表出と顕在化
断絶・隔絶・分断
増殖する自己中心性
ハラスメントあるいは嫌がらせ
失われた心
自由からの逃走
2007.10.21
最近とみにニュースでも報じられるようになった親と年端もいかない子供との関係、小学校から始まる実にバラエティーに富んだいじめの実態、
子供による親殺し、その逆、街頭や道路上での行きずり・行き違いにおけるいさかいによる殺人、近隣の迷惑行為(騒音おばさん等等)、執拗な
嫌がらせやつけまわし、少女を標的とした殺人、限度を知らない暴力、企業を中心とした利己主義、排他的人間関係の拡大など、心理的に驚くべき
飛躍、恐ろしいほどの行為の短絡が目立ちます。また、その社会に対する暴露、意図的であからさまな表出もその著しい特徴です。
かつて保たれていた地域間、あるいは広い範囲の実質的で連続的なつながりが極端に薄れてきています。それぞれに別々の生活と経済で成り立つ、いびつな
構造が出来上がりつつあります。昔あった隔絶山村(たとえば五箇山、椎葉村、五木村、祖谷地方など)と周辺の地方都市のような関係に似ているでしょうか。
昭和になって形成されたある意味豊かな交流を保った都邑の関係は近年急速に消えてしまっています。人口バランスの崩壊は田舎では特に著しく、そのための
負担とたわみやゆがみは生活者を圧迫しています。都会や「まち」は内部における乖離がはっきりと現われているかのようです。一時的、刹那的な修復や
持ち合いがあってもすぐに離され、持続的で継続的な人々の関係性が見えなくなっています。表面的なもたれあいや見守りなどと称した大人たちによる
子供たちの「監視」も本来のつながりとは無縁の存在であるかのような、どこかなじめない風景です。事実、そのモデルとして「国」から表彰まで受けた
加古川で7歳の少女が刺殺されています。何も機能せず、誰も守ってやれませんでした。
この傾向を加速させているのはいうまでもなく、企業活動の利己性です。そういった自己中心的な考えや行動を持った大人たちが結果はもちろん、周囲や
周辺、底辺を見ることも知ることもなしに進める集団としての活動は社会の歪みとゆがみを生んでいるのです。ちょっと問題が起こるとすぐに、必ずですが、
後になって、「再発防止」とか言って『コンプライアンス』を声に出し、法令を順守し「適正化」に努める、とのたまいます。でもそれもまた、いずれ言葉
だけだったことになるのが落ちです。その繰り返しで企業社会は成り立っています。彼らがルールを破る前に、ルールがあり、適正な社会慣行が存在し、
法律も制定されていたのです。彼らの目的からはそういった網をいかにかいくぐるか、いかにごまかすか、いかになきものにするかにばかり知恵が回り
そのための手段は選ばないのが彼ら自身なのです。企業のために法があるのではないのです。身勝手な行為言動を繰り返し、その広範化と既成事実化を進める
ことで逆に、「法律が現状に合わないから」などと平然と強弁するのですから呆れます。
私たちは本来、自己抑制とその思考によって行動を規制しているはずです。一人ひとりのその姿こそ、社会の規範を形成してきたはずなのですが、それは
ひとたび集団化した利己主義の塊となると反対に個々人や社会の抑制と抑圧に向かってしまうのです。本当の個人主義は利己主義ではなく、一人ひとりの
尊重にあるのです。個人の尊厳を守り、保証するところに社会の基盤を置くべきなのです。
あからさまな、わかりやすい嫌がらせ、たとえば隣人に大音量でラジオを鳴らすとか、汚物を近くにわざと置くといった方法はまだやさしいといわざ
るを得ません。そのままに素直に表出された醜さや不満はむしろ、健全です。それに引き替え、ハラスメントと一般に言われる行為・言動は時として
常軌を逸していながら、それを防ぐ手立ても守る手段も持つことが困難な場合が多いのです。また、それを行うのは上位に位置する人たち、力を持つ
側に多いのは言うまでもありませんが、これが同列にある中でもなされるのも現実です。その一つの例と言えるのが、いわゆる「いじめ」です。その
大人版がモラルハラスメントともいえなくもありませんが、大人の集団でもまた、いじめは一般に行われます。回避するには、守るには、逃れること
と離れること、それしかありません。
もうひとつ、忘れてはならないのは、生物としての生育上、とりわけ脳の正常な発達に及ぼす食の問題です。具体的には、食物自体にあります。加工
食品やジャンクフード、パッケージ化されたお菓子類、わけのわからない輸入食品に多く含まれるのはこれまた、わけのわからない食品添加物と過度
の含有量です。法律に定められた量や割合などは確かに一見、「適正に」配慮の上認められているように思えますが、それも一般にそれのみを摂取し
たとしてのもので、現代のように種主雑多に、それもかなりの量を小さい頃から摂取するとすると、その身体的な影響と発達における障害は複雑で
一概に、一律にこれだけなら大丈夫、とはいえないのです。その影響こそが生理学的に、さらには遺伝学的に著しさをどこか脳内で生じさせていると
考えるのは決して、「飛躍」や「妄想」ではないと思うのです。
