過ぎた商業主義
Commercialism that went too far

1998.1.26

商業主義(コマーシャリズム)は時として行き過ぎ、利潤追求者の恐ろしく 身勝手な世界を作り出してしまう。それが当然視され更になんでも為した 者の敷いたレールがルールにさえなってしまうことがある。それは本来無 縁であった領域にまで経済的価値を付加しそれで制御しようとする状況を 正当化してしまう、という憂うべき事態を生み出している。その典型例と して、コンピュータソフトウェアでの例を考えてみたい。

パーソナルコンピュータの近年の著しい普及に伴い、今まで支配的にその オペレーティングシステムを牛耳ってきたマイクロソフトに対抗し得るも う一つの選択肢が台頭してきた。それはリヌクス(Linux)(*1)と呼ばれる PC-UNIXである。

*1 Linuxの発音はたとえばここ、またはFTPにあるファイル参照。

リヌクスはいろいろなところで書かれてよく知られているように、 ... リヌス・トールバルツ(Linus Torvards)氏がスクラッチから作 りあげたもので、現在ではPOSIX準拠のPC-UNIXとして多くの GNU ソフトウェアから成り立ち、GNUの精神が最もよく反映されている といってもよいフリーなOSで、一方、フリーなソフトウェアがなけ れば事実上動かない... オペレーティングシステム(以下OS)である。

リヌクスはフリー(自由でかつ無料)であるが故に広く流布され浸透しまた 改良が多くの人々によりなされ、マイクロソフト製OSに比べて抜群の安定性 で信頼されて使用されている。ところが、これをインストールするパッケージ やこの上で走るアプリケーションなどにかなりの金銭を(媒体や配布に要する 以上に)要求するものが現れてくるようになった。これは本来金銭を含めた種 々の制約から解き放たれた自由なリヌクスというOSの立脚し目的とし意図する ところから離れた危惧すべき状況なのである。

フリーというのは、 GNU宣言にあるように、再配布と改変の自由を認め、それら を妨げず、ソフトウェアという価値のある生産物(精神的活動の所産)の共有を 図ろうという精神で、そのため多く(ほとんど)の GNUソフトウェアはソースコ ードの形で配布されている。そのような形態をとる以上、独占的な流通や経済 的利益の追求を目的とした販売は難しくなる。ソフトウェアの性質上、コピー されて様々な場所に置かれ得るのも当然である。そのソフトウェアを開発した 人(達)の著作権は尊重されてしかるべきだが、作成したことで得られるのはそ の名誉と利用者からの感謝と賞賛であろう。他者にとり役立つソフトウェアが 作り出せたこと自体がその報酬というわけである。これは多くの人々により共 有されそれぞれの環境に合うように改良されまた生き続けることでより高い価 値を持つことになる。さらなる改良と生産をもたらすことになるからである。 フリーソフトウェアは従って、経済的な制約とか限定とかから自由な存在であ る。それ故に多くの人々から支持され使われ価値を生み出しているのである。

ソフトウェアが多大な経済的見返りを要求するようになるとどうなるか。ソース コードの公開されない閉鎖的ソフトウェアが横行するとどうなるか。日常の業務 作業あるいは研究教育活動また趣味で必要とされる計算機環境でそのもととなる 計算機を使うOSが非公開に作られかなりの額を要しその上で使われるべきアプリ ケーションソフトウェアがまた更に多額の金銭を要求ししかも動作には何がしか の制約があるとすればどうなるか。その使用環境に適した形に直したいと思って もそれはできない。その前に、種々の実務や活動のために多大な出費を強いられ る。これはその結果として生産されるものすべてに跳ね返り、それらに対するア クセスや入手利用にまた多大な出費を要することになってしまう。悪循環である 。OSとアプリケーションの作成・使用(利用)にも対価を支払った者だけが使うこ とができて他者を排除することになり、また適した使い方ができないため―改変 の自由がないため―対価として支払った何分の一かは全くの無駄となる。利用環 境でのさまざまな意見や要請も充分には反映されない。もともと利用者がそれぞ れの目的のために構築し導入した計算機環境がその人の自由にはならないことに なるわけである。これは、ソフトウェアの目的であるところの自由な精神に基づ く自由な生産活動という姿からは程遠いものになり、実際的に妨げてしまうこと になるのである。限定された環境での制約の多い利用やそれぞれのアプリケーシ ョンの作成―これもその開発(作成)用言語等に金銭がかかる場合が多い―は結果 として限定的で条件の多いものしか生み出さないのである。

リヌクスも本来フリーソフトウェアである。そこには GNUの精神がある。すべて が公開されていて使うもの次第である。これは、リヌクスを経済的利益のために 利用し制約を利用者に課することとは相容れない。パッケージ化した、GNU ソフ トウェアを含むリヌクスを必要(配布・媒体費)以上の額をつけて販売するものが 出てきたがそれはおかしい。利用者に利便性のある部分をつけても、元のOS自体 ソフトウェア自体はフリーであるのだから、全体で多額の金銭を要求するの形で 商品としてもともと販売者・付加価値部分の作成者が作り出したわけではないの にその者達の生産品であるかのようにして売るのは重大な問題である。もしどう しても売りたければ、パッケージ化と(インストール等の)利便性の部分のみを商 品とすればよい。そこにどれほどの価値があるかは別として。また、リヌクス上 で動作すると称するアプリケーションも、導入にお金がかかり、改変はもちろん 配布の自由もないというのでは利用者にとって役に立つソフトウェアとはなりえ ないであろう。それでもよいと言う人もいるだろうが限定的であろう。
もとよりフリーな土壌なのにその上に制約を設けてshかも金銭を要求するよう なソフトウェアに本当に賞賛に値する、支持されるべき理由があるだろうか。本 当に必要とされる最小限の出費で価値ある結果を生産し得るのはフリーなソフト ウェアでしかないと言えよう。社会と文化への貢献が望まれまた為されるのは自 由で制約と排他性のない環境であると信じる。それこそがソフトウェアの目指す べき方向である。私自身はまだ貢献できるソフトウェア/プログラムは出してい ない(模索・努力中)。

このようになんでも経済的な利益追求を第一に考えそれが社会の価値であるかの ごとく錯覚あるいははき違えた者達により社会が歪められると金銭のためには道 理も人としての守るべき価値も踏みにじり省みないような世界を作り出してしま いかねないのである。お金儲けをするために社会活動はあるのではない、私達は そのために生きているのではない、と言うことを商業主義の横行に照らして思い 直し、真に価値ある社会の実現に向けて歩まなければならないと考える。


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