第4日目 (9月14日 日曜日) 相模湖〜藤野〜上野原〜鶴川〜野田尻〜犬目〜鳥沢


東京地方は、8月中は夏らしい日差しがほんの数日しかなかったのだが、9月に入ってからその分を取り戻すかのように強い日差しの日が続いた。それでも日陰に入ると、秋の気配が感じられる。そんな9月の日曜日、甲州街道歩き旅を再開した。


★慈眼寺 / 與瀬神社 / 與瀬神社の急な階段











JR相模湖駅前の道をまっすぐ行けば、すぐに甲州街道(国道20号線)にぶつかる。今日は、ここからのスタートである。このあたりは昔の与瀬宿があったところだが、現在では何も残されてはいない。街道を進むと、500mくらい先に慈眼寺の案内が出ている。ここを右に曲がり、歩道橋で中央高速道路を越えると慈眼寺、さらにその奥の坂道を登ると與瀬神社がある。與瀬神社の祭神は日本武尊で、元は町の下方相模川の近くにあったが、1682年(天和2年)に現在地に遷座したという。この神社で特筆すべきは山門から本殿までの石段の急なことである。段数は50段ほどだが、傾斜が45度はある。手すりもなく、下るときには私も少々恐ろしさを感じた。(もちろん別の道もあるので、心配はありません)
なお、與瀬神社の脇からは、明王峠を経て陣馬山に至るハイキングコースが始まる。今日は天気もよく、それらしい姿の人が何人かこのコースを登っていった。

★街道の脇に立つ馬頭尊碑 / 街道からの相模湖の眺め

街道に戻り、先に進む。現在の国道20号線は、甲州街道旧道の改修によりできているので、旧道の面影というものは全く残されていない。川と山にはさまれたこの街道には、旧道を残す土地の余裕がないのだ。しかし、注意してみると、道の脇に昔のままの馬頭尊碑が残されていたりする。また、道の左側には、相模湖の湖面が見え隠れしているが、これは昔の旅人には見られなかったものだ。この辺の国道は行楽の車が多く、私が歩いたときは下り方向が主で登り方向はそれほどでもなかった。

★藤野町郷土資料館・ふじや(吉野宿) / 知恵を挽き出す大石臼 / 室内座敷の様子











カーブの多い街道を進んでゆくと、やがて左側に藤野町郷土資料館・ふじやの建物が見えてくる。この地は、もと吉野宿のあったところで、この建物の前には吉野宿本陣があったという。この本陣は木造の五層楼という大変珍しい建物で、ここには明治天皇も宿泊されたというが、明治29年の吉野大火で焼失し、その後再建されていない。(現在は駐車場になっている)
郷土資料館・ふじやは、かつて格式の高い旅籠であったが、やはり吉野大火で焼失し、直後に旅籠の面影を残しながら、養蚕を主とする家に建て替えられた。平成に入り、町が当主大房良顕氏より寄贈を受け、平成3年に郷土資料館として開館した。(日、月、木曜休館。9:00〜16:30まで。無料)。私が行ったのは日曜日で、本来は休館日だったのだが、脇の戸が開いていたので中に入ったら、ご主人が出てきて「いいですよ」というので、中を見学させてもらった。
入口を入ってすぐの土間に、大きな石臼があり、その上に金色のふくろうがとまっている。彫刻家・植草永生氏の製作になるもので、「知恵を挽き出す大石臼」と名づけられている。展示品としては、養蚕、炭焼き、考古学上の発掘成果などのほか、2階には実際に使用した民具の展示など盛りだくさんである。また、入ってすぐのところに吉野宿大火前の町並みの模型が展示されている。なお、1階の座敷は集会用として開放されているが、床の間の脇に「北白川宮殿下御宿営所」の札がかかっていた。

★吉野橋 / 吉野橋より沢井川上流方面を望む(赤い橋は中央高速道)

吉野宿を出ると沢井川に架かる吉野橋を渡る。今見るとなんということもない橋だが、昔はこのような橋は架けられないので、川を渡るためにいったん川辺まで急な坂道を降り、小猿橋と呼ばれる橋を渡らねばならなかった。この橋は、名前の通り猿橋の小型版で、橋げたが建てられないため両岸から張り出す構造の橋だったという。かつて橋のあったところは、現在は相模湖の水の中である。
山国を通る甲州街道では、このような個所はいたるところにあったはずである。現代の橋梁技術により、このような旅人の苦労は解消された。特に中央高速道を外から見ていると、山から山へ長大な橋梁で一跨ぎという感じで、今昔の感がさらに強まる。

★上野原町の中心部 / 国道20号線と旧甲州街道の分岐点(右旧甲州街道)

甲州街道は、やがて上野原町の中心部に入ってゆく。標識などは立っていないが、この辺がかつての宿場の中心だったのだろうか。
昔の甲州街道は、上野原から桂川の渓谷を離れて北の山腹に上った。桂川沿いは山が迫り谷は峻険で、人を通す安全な道は作れなかった。今甲州街道と呼ぶ国道20号線は、桂川の渓谷を通るが、この間が新道である。
町の中心部を少し過ぎたところに旧道と新道の分岐点がある。旧甲州街道は右に曲がり、鶴川、野田尻、犬目と山間の道をたどる。

