第6日目(2003年10月11日 土曜日)  笹子駅〜笹子峠〜勝沼ぶどう郷駅


今日はいよいよ街道中の一番の難所といわれた笹子峠を越える。紅葉にはまだ少し早いが、どのような峠越えになるのか、楽しみである。
今日はいつもより早く家を出た。新宿7:00発の京王線急行で高尾まで行き、高尾8:00発のJR中央線に乗換えると、笹子駅には8:58に到着する。


★黒野田宿の町並み / 路傍の笠懸地蔵

笹子駅は少し高いところにあり、坂を下ればすぐに甲州街道が通っている。JRのガード下をくぐり、道はまっすぐに進んでゆく。古いつくりの家もちらほら見え、この辺が宿場だったことをうかがわせる。少し行くと、路傍になんとも珍形な石像が立っている。「黒野田宿笠懸地蔵由来」という説明板がある。要は、昔からこの場所に建っているが、「笠懸地蔵」という名前が伝わるだけで、由来について詳しいことは分からないらしい。天保の大飢饉、それに続く農民一揆など、苦渋に満ちた諸業を善かれと地蔵に心願してきたものだろうという。

★黒野田宿本陣跡 / 同 古い立派な門

街道の左側を歩いてゆくと、先ほどのお地蔵様の少し先に立派な古い門をもった旧家がある。この近くに黒野田宿の旧本陣が残っているということなので、おそらくこれがそうだと思われる。
黒野田宿の先はもう笹子峠なので、旅人の多くはここに泊まったと思われるが、宿場の規模としては、本陣1、脇本陣1、旅籠14軒だったという。なお、この宿場の手前には、阿弥陀海道宿、白野宿があり、この3宿は合宿となっていた。宿場の継立ては1日から15日が黒野田宿、16日から22日が阿弥陀海道宿、23日から30日は白野宿がそれぞれ行った。

★街道脇に立つ馬頭観世音碑ほか / 追分バス停

毘沙門天像で有名な普明院を過ぎると、人家はまばらになる。途中の街道脇に馬頭観世音碑、近くの岩の上にも古碑が並んで建っていた。この辺は、黒野田の枝郷、追分集落である。近くに追分バス停がある。この集落には、人形芝居が伝承されている。江戸後期に、淡路の人形遣いから伝えられたとされているが、定かではないらしい。

★旧道と国道の分岐点 / 旧道沿いの風景(新田地区)

追分バス停から約10分くらい歩くと、旧道と国道の分岐点につく。国道はここで大きく右に曲がり、新笹子トンネルに向かう。旧道はここから長い峠越えの道が始まる。
なお、ここにはコンビニ(ファミリーマート)があるので、ここで飲料水、弁当など必要なものは買い求めておこう。峠を越えるまでこの先、店は全くない。
旧道に入ってしばらくは、明るい開けた農村風景が広がっている。この辺は新田地区である。
なお、途中に笹子雁ヶ腹摺山へ向かう細い道が分かれていたが、もしかしたらこれは甲州街道の古道だったかもしれない。

★旧道(県道)は峠道となる / 県道から甲州街道古道(自然遊歩道)への分岐点

旧道(県道)は、やがて林の間を登り始める。この道は新笹子トンネルが完成するまでは、国道だったのだが、トンネル完成後は県道となり、現在では車はほとんど通らない。
静かな道を登ってゆくと、やがて笹子峠自然遊歩道の案内板が見えてくる。ここからは、本当の峠道、甲州街道古道になる。先ほどの国道との分岐点から約30分の道のりである。

★古道(自然遊歩道)の様子 / 明治天皇御野立所跡

前のほうでなにやら賑やかな話し声がすると思ったら、おばさん二人と小さな女の子3人の家族連れが歩いていた。ここまでではじめて出会ったハイカーである。追いついて、挨拶しながら追い抜いたら、「早いですね」と言われた。
道はよく整備されており、気持ちのよい道である。
やがて、ちょっとした広場に出る。ここには、「明治天皇御野立所跡」の碑が建っている。ご巡幸の折に、ここでしばし休憩されたのだろう。

★矢立の杉 / 上部の折れた個所 / 空洞内から空を見上げる











そこから少し行ったところに、矢立の杉があった。この杉は昔から有名なもので、武士が出陣にあたり、矢をこの杉に射立てて武運を祈ったことから、「矢立の杉」と呼ばれてきた。
写真を撮っていたら、先ほど追い越した女の子達が追いついてきて、「わー、すごい」と歓声を上げていた。
樹の高さは約26.5mほどあり、途中の約21.5mのところで折れている。また、樹の中は空洞になっており、中に入ることができる。中に入って上を見上げると、ぽっかりと穴があいており、空が見えた。

