第21日目(2002年12月2日 月曜日)  赤坂宿〜垂井宿〜関ヶ原宿〜今須宿〜柏原宿


★垂井宿街道風景(右手、旅館 亀丸屋) / 南宮神社大鳥居

相川橋を渡ったところに「中山道垂井宿」の標識と町の案内板が建っている。その少し先が枡形の名残でゆるく曲がっている。その右の角に「旅館 亀丸屋」の看板を出した家がある。これは江戸時代にも旅籠屋だった家で、1階の表はすっかり変ったが2階には連子格子の出窓を残している。また、離れには上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館だったという。垂井には美濃一の宮、南宮神社があり、旧道脇に大きな鳥居が立っている。また、古代には国府も置かれており、美濃地方の中心であった。宿場として発達したのは江戸時代になってからだが、ここから名古屋方面に向かう美濃道も分岐しており、大いに繁栄したという。


★垂井宿の旧商家(元油屋卯吉の家) / 本龍寺

宿場の中ほどに古い造りの家が残されている。これは文化末年(1817年ごろ)に建てられた油屋卯吉の家で、当時は多くの人を雇い油商売を営んでいたという。宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物である。
道の向かい側に本龍寺がある。この寺の山門や書院の玄関は、脇本陣のものを移築したといわれている。山門前には「明治天皇垂井御小休所」碑も建っている。明治天皇の明治11年の巡幸の際にはこの寺で御小休された。また、芭蕉もこの寺に立ち寄り、「作り木の庭をいさめるしぐれ哉」の句を残している。


★美濃赤坂駅(東海道線) / 駅から旧道へ向かう路地 / 旧本陣矢橋家建物と移築された本陣門












今日は大垣駅から7:45発のJRで美濃赤坂駅に向かう。この電車は東海道線の枝線で、大垣から終点美濃赤坂駅までわずか2駅しかない。8分ほどで終点に到着し、今日の旅のスタートである。駅から中山道旧道に出るまで100mくらいの道の両側には、古い造りの土蔵などが建ち並び、なかなか風情がある。
旧道に出て少し行ったところに、旧本陣の矢橋家の建物がある。建物自体は明治以降のもので本陣としては使用していないが、門は昔のものが移築されている。


★兜塚 / 如来寺

赤坂宿の町並みが途切れるところに、小さな丘がある。兜塚といい、関ヶ原合戦の前日に行われた戦いの戦死者を葬ったところ。古代の古墳跡でもある。
この辺りの地名を「昼飯(ひるい)町」という。地名の由来の説明板があった。「昔、善光寺如来という仏像が大阪の海から拾い上げられ、長野の善光寺へ納められることになった。その仏像を運ぶ人たちがちょうどこの辺りに来たときに、ここで昼飯にしたという。それからこの付近を昼飯というようになった」。その後、この地に如来寺が建てられ、本尊は善光寺の分身仏としての如来像だという。私が立ち寄ったのは、昼飯を食べる時間にはまだまだ早いので、さっと通り過ぎた。


★「史跡の里 青墓町」標識(よしたけ庵跡) / 青野一里塚跡碑

やがて旧道は田園の広がる青墓町に入ってゆく。東山道の昔は宿場だったらしいが、江戸時代には宿場ではなくなっている。ここには、いくつかの古い伝説が残されている。
まず、「照手姫水汲み井戸」。これは照手姫、小栗判官伝説にまつわる遺跡。その近くに「よしたけ庵跡」。これは源義経が奥州に落ちのびるときの伝説遺跡。この他にもいくつか史跡があり、まとめて「史跡の里 青墓町」の標識が建っている。のんびりとした田園の中の集落だが、古い歴史・伝説のある町なのだ。
青墓町を過ぎると青野の集落となり、ここには一里塚跡の碑が建っている。この先、道はまっすぐに進み、相川橋を渡ると垂井宿に入ってゆく。


★垂井宿西の見付跡 / 広重画「垂井」 / 垂井一里塚(国指定史跡)












