1998.12.12, 2002.11.26, 12.10
簡単な経過1998年7月25日に和歌山市園部の新興住宅地の自治会主催の夏祭で18時ごろ 用意された共同調理のカレーライスを食べた人達が異常を訴えた。66人が 吐き気や頭痛、その後4人が死亡、そのうち一人から司法解剖で青酸化合物 の反応がでたと発表され、警察は青酸を使った無差別殺人事件と断定した。 しかし、その後の分析で青酸化合物の検出は誤りで、新たに砒素化合物が 見つかり、亜砒酸の混入が疑われた。
初期捜査の不確かさは例によってであった上に、医療機関での対応・対症治療 にも問題があったため、死亡者と障害者が増えてしまったのは残念である。これ 以前にも、多くの初期対応のまずさで長引いた障害を負ったケースは多い。東京 のオウム真理教信者による地下鉄サリン事件、それに先立つ松本サリン事件でも 同様であったが、それらの教訓は医療機関にさえ、生かされていなかった。実際 に経験したおよそ毒物による障害症例の知見の少なさゆえ、とはいえ、積み重ね られてきた貴重な知識をもって判断を的確にできなかったのは致命的な失敗であ ったと思う。殊に、青酸カリ等とヒ素中毒とを見誤るとは、医師としてやはりそ の種種の面での不十分さはもっと批判的に議論されていいと考える。この後、和歌山市園部地区に殺到する報道機関所属の記者たちにより、やはり、 決定的に「悪い」意味で注目された一主婦がその実行犯として叫ばれた結果、 最終的に逮捕された。確かに、保険金詐取をもくろんだ疑惑で取りざたされ、こ れもやはり結果的に裁判でも有罪とされた (この夫の林健治・受刑者)。徹底的に 一方的に攻撃され決めつけられて起訴されることになる。このケースはどこか、 「疑惑の銃弾」事件の三浦和義氏の場合と似ている。マスメディアの一部の一方的 で、変な意味で「先験的な」あるいは、「先見的な」報道とその結果に導かれて 裁判に連続的に付されることになったあの奇異な事件である。これも、問題は、 三浦氏が犯人かどうかではない。
行為の必然性に対する疑いこの裁判の表面上の主役、林真須美・被告の起訴の唯一の物証は、事件後、かなり 時間が経過してからの自宅とその周囲でのヒ素化合物粉末の「採取」である。文字 どおり、後で付けられた付加的な証拠である。しかし、それでおわかりのとおり、 これ自体、そこにあった、という証明にはなりうるかもしれないが、そのカレー鍋 への混入行為を直接しめすものとは言えない。その家 (これは、事実、「不幸にも」 放火で焼失したと同時に後からの検証に供されるべきものすべてがまた消失したこ とになるし、これは林被告にとっても、被害者にとっても、私たちにとっても悲し むべきことである) に存在したことと林被告の実行行為とを結びつける必然的理由 とはなっていない。論理的にも、実際的にも (というより、現実的にも) 他の第三 者の存在を否定できないし、あり得るのである。存在と行為の連関性が極めて疑わ しい。
第二に、検察官の述べた「激昂」ならぬ「激高説」である。調理への参加協力が遅 れたことで陰険な言い方で非難されえて感情が高ぶり腹立ち紛れ、腹いせにカレー 鍋に放り込んだ、という理解である。これは、いうまでもなく、動機、つまり、殺 意の存在の有無、という点で決定的に重要とされる。これも、主として新聞各紙で も疑念が指摘されているし、先ごろ (12月8日)の毎日放送、いえ、TBS の 報道特集でも他の疑念とともに 強調されていた。その「不純な」動機と殺人衝動、あるいは傷害行為に至る動機づけ においてその短絡的な方向づけに疑問が呈されている。困難さの証明にその被告の 強調された一面の意図的な編集によった報道ビデオを証拠としたことにその矛盾が 露呈している。のちに、検察官自身、それを否定したという。不合理な経路に理由 づけを意図して作られた説明に論理的に認められる合理性は存在しない。地裁がそ れを証拠採用したのは明らかに誤りである。
そして、多くの人たちを傷つけあるいは死に致らしめる行為にそもそも為されなけ ればならなかった事由があったろうか、というもう一つの決定的問題が残っている。 犯人が誰であれ、無差別に毒物を盛る、というおそらくは異常な現実的行為に対して はやはりそれなりの理由が必要だった、ということである。私たちにしてそうであり 、被害者やその近親者にとってはなおさらだと思う。その行為やその前の欲求を誘う 理由 (誘因)、 実行行為への駆動力たる思い (動因) についての詳細で批判的な追求 と解析が為されていない。この種の事件では常にそうである。腹を立てた、というど ちらかといえば曖昧な理由で飛躍する行為に至るには、かなりの抵抗と障壁が心にお いても現実においても存在しただろうという蓋然性のもんだいなのである。もちろん 最近のとりわけ「無軌道」な若者 (十代が多い) によるなんとも幼くささいな理由で 簡単に人を殺す事実はしかし、この事件とは同列には置くことは極めて困難である。 しなければならない、という強い理由を見いだせないことが私たちをして林被告への 非難を思いとどまらせている。証拠としての分析
