日本橋の上を通る高速道路 / 日本国道路元標 / 東京市道路元標











東海道、中山道に続き、三度目の日本橋である。頭上を通る高速道路を地下化するなどという話も話題には上ってきているが、現在の日本橋の上には厳然として高速道路が存在する。橋の真中には「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれている。車に踏みつけられないように保護されているので、文字は磨り減ることもなく、意外にくっきりとしている。この場所には、元は東京市道路元標が建てられていたのだが、昭和47年に道路整備に伴い柱からプレートに変更されたという。東京市道路元標の柱は橋の北側脇に移転している。現在でも日本橋は、国道1,4,6、14,15,17,20号線の起点となっており、重要な地点であることには変わりない。
さて、日本橋からどの道が甲州街道なのだろう。半蔵門から先ははっきりしているのだが、そこまでのコースが南回りコースと北回りコースと二つあって、どちらが正規のコースかということである。結論的には、ある時期までは北回りコースが正規のコースで後に南回りコースに変更されたという。ということで、お濠に沿って南回りに、日本橋→呉服橋→北町奉行所前→東京駅を横断して→和田倉門→内堀通りを進み右折して濠に沿って→半蔵門、のコースで歩くことにする。


★一石橋 / 北町奉行所跡(八重洲口、ホテル国際観光。左下に碑が見える)

日本橋を背に東海道と同じく南に向けて歩きはじめる。東海道を歩いた2年前には東急デパート跡は更地になっていたが、現在は広い敷地いっぱいに大きなビルが完成寸前である。甲州街道はここで右に曲がり、西に向かう。
まっすぐ行くと呉服橋交差点になりこれを左折するが、ここでちょっと寄り道をして右に曲がって少し行くと一石橋がある。この橋の由来については面白い話がある。橋の南北両側に後藤氏両家(金座後藤庄三郎、呉服所後藤縫殿助)があり、五斗と五斗で一石と名づけたという。平成9年に全面的に架け替えられたが、大正時代に作られた親柱一基だけは残されている。なお、この近くに「まよひ子のしるべ石」というのが建っていたのだが、現在は江戸東京博物館に展示されている。
さて、元の道に戻り、まっすぐ行くと東京駅八重洲口に出る。ここにホテル国際観光がある。このビルの南側脇に「都旧跡 北町奉行所跡」の碑が立っている。黒い小さな石面に説明が書かれているので、注意していないと見過ごしてしまう。
ここからは、JR東京駅の自由通路を通って丸の内北口に出る。

★和田倉門跡標識 / 二重橋をバックに記念撮影する観光客

丸の内側に出ると、目の前に大きな見慣れないビルが建っている。旧国鉄本社跡に建てられている新しいビルである。旧ビルを取り壊し、基礎部分の工事をやっているところまでは知っていたのだが、大きな背の高いビルが何棟かほぼ出来上がっている。目を南に転じると、新築されたばかりの丸ビルが見える。こちらのほうはすでにかなりPRされており、完成したことは知っていたが、これも完成した姿を見るのははじめてである。このところの丸の内地区の変貌ぶりには驚く。
さて、丸の内のビル街を後に日比谷通りに出ると、和田倉門跡の標識が立っている。この先の和田倉橋でお濠を渡ると噴水公園を通って内堀通りに出ることができる。内堀通りは広い通りで交通量も多いので、やはり皇居外苑の白い砂利道を歩いたほうが気持ちがよい。このあたりからの皇居および都心のビル街の風景は日本の代表的な景観といえるだろう。この日も二重橋をバックに記念撮影をする外国人旅行者の姿が多かった。周囲のビルの様子は変わってもよいが、このあたりの景観はいつまでも残しておきたいものだと思う。

★桜田門 / お濠端から警視庁方面を望む

皇居外苑の歩道は、桜田門を通って広い通りに出る。日比谷通りを日比谷公園の脇で右折してきた国道20号線は、ここ桜田門交差点で国道1号線と分かれ、お濠端に沿って半蔵門まで続く。お濠端の道はジョギングをする人が大変多い。この日も次から次に私の脇を走りぬけてゆく。何か大会をやっているらしくゼッケンをつけて走っている人も多かった。
振り返ると、お濠端に警視庁の大きなビルが威容を誇っていた。