少し先で宿場は終りとなり、西の見付跡がある。ここは垂井宿の西の入口で、大行列を出迎えたり、非常事態の時には閉鎖した。広重はこの付近から西を見て、雨の中を大名行列が見付に入ってくる様子、本陣から出迎えの宿役人、茶店の様子などを描いている。
中山道旧道をしばらく進むと、左側に立派な一里塚が見えてくる。垂井の一里塚である。これは南側の1基だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定されている。中山道には国指定一里塚が二つあり、これはそのうちの一つである。ちなみに、もうひとつは江戸板橋宿先、志村の一里塚である。


★「これより中山道 関ヶ原町」の標識 / 松並木の続く中山道旧道

一里塚の少し先で旧道は国道21号線と交差し、以後、国道とほぼ並行して進んでゆく。やがて、「これより中山道 関ヶ原町」の標識が現れる。いよいよ歴史に名高い関ヶ原の古戦場地域に入ってゆく。私も、何かわくわくした気持ちで歩を進める。慶長5年(1600年)9月15日未明、徳川家康率いる東軍は、この道を粛々と進んだのだ。
関ヶ原は、北に伊吹山系が裾野を広げ、西に笹尾山、西南に松尾山、東南には南宮山などが並び立ち、東西約4Km,南北約2Kmの盆地である。その中を東西に東山道(後の中山道)が貫通。中央付近で北から北国街道、南から伊勢街道が合流する。往古、不破の関が置かれていたことからも分かるように、関ヶ原は古来、政治的にも軍事的にも東西を遮断する要衝の地であった。


★徳川家康最初の陣地(桃配山) / 頂上からの展望 / 頂上の家康着座所












徳川家康の最初の陣地は、旧道を左に少しそれた国道21号線の脇に残されている。小さな丘(桃配山という)だが、ここからは全体の様子がよく見渡せる。
家康配下三万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂に大馬印を高々と掲げ指揮にあたった。東軍諸隊が布陣を完了したのは9月15日午前6時頃である。家康は最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとにここで作戦会議を行った。ここにある二つの岩は、家康がその折にテーブルと腰掛に使用したと伝えられている。


★松尾山方面へ向かう道(東海自然歩道) / 松尾山を望む

やがて、旧道は国道から左に分かれてゆく。旧道を少し行くと、東海自然歩道の案内標識が立っており、左、松尾山方面となっている。ここで、松尾山ってどんな山だろうと興味が湧き、山がよく見えるところまで行ってみることにした。林の中のハイキングコースを少し行くと開けた場所に出、ここから松尾山方面がよく見えた。麓を名神高速が通り、すぐ近くを新幹線が走っている。何の変哲もない山だが、山の上からは戦の状況はすべて見通せるだろう。逡巡の後、小早川秀秋は山を下り西軍の側面をついた。戦の勝敗はこれにより決したのである。


★不破の関跡 / 黒血川

中山道旧道に戻って少し行くと、不破の関跡がある。東山道の不破の関は、東海道の鈴鹿の関、北陸道の愛発(あらち)の関とともに、古代律令制下の三関のひとつとして壬申の乱(672年)後に設けられたとされている。789年には停廃されたが、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりに記されてきた。
その少し先に黒血川という小さな川がある。壬申の乱(672年)のとき、吉野(天武天皇)軍と近江(弘文天皇)軍の激戦が行われ、この小さな川は両軍の血潮で黒々と染まったという。その後、川の名も黒血川と変り、激戦の様子を今に伝えている。


★今須宿街道風景 / 今須宿問屋場跡(山崎家)

やがて中山道は今須宿に入ってゆく。この町は山と山にはさまれた細長い地域で、東海道線が走っているが駅はないので、なんとなく取り残されたような町である。
江戸時代、人や馬の継ぎ立てなどを行った問屋が今須宿には一時7軒もあって全国的にも珍しかった。宿場の中央に立派な問屋跡が残っている。美濃16宿のうちで、問屋が当時のまま現存し、その威容を今に伝えているのはここ山崎家のみだという。