もし取り戻せるならば、それは私たち自身でその存在の自由な原点や出発点を見つめなおし、立脚すべき基盤に立ち返ることでしょう。誤った個人
主義の思い込みやその他者、とりわけ子供たちへの植え付けは社会を荒んだ醜いものに変質させてしまいます。改たむるに憚ることなかれ、という
ように、いまからでも、もう修正では利きませんから、変える方策を講ずるべきです。社会の衰退はもう始まっています。現在が進歩した社会だと
錯覚しないで、もっと現実を見つめて、振り返ることから始めなければ治りません。崩壊する前に。
3月17日の零時のNHK総合テレビのニュースで、自民党の朝日新聞への『通告書』 についてなぜかトップで伝えていました。このような報道こそ疑問を感じさせるのですが、この種の一方的な伝達報道が目立つのがNHKの問題なのです。自民 朝日新聞は誤解与える 03/17 00:03何のために これをそのまま受け取ると、まさに「誤解」を視聴者に与えることになります。自民党はそういう意図で行ったのだ、と受け取れば それも真であり、それは「誤解」です、というならそれもまた真でしょう。記事、報道がその命題とすれば、それ自体は真であり、 それが示すところは偽である、とする自民党の主張あるいは強弁は真である、といえますが、またその真実性を問題にしたはずの記 事を問えばその申し立ては偽である、と言えるわけです。これより、この命題は真である、と述べることができます。つまり、これ は「誤解」を与えていないことになるわけです。ここのところが問題であり、平たく言えば、危険な香りを漂わせるところでもある わけです。
それによりますと、朝日新聞の記事について、「衆議院総務委員会を傍聴すれば、 NHKは、『予算と事業計画の説明のため』面会の約束をしたことが容易にわかるの に、記事では、まったくこの点について正確な記述がされておらず、かえって、NHK が『番組の事前説明のために』面会の約束をしたという誤解を読者に与えかねない」と 指摘しています。また、総務委員会での質疑で、NHKの番組に政治的圧力がかけられ たとする朝日新聞の記事が、事実無根であることが明らかになっているのにもかかわら ず、記事で一切触れていないとしています。そのうえで、通告書では、事実を正確に 報道することが使命の報道機関として、慎重に客観性のある記事になるよう配慮を求め るとしています。
NHKがこれをそのまま伝えたという真の命題をそのまま、NHKが『自民党とはこんな手前勝手なことを平然と主張する連中の集まりで だから報道したのだ』という伝達であると受け取ることは視聴者としては至極当然の受容であるわけです。これもまた、真なのです。 さらに、これをそのまま事実として受け止めれば、これはNHKの一方的な受容であり、取材対象の一方的な主張をそのまま受け入れて 伝達するだけで昂然としている尊大な伝達媒体であることをみずから公然と呈しているといえます。いや、事実、そう言ってらっしゃる のです。私たちはこの了以を命題としてその伝達・報道の受容に傾き、その意味を知るのです。NHKという放送局を信頼すればまた相 反するかもしれない二面的な事実をその命題として受容することになります。およそ私たちは、政治家という連中は嘘を平然とおつき になる方々であり、その申し立てを無邪気に受け取ってはなりません、ということは当然の了以として持っていたわけです。そこから 私たちが逆の命題として、この報道を問えば、知るべきは自明なのです。
この報道は、朝日新聞の記事について、が問題なのではなく、まさにこの報道のとおり、自民党の主張と行動にあります。そして、 当の背面の当事者であるところのNHKはその事実を報道しようとしたわけです。その命題を提示して問うたのはNHKであり、自民党の 主張に即して言えばこれはまさに視聴者に「誤解」を与えかねない、といわれるでしょう。「誤解」はまさにその報道にある、とし た側に主張されるところですから、これは伝達媒体が「誤解」を与えた、とは言えないのです。何を伝えるか、何を知るか、どう考 えるか、はそれぞれの表意者にかかってくる命題であり、「誤解」だと主張する側にはありません。報道はまさに、事実を知り得た 限り伝え、これをどう判断するかは私たちにかかる命題です。しかるに、このNHKの深夜の報道は自民党について事実を確かに伝えた のであり、朝日新聞についてとやかく言っているわけではありません。何が事実か
2001年1月30日の従軍慰安婦問題を取り上げた番組の内容に関し、NHK予算審議を行う衆院総務委員会の委員でない古屋圭司、安倍晋三、 中川昭一の少なくとも三名の議員に対し、NHK側から伊東律子番組制作局長、他に放送総局長らが事前に説明に訪れ、 意見を求められた、との話です。このことを、今年の1月13日、NHK番組制作局の長井暁チーフ・プロデューサーが圧力があって改変さ れた、と涙で告発の記者会見を行ったことです。この人が売名行為に及ぶ理由はどこにもありませんから、事実を身を懸けて述べた行動、 と受け取るのはまた受容する側の私たちからみれば至極、当然でしょう。これを、中川氏はフジテレビの報道2001