★鶴川と中央高速道 / 鶴川宿碑 / 鶴川集落中心部











国道から分かれた旧道は鶴川を越えるため一旦川辺まで下る。鶴川橋から川辺を眺めると、ちょうど一休みするのによい場所がある。時刻は12:30。ちょうどよい時間なので、ここでコンビニ弁当の昼食にした。相模湖駅を9:00頃出発したので、ここまで約3時間半の道のりである。上流には釣り人がちらほら、下流には中央高速道の長い橋が伸びている。この川も昔は冬から春にかけては仮の板橋がかけられたが、夏・秋は徒歩渡しになった。急流のため甲州街道の一難所になっていたという。
昼食もすみ、歩き始めてすぐのところに「これより甲州街道鶴川宿」の立札と、「鶴川宿」の真新しい石標(平成14年3月製作)が立っていた。

★旧甲州街道案内図(国道との分岐点から恋塚一里塚付近まで
    (赤-旧道、緑-中央高速道、黄-国道20号線

















旧甲州街道は、県道から別れて鶴川神社の脇道を登ってゆく。実は、私は少し先まで行過ぎてしまったのだが、気が付いて戻った。現時点では、甲州街道を歩くための手ごろな地図の載ったガイドブックがないので間違えやすい。、先ほどの国道との分岐点にあった「旧甲州街道案内図」をそのまま掲載しておくので参考にしてください。
旧道の左下は中央高速道である。やがて陸橋で高速道を渡り、南側を歩くようになる。鶴川宿を出たあたりから空が暗くなってきたと思っていたら、急に大粒の雨が降り出した。傘はさしているが、シャツもズボンもびしょぬれである。30分くらい降り続いただろうか。雨宿りする場所もないので、そのまま歩きつづける。途中に大椚(おおくぬぎ)の一里塚跡の立札があった。
やがて、道は再び中央高速道を渡り野田尻宿に入ってゆく。

★野田尻宿石標と案内板 / 野田尻宿の様子 


野田尻宿についた頃には、雨もすっかり上がった。まだ衣服や靴はぬれたままだが、まあ、涼しくなってよかった。
野田尻宿の家は皆新しいが、昔風の建物も少し残っている。ここにも鶴川宿と同じ形の「野田尻宿」石標が建てられていた。
やがて三叉路になるが、これは平和中学校方面に進む。さらに道なりに進むと、再度中央高速道を越え、平和中学校の前に出る。あとは中央高速道に並行する形で進めばよい。この辺は少々道が込み入っているので、道標を確認しながら歩こう。

★矢坪橋から見た中央高速道 / 犬目峠から見た談合坂SA(上り線) / 犬目峠の様子











中央高速道と並行してきた旧道は、矢坪橋で再び高速道路を渡る。この辺は、上りの談合坂SAを出てきた車が、ちょうど本線と合流する地点である。これから先、旧道は犬目峠に向けてどんどん上ってゆく。高度を上げるにつれ、周囲の見晴らしがよくなる。途中、談合坂サービスエリア(上り線)の全体がよく見えた。なお、峠道は長い登り道なので、傾斜はそれほどきつくない。

★犬目宿(右手に石標あり) / 義民「犬目の兵助」の生家 / 犬目バス停付近











峠の上に犬目宿がある。ここにも、これまでと同じような「犬目宿」の石標が立っている。近くに「犬目の兵助生家」の案内板が立っている。1836年(天保7年)甲斐一国を騒擾のるつぼと化した郡内騒動の指導者の一人、兵助は犬目の村役人であった。彼は一揆が鎮圧されて後、逮捕を逃れて国外の各地を放浪したが、10年程を経てこの地に戻り隠れ住み、71歳で没したという。
集落の西はずれに近いところに犬目バス停がある。

★「君恋温泉」の看板 / 恋塚の一里塚

犬目宿を出ると、道は次第にゆるい下り坂になる。途中、道の脇に君恋温泉というなんとも昔風のロマンティックな名前の温泉がある。大きな看板の出ている前の道を右に曲がって少し登ったところにある。看板には、「富士と光と緑に囲まれた君恋温泉」とある。そこからは富士山もよく見えるらしい。富士山も見たかったが、まだ先が長いので通過した。
旧道をさらに少し下ると、恋塚の一里塚が見えてくる。これは道の脇に塚が残されている。説明板によると、これは日本橋から21里、20番目のものだという。現在、樹は植えられていないが、かつては松が植えられていたらしい。なお、君恋、恋塚というのは、いずれも日本武尊にまつわる地名で、その昔東国征伐の帰途にあった尊が、海神の生贄になった弟橘姫を偲んで愁いに沈んだことに由来するのだそうである。

★中央高速道の下を通る旧道 / 旧道と国道20号線との合流点 / 鳥沢駅(JR中央線)











道はさらにどんどん下り、やがて再び中央高速道が見えてきて、この下を通る。中央高速道は甲州街道旧道とほぼ並行して建設されており、途中何回も交差しているが、ここが今回のコースの最後の交差となる。その少し先で、旧道は桂川に沿って走ってきた国道20号線と合流する。ここはもう鳥沢である。交通量の多い国道を800mほど歩けばJR中央線鳥沢駅である。到着は16:30頃だった。


歩行距離  約26Km    万歩計 42,000歩


★増珠寺入口、街道脇の庚申塔 / 上野原町(山梨、神奈川県境)の標識


左下に相模湖にかかる日蓮大橋を眺め、藤野駅入口を過ぎて少し行くと増珠寺がある。吉野宿から西に約2.8Kmほどのところに関野宿があったが、距離的にはちょうどこのあたりである。道端に庚申塔が立っていたが、宿場の跡を示すようなものは付近には何もなかった。
やがて道は神奈川、山梨の県境に至る。ここからは山梨県上野原町、いよいよ甲州街道も甲斐路に入る。