は江戸後期の建物と推定され、道路に面して玄関、荷物置き場、帳場が旧態を留めるきわめて重要な建物である。なお、下問屋尾台家跡は門と母屋が残っているが、現在誰も住んでいないせいか、傷みが激しい。早いうちの保存修復が望まれる。


★岩村田宿

小田井宿を出た後、道は広い県道と合流するが、この道は上信越自動車道佐久インターにつながっているため大変な交通量である。道沿いには郊外型の大型店舗なども多い。中山道の道筋もよく分からなくなるが、とにかく岩村田を過ぎるまでこのような喧騒状態が続く。
岩村田宿は本陣、脇本陣はなく、旅籠の数も8軒と少なかった。現在の岩村田には小海線の岩村田駅があり、佐久地方の商業・行政の中心都市として発展している。町のメイン通りは賑やかな一地方商店街であり、宿場の面影は全く残っていない。


★駒形神社参道 / 同 本殿

繁雑な岩村田の町を抜けると、中山道はまた静かな一本道にもどる。のどかな田園風景の中を歩くと、やがて「塩名田へ2.2Km」の中部北陸自然歩道の距離表示板が出てくる。
塩名田宿の手前に駒形神社がある。本堂は1486年(文明18年)の建築と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。室町後期の一間社流造の技法をよく伝えているという。


★塩名田宿中心部の古い建物 / 中山道旧道 / 千曲川渡し場跡と浅間山













中山道は塩名田宿に入ると道幅の広い県道と合流し、車の通行も多くなる。この通りに面して本陣丸山家の建物が昔の面影を残して建っている。また、その近くには風情のある「えび屋豆腐店」も残っている。この先に千曲川があり、昔はここは舟渡しであった。旧中山道は川の手前150mくらいのところで右に分かれ、坂を下ってゆく。この部分の道は旧道らしい面影を残している。この道は川にぶつかるが、ここには「舟つなぎ石」というのが残されている。階段を上って先ほどの県道に戻り、中津橋を渡る。ここからは浅間山がよく見えた。


★八幡神社旧本殿(高良社) / 八幡宿小松本陣跡

千曲川を渡って20分くらい歩くと八幡神社がある。鳥居をくぐると堂々とした構えの随神門があり、その奥には1491年建立の旧本殿(高良社)がある。これは三間社流造りで、室町時代の特徴を見せており、国の重要文化財に指定されている。
八幡神社から先は八幡宿となる。八幡宿の本陣を代々務めたのは小松氏で、街道に面して表門が残されている。現在の宿場は次第に旧家が建て替えられ、昔の面影がなくなってきている。


★望月宿 御宿山城屋 / 井出野屋旅館

八幡宿を出ると中山道は国道142号線と合流する。しばらく国道を歩いた後、国道は新望月トンネル方向へ分かれてゆく。望月宿方面への旧道は山を越えるが、日も暮れてきたし分かりにくいので望月トンネルを利用する。このトンネルは狭い上に暗く、歩行者は十分に注意する必要がある。トンネルを出て鹿曲川を渡り、右に曲がってまっすぐ行けば望月町の中心部になる。望月町にはバスターミナルもあり、この地方では大きな町である。今日の宿泊場所、御宿山城屋は街道沿いにある。入口には「中仙道旅籠 山しろ屋」の看板が掛けられている。道の向かい側は井出野屋旅館である。いずれもなかなか風情のある建物である。17:30頃到着。早速風呂に入り、くつろぐ。二階の二間続きの広い部屋に宿泊者は私一人だった。


歩行距離 約28Km    歩数 45,700歩

 

さあ、いよいよ2002年、中山道歩き旅の再開である。軽井沢までは昨年のうちに歩き終わっているので、今年はその先から歩き始める。軽井沢から下諏訪まで約70Kmは鉄道の便が悪く、どうしても途中2泊する必要がある。というわけで、今年の歩き始めの日は4月27,28,29日の三連休の日に決めた。

★中軽井沢駅前の中山道(国道18号線) / 沓掛宿はずれの旧道風景

4月27日は曇りで、しなの鉄道の発車を待つ軽井沢駅のプラットフォームはやや肌寒いほどだった。9:30頃中軽井沢駅に到着し、3日間の旅のスタートである。
駅から少し歩いた国道18号線が中山道である。道幅はそれほど広くないが、車の通行量は結構多い。このあたりが沓掛宿の中心部だが、昭和26年の大火で中心部は消失してしまい宿場の面影は全くない。町名、駅名も中軽井沢に変わってしまった。国道18号線を少し歩くと、旧道は左にゆるいカーブで分かれてゆく。国道の喧騒とは別の静かな道である。所々に遅い桜や桃の花なども咲いており、信濃の春という気分を味わうことができた。