★半蔵門 / 半蔵門より甲州街道(新宿通り)を望む

左手に国会議事堂、国立劇場などを見ながらお濠端の道を進むと、半蔵門につく。ここには警察の詰所があり門内は立ち入り禁止になっている。ここからは天皇の宮殿に直接通じているのだろう。江戸時代初期に服部半蔵の屋敷があったので、半蔵門と名づけられた。昔は山王祭りの行列がこの門から竹橋に抜けたという。両門間の通行は明治の末期まで広く許されていたのである。
甲州街道はここで左に曲がり、新宿通りに入ってゆく。

★玉川上水番所跡・水道碑記・四谷大木戸跡碑 / 四谷四丁目交差点(四谷大木戸跡)

甲州街道(新宿通り)は麹町を通り、JR四谷駅前に出る。この近くには四谷見附があったというが、現在は何も残されていない。さらに進むと四谷四丁目交差点に出る。この交差点の真中あたりに四谷大木戸があった。
交差点の近くに大木戸跡碑が建っている。同じ場所に玉川上水水番所跡の説明がある。玉川上水はここまでは開渠でここから先の江戸市内には石樋、木樋などの水道管を地下に埋設して通水した。水番所には、水番人1名が置かれ、水門を調節して水量を調節したほかごみの除去を行い、水質を保持した。また、同じ場所に水道碑記という大きな石碑が建っている。これは玉川上水開削を記した記念碑で明治28年に完成したものである

★太宗寺の六地蔵 / 同 閻魔堂

交差点から500mくらい先の右側少し入ったところにに太宗寺がある。境内に入ってすぐ右手に六地蔵がある。これは江戸六地蔵の第三番として1712年(正徳2年)に造立されたものである。東海道の品川寺でも見たが、あのお地蔵様よりも小ぶりである。このお寺は高遠藩内藤家の菩提寺であり、内藤家歴代の墓もある。また、ここには閻魔堂があり、中には高さ5.5mの木製の閻魔像が安置されている。このため太宗寺は「新宿えんま寺」とも呼ばれた。

★新宿追分付近 / 新宿御苑正門

内藤新宿について、江戸名所図会には次のような説明がある。「甲州街道の官駅なり。・・日本橋より高井戸までの行程、およそ四里余りにして、人馬共に労す。よって元禄の頃この地の土人(さとびと)官府に訴えて新たに駅舎を取立つる。ゆえに新宿の名あり。・・・」その後一時廃亡したが、明和9年(1772年)に再興しその後は繁昌の地となった。また、この地は追分とも呼ばれたが、これは甲州街道と青梅街道の分れ道だったからである。現在、この地に昔の面影を探すのは難しい。「追分だんご」の看板を掲げたお菓子屋があるのが唯一の名残だろうか。
ここで新宿御苑に触れておこう。ここは、信州高遠藩主内藤氏の中屋敷跡である。明治21年に宮内省の植物御苑となり、同39年に皇室用新宿御苑に、そして第2次大戦後国有となり一般に公開されている。中には日本庭園、フランス式庭園を始め広大なスペースに見どころがいっぱいである。春には皇室主催の園遊会も開かれるが、春の桜だけでなく四季を通じていつ行っても必ず何かしら見どころがあるというのがすばらしい。私も一時期、暇さえあれば出かけ、写真展に応募したこともある。家族連れでもぺアでも、もちろん一人でもカメラを手にぜひお出かけください。(新宿御苑ホームページは、こちら

★新宿駅南口歩道橋より甲州街道東方面 / 同 西方面 / 同所より南方面を望む











追分を出た甲州街道は、交差点を左に曲がり、また、右に曲がって新宿駅南口前に出る。以前の南口は甲州街道が通るだけで何もなく、人通りもあまりなかったのに、最近の賑わいぶりはどうだ。元国鉄用地の再開発により高島屋デパート、東急ハンズができ、線路の反対側にはJR東日本本社、サザンタワービルなどもできて一大人気スポットになってしまった。現在もなにやら工事中であるが、甲州街道の混雑緩和のための交通関連施設、歩行者用のゆとりのスペース創出などの工事をやっているという。そういえば、新宿駅自体もなにやら工事をやっているし、あと1年もすればこの辺もまた、大きく変わっていることだろう。