最先端の分析機器を使ったといっても、分析者がもとより予断と偏見の中に あっては客観的な判断はできないし、考察は当然偏ったり歪んだりする(は っきりいって誤りになる)。科学警察研究所などはなおさらである。その重 大な(やってはならない)誤りの例は先述した。ごく微量の(オーダー明示) 分析を進めるなら、多くの比較と検量が必要であり、時間も手間もかかるの である。十数個の試料をいきなりかけて正確で精密な分析が果たして本当に できていたのであろうか。仮にできたとしても誤差や種々の変動についての 考察は不可欠である。国内にわずかしかない施設ゆえに、直接扱える研究者 でさえ多くはないはずであり、実質的な分析についてどれほどの批判的検討 がなされてきたのか疑問である。その結果が知らされ(発表され)考察されて きただろうか。信頼性は古典的方法よりかえって低い場合も有り得るかもし れない。 肝心の試料だが、これが最大の問題である。その後(の分析)を決定付けるだ けに、採取の方法と時間、採取者にあまりに問題が多い。分析化学を学んだ わけでもなく、訓練を受けたわけでもなく、その方法を批判的に検討し続け る人たちでもない。なにより、その採取方法 (サンプリング) は決定的に重 要である。さんざんに荒らされた土地と空間において多くの者たちが踏み荒 らした場所で、経験の有無や時間をも問われない警察官やその関係者の、お そらくは、ひょい、と入れた「試料」によっていると思われるのである。採 取の過程での汚染の問題、試料の保存・保管と運搬の問題、そして取り扱い の問題がこちらからは一切知ることができなかった。試料の信頼性にはあま りに疑問が多すぎる。何よりも、それは無作為に選ばれた地点からの複数の 試料からの全くの無作為の分析による比較から知られた試料の分析によって 決定づけられたものではなかったからである。兵庫県でのシンクロトロン放射光研究施設、 スプリング−エイト (Spring-8) での証明、あるいは証拠化は、まさに 林被告宅での試料にのみ依存した合目的的分析と解析の結果である。そこへ の持ち込みと唯一の同一比較試料のない分析にどれほどの信頼性、客観性が あろうか。はじめからどれがなにで、だからどうなのだ、という予見が存在 している。そこに「証明」を求め、期待したのはその「動機」において誤り であった。
分析を行う前に考えなければならないことを充分に示したうえでの結果の証 拠提出 (鑑定というらしい) ではないことを裁判官 (判事) はもとより、そ れをただ黙って見て聞くしかない私たちも知っておかなければならない。い つ私たち自身にみまわれることになる不幸かもしれないのである。
- 予見と思いこみによる決めつけ、それは当初からの期待に沿うもの、
- 広範で基礎的な測定・分析の蓄積とそれらの批判的検討と評価に基づいてなされたとはいえないこと、
- 調べられた試料は被告の家のものだけでさらに、出所 (採取) に疑問があること、また変化を考慮していないこと、
- 合目的的、意図的な蓋然性の導出あるいは取ってつけたような引き出し方、
- 化学はあるいは科学は意図的で恣意的な行為や目的、利己的な思考や願望の達成と正当化の手段ではないこと。
行なってはならないこと
ややもすれば人間はいわれのない偏見や先入観をもちがちである。しかも、いったん それを持つに至るとそれを正当化しはじめるから始末に悪い。そして、なにも明白で 合理的な理由がなかったにもかかわらず、それが先にあったかのようにまくしたてる 輩が実に多い。真実は、そうしている者たち自身の内面の醜さに他ならなかったのに 、である。
先入観による視点の固定化、「はじめからこうなのだ」、というあまりに幼く未熟で 成長も進歩も自ら否定したような強い主張には本質的に理由がない。自らの醜さで醜 態を晒してそれを当然視するかのような言動や行為はその他者への侵害の酷さからも 絶対に許されてはならない。ましてや、それが「正当な」法の下での裁判ともなれば なおさらである。作り上げられた偏見を、決めつけを助長し妥当な見方としてそこに その存在を肯定するかのような主張は私たち自身が否定していかなければならない。 もし「世論」が存在し、それにより判事の判示が社会のテーゼとして認容されるとい うならば、それは私たち自身が律すべき基本的な法なのである。立脚すべきはどこに あるのか、振り返って考え直すことが必然である。
事実や合理性を否定し自らの利己的一方的主張や願望を実現せんがために目的とした 方法や行為言動そのものをその効果により植え付けて正当化せしめようとする行為は それゆえにはじめから否定される。そこにそれ自体、存在理由はない。
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