★古道(自然遊歩道)が県道と合流する地点 / 旧国道、笹子隧道

矢立の杉の少し先で、古道(自然遊歩道)は県道に合流する。ここから静かな県道を歩くこと20分くらいで、旧国道の笹子隧道に着く。このトンネルは、昭和13年に完成したもので、昭和33年に新笹子トンネルが完成するまでは、甲州街道の交通を支えてきた。現在ではその大役を終え、静寂の中にある。
トンネルの中は照明が全くないので、本当に真っ暗である。出口の光を頼りに何とか真中あたりまできたら、前から車がやってきた。徐行して通っていったので、怖さは感じなかったが、冷や汗をかいた。トンネルを出ると、道は下り坂になる。ちょうどトンネルのあたりが笹子峠の頂上になるのだろう。

★甲州街道峠道の道標 / 峠道の様子 / 甘酒茶屋付近(峠道が県道と合流する)











トンネルを出て少し行くと、甲州街道峠道の新しい道標が立っており、ここから細い道が下っている。これが甲州街道の古道である。道はあまり踏み固められてはいないが、荒れてもいない。比較的歩きやすい道である。これを5分くらい下ると再び県道が見えてくる。この県道とぶつかるところが、甘酒茶屋跡である。ここから先の峠道(古道)は、途切れているように見えたので、ここからは県道を歩くことにした。しかし、これが大きな誤りであることが後になって分かった。

★甘酒茶屋からの県道の様子 / 清水橋の甲州街道峠道の分岐点 / 清水橋











甘酒茶屋跡からの県道は、九十九折を繰り返しながら緩やかに下ってゆく。相変わらず車も通らないし、人にも出会わない。バイクが4、5台集団で下ってゆくのに出会ったくらいである。このような道を30分くらい歩いて、清水橋に出た。ここに、先ほどの峠道の入口に合ったのと同じ道標が立っていた。いやな予感がしたので、案内板を読んでみると、やはり先ほどの峠道がここまで続いているようである。昭和62年に、ここ清水橋から峠まで荒れていた旧道を整備して歩行のできるようにしたのだという。甘酒茶屋のところで道は途切れたいたはずだが・・・。もう一度戻ってこの峠道を全部歩きとおすか、それともこのまま先に進むか、ここは思案のしどころである。時計を見るとちょうど12時。清水橋の下の川辺にちょうどよい場所があるので、ここで昼食にして、ゆっくりと考えることにした。

★甘酒茶屋跡にプレイバック / 林道に出るところの道標 / 林道から下るところの道標











昼食を食べたら元気になった。結論は、やはりこの道を登って、再びここに戻ることである。つまり、峠道を全部通しで歩くことである。今日は、石和まで歩くつもりで少し家を早く出たが、これはあきらめなくてはならないかもしれない。
早速、峠道を登り始める。道は比較的よく整備されており、道標も必要なところに立てられている。
戻った結果わかったことは、やはり甘酒茶屋のところで道は途切れておらず、さらに続いていたということである。左上の写真で分かるように、ガードレールのすぐ脇が人が一人歩けるくらいのスペースがあり、その先に道が続いているのである。県道の先からよく見れば確かに道は見えるのだが、ないと思い込んでしまうと道は見えない。ここにもきちんとした道標がほしいところだ。そこからの道を降りてゆくと、やがて林道にぶつかる。この林道を道標にしたがって少し行くと、また道標があり、ここから峠道はさらに下ってゆく。

★峠道の様子 











そこからの峠道も比較的よく整備されている。危険と思われる個所にはロープなども張ってあり、橋なども丈夫なもので危険はない。途中、何箇所か小さな川を渡渉するが、渡りやすいように石が置かれており、問題ない。
というわけで、県道の笹子トンネルを出たすぐ近くから清水橋まで甲州街道峠道(古道)が比較的よく整備され、気軽に歩けるということが分かった。下り一方で約3Km、順調に行けば約40分くらいの道のりである。この間舗装された県道を歩くと九十九折になっているので距離が長くなり、その分時間もかかる。
私の場合は、清水橋から清水橋に戻るまで、合計1時間以上のロスタイムがあった。清水橋からの再出発は13:30である。今日は石和まで行くのは無理だろう。

★甲州道中桃の木茶屋跡 / 日陰地区の風景

清水橋からはまた県道を歩くことになる。やがて「甲州道中桃の木茶屋跡」の標識が見えてくる。ここから先もまた、九十九折の県道が続く。
かなり下ってきたところで、県道は大きく右に曲がってゆくのだが、まっすぐに行く細い道があった。私の勘では県道を行くよりはショートカットで先に進めるような気がしたので、こちらの道を行くことにした。道の両側は野菜やりんごぶどうなどの畑。のどかな田舎道である。