★新国立劇場 / 玉川上水旧水路

新宿の喧騒を背に甲州街道を西に向かって歩く。現在の甲州街道は昭和40年代に拡幅工事が行われ、中央に首都高速の高架道路が走るようになった。なんとも味気ない道路になったが時代の趨勢で仕方がない。京王線初台駅前には新国立劇場と高層のオペラシティビルが建っている。この辺には、かつて東京工業試験所があった。
少し歩くと、甲州街道に並行して細長い公園が続いている。これは玉川上水の旧水路で、水路は暗渠になっているが上が緑道として公園化されている。トイレ、ベンチなどもあるので一服するにはちょうどよい。私が歩いた日は梅雨の中休みで、結構日差しも強く暑かったので、少し休み水分補給などをした。

★牛窪の道供養碑 / 「笹塚跡」説明板 

幡ヶ谷駅を過ぎ、中野通りと交差する手前左側に、道供養碑が建っている。これは、橋供養と同じように道路自身を供養して交通安全を祈ろうとする全国でも珍しい供養碑だという。同じ場所に牛窪地蔵尊がある。このあたりは地形が少し低くなっており、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれていた。
さあ、いよいよ私のテリトリー笹塚である。笹塚駅前の信号を渡って街道の右側を少し行くと交番があるが、その手前に「笹塚跡」の説明版が立っている。昔、このあたりの甲州街道の南北両側に、直径が1メートルほどの塚(盛土)があった。その上に笹が生い茂っていたことから笹塚と呼ばれていたようだ。その塚が慶長9年(1604年)に設置された一里塚かどうかははっきりしないが、ここは日本橋からちょうど三里の地点である。
ということで、私も日本橋からちょうど12Km歩いたことになる。時刻もちょうど12時になり、お腹もすいてきた。ここで、家に帰ってもよいのだが、まだまだ元気である。行きつけの食堂に入り、ゆっくりと食事をとって先を続けることにする。

★代田橋の玉川上水旧水路 / 築地本願寺和田堀廟所

京王線代田橋駅のすぐ脇に玉川上水の旧水路が一部だけ顔をのぞかせている。少し先でまた暗渠になってしまうので貴重な姿である。昔の玉川上水はここで甲州街道を横断し、ここから先(上流方向)は道の右側を流れていた。江戸名所図会にも「代太橋」として取り上げられており、橋は土で覆われていたのでその形が顕れなかった、と書かれている。
明治大学和泉校舎を過ぎると、築地本願寺和田堀廟所がある。このあたり一帯は、かつて幕府の鉄砲弾薬の保管庫があり、その後は陸軍省和泉新田火薬庫として使われ、大正年間に廃止されたという。築地本願寺和田堀廟所は、関東大震災後、築地から移ってきた墓苑で、有名人の墓も多いという。

★「甲州道中一里塚跡」説明板 / 甲州街道旧道の分岐(上高井戸付近)

甲州街道をさらに進むと、左側歩道上に「甲州道中一里塚跡」の説明板が立っている。この説明板の前方、高速道路の下に、日本橋かから数えて4番目の一里塚があったという。また、このあたりに下高井戸宿があったが、それらしい跡(碑、説明板)などは見つけることはできなかった。この辺は京王線の桜上水駅に近い。
環八の少し先から旧道が残っており、左に分かれてゆく。この辺は上高井戸で、上高井戸宿があったが、ここにも現在は何も残っていない。旧道は千歳烏山の商店街を通り、給田から再び国道20号線に戻る。

★甲州街道旧道(布田付近) / 京王線調布駅

甲州街道は国領あたりで再び旧道が左に分かれてゆく。旧道沿いは国領、布田、調布と商店街が長く続いている。
江戸時代には、旧甲州街道に沿った国領、下布田、上布田、下石原、上石原を布田五宿といい、五宿合わせて一宿の機能を持っていた。ただ、昔の旅人は健脚で、旅人の多くはここを素通りして府中宿まで足を伸ばしていたので、布田五宿は間の宿のような存在だったらしい。このため、本陣、脇本陣はなく、旅籠屋も10軒に満たないひっそりとした宿場だったという。
そんなわけで、宿場時代の遺構、面影などは全く残されていない。
やがて、道は京王線調布駅前に到達する。私は調布にある大学に4年間通ったので、懐かしい駅である。駅前はパルコなどの大きなビルが建ちならんでいるが、駅舎自体は35年前とほとんど変わっていない。今日の歩きはここまでにしよう。

第1日目 (6月29日 日曜日)  日本橋〜半蔵門〜新宿〜下高井戸〜調布 

歩行距離 約24Km   万歩計 43,000歩