★寝物語の里標識 / 柏原宿街道風景

今須宿のはずれが美濃と近江の国境になっている。この国境は細い溝である。この溝をはさんで両国の旅籠があり、壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので寝物語の里の名が生まれたという。寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌などにもこの名が出てくるし、広重の今須宿にもここが描かれている。
その後、約2Kmほどで柏原宿に到着する。宿場の入口付近に東海道線の柏原駅があるので、今日の旅はここまでとする。柏原発15:41の電車で帰途についた。


歩行距離  約 20Km   万歩計 39,000歩


★田中吉政陣跡 / 徳川家康最後の陣跡

首塚から少し北に行ったところに田中吉政陣跡の碑が建っている。田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より打って出る先手の兵と激突。両軍間で激しい白兵戦が展開された。三成が残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後8日目のことだった。
その少し先に家康最後の陣跡がある。戦がたけなわになると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1Kmのこの地点に進出させた。ここで、家康は陣頭指揮にあたるとともに、戦が終わると、部下の取ってきた首を実験している。この近くに関ヶ原町歴史民俗資料館があるが、残念ながら今日は休館日だった。この後、国道に復帰し先に進む。


★井伊直政・松平忠吉陣跡 / 東首塚跡碑 / 首洗いの古井戸












昼食の後、元気に歴史探訪を続ける。関ヶ原古戦場跡を詳しく見ていったらそれこそ1日かかってしまうので、街道周辺の短時間で立ち寄れる場所のみとした。いずれもJR関ヶ原駅の近辺である。
街道の北側、JR東海道線の線路を越えてすぐのところに井伊直政、松平忠吉の陣跡がある。ここから発した直政、忠吉の軍勢が島津義弘の隊に発砲し、開戦の火蓋が切られたのである。
同じ場所に、東首塚碑、首洗いの古井戸が残されている。合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を作ってねんごろに葬られた。首実験に先立ち、近くの井戸水を使って首級の血や土が洗い落とされたと伝えられている。


★国道21号線(旧道と合流) / 関ヶ原宿中心部の様子

少し先で旧道は国道21号線と合流する。この辺には横並びに東軍諸隊が布陣していた。少し先の山麓付近には西軍が布陣し対峙している。
午前8時前、井伊直政の赤備え軍団の発砲により、天下分け目の一大決戦の火蓋は切って落とされた。両軍が布陣を完了したのはわずか2時間前、しかもその間、濃霧に包まれていたため敵の陣形や兵力も明確には判じがたいとあって、細かな戦法は決められていなかった。とにかく眼前の敵をたたく、それが唯一の作戦らしい作戦だったという。
決戦場における兵力は東軍75,000、西軍84,000で、数の上では西軍有利だが、この時点で実際に戦闘に参加しているのは西軍が東軍の半数にも満たなかった。しかし、西軍善戦の内に午前11時頃には膠着状態に陥る。
午前11時頃、石田光成は狼煙を上げた。東軍の背後南宮山に陣取る諸隊および側面の松尾山に陣取る小早川隊に出撃を促したものである.これにより東軍の背後と側面をつき、勝利は確実となるはずだった。
しかし、実際には両方面軍とも動かなかった。南宮山方面軍は吉川広家の寝返りにより動けない。ここに至り、勝敗の鍵は松尾山の小早川秀秋が握ることになった。秀秋は事前に両軍から誘いを受け、この時点でもまだ逡巡していた。両軍首脳のじりじりする中、正午過ぎ、ついに秀秋の采配が振られた。小早川隊15,000の軍勢は西軍の大谷吉継隊を襲ったのである。午後1時頃には西軍は総崩れの様相を呈し始め、午後2時頃には三成はわずか数人の部下とともに伊吹山方面に脱出していった。
私が街道を歩いているとき、現実の風景はのどかな田園が広がるばかりであった。 
関ヶ原の宿場跡は、現在は国道21号線沿いとなっており、中心部にも宿場時代の遺構はほとんど残っていない。街道沿いに食堂があったので、豪勢に「うな重」の昼食にした。