★旧甲州街道の標識 / 駒飼宿案内板 / 旧道と国道20号線との合流点











この道をどんどん降りていったら、結局は旧甲州街道の標識が立っているところに出てきた。ここから甲州街道の合流点はすぐである。どうやら駒飼宿の中心部もバイパスしてしまったらしい。この辺は宿場のはずれにあたるらしく、甲州街道駒飼宿の案内板が近くに立っていた。この地図でみると宿場の中心部は結構戻らないといけないようだ。笹子峠越えで少々疲れてしまったのと、時間が心配なので、このまま先に進むことにした。国道20号線に合流したのは14:10.新笹子トンネルを抜けてきた国道は、さすがに車の量が多い。国道歩きはまた気分を切り替えねばならない。
ここからは、国道を東京方面に10分くらい戻ればJRの甲斐大和駅があるようだが、まだ時間が早いので勝沼ぶどう郷駅まで歩くことにする。

★史跡 鶴瀬関所跡 / 中央高速道と並行して走る甲州街道(国道20号線)

国道を少し行ったところに旧道が一部残っており、「史跡鶴瀬関所跡」の標識が立っていた。この関所は「鶴瀬の口留番所」といわれ、物資の流通の警戒が主であったが、「入り砲出女」の取り締まりも行われた。ここは鶴瀬宿の東端であった。なお、鶴瀬宿と駒飼宿も距離が近く、合宿であった。
国道は、やがて中央高速道と並行して走るようになる。このあたりの交通量は結構多い。

★国道から分かれ山道を登る旧道 / 聖観音堂

国道を歩いてゆくと短いトンネルがあり、その手前に細い登り道が見えた。もしかしたら旧道かもしれないと思い、登ってみた。ちょっと登ったところに、聖観音堂の標柱、また、その近くに「観音の甍見やりつ花の雲 芭蕉」の標柱も立っている。俄然、興味が湧いてきて、先に進むことにした。細い九十九折の登り道がかなり続き、少し平らなところが見えたと思ったら、そこに朽ちかけたような建物があった。でも、正面に回ってみると意外にしっかりした感じで格子戸の向こうには観音様も拝見できた。これは聖観音堂に違いない。建物の周りは草ぼうぼう、ここから下る道もあまり踏まれた様子がない。この道は舗装された広い旧道に出る。この旧道は、国道の下をくぐって下ってゆくのだが、私は国道に出てそのまままっすぐに進んでしまった。

★近藤勇柏尾古戦場 / 近藤勇之像

国道をまっすぐ行くと、「近藤勇柏尾古戦場跡」の標柱が立っている。明治元年、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(幕府軍)と板垣退助率いる官軍の先遣隊がこの地で戦った。近くには太刀を持ち、鉢巻を締めた近藤勇の像が立っている。
上石原の西光寺でのエピソードが思い起こされるが、近藤勇はここでの戦いに敗れ、笹子峠を越えて敗走した。その後、彼は流山で投降し、板橋で首を切られることになる。このとき35歳だったという。

★大善寺山門 / 国宝・大善寺薬師堂

さらに国道を行くと、柏尾山大善寺がある。武田勝頼が落ち延びる途中、1泊した寺である。
国道から少し入ったところに山門があり、そこからさらに長い石段を登った上に国宝の薬師堂がある。弘安5年(1282年)鎌倉幕府の北条貞時の建立とされる。
正面から入り、中を拝観できる(拝観料400円)。中央奥に国宝の厨子がある。残念ながら今日は開扉されていなかった。案内の人が、1週間前まで開いていたんですよと申し訳なさそうに言っていた。中には薬師三尊があり、これは国の重要文化財である。この厨子の脇には大きな日光、月光菩薩が、さらには12神将像が横に並んで立っており、壮観である。
なお、このお寺の境内には宿泊施設(民宿)があり、精進料理や、薬師堂内での座禅経験などもできるそうである。(史蹟民宿大善寺。1泊2食付、5700円。 2003.10現在。0553-44-0027)

★勝沼のブドウ畑 / 勝沼ぶどう郷駅

大善寺を出たのが16時ごろ。国道に並行して登ってゆく道に勝沼ぶどう郷駅の道標が立っていたので、この道を行く。勝沼の町並みがだんだんと下のほうになり、周りにはブドウ畑が広がってくる。歩いているうちにだんだんと町から離れてゆく。鉄道の線路も見えてこない。本当にこの先に駅なんてあるのだろうかと不安になった。
駅は勝沼の町からはかなり離れた辺鄙な場所にあった。これでは、ぶどう郷駅という名前に変えたのも納得できる。駅舎もいかにもそのような雰囲気だった。大善寺から勝沼ぶどう郷駅まで約40分かかった。16:50発の列車で帰途についた。

(参考)ぶどう郷遊歩道
大善寺から勝沼ぶどう郷駅までの道は、「ぶどう郷遊歩道」と名づけられています。高台を通る遊歩道で、まわりはぶどう畑が一面に広がり、手を伸ばせば届くようなところにぶどうがたわわに実っていました。私が歩いたときは夕暮れで、地理不案内のうえ気もせいていたので、早足に通り過ぎてしまい残念なことをしました。勝沼ぶどう郷駅から大善寺までのこのコースは、ぶどうの実るころのお勧めコースです。


歩行距離 約 20Km   万歩計 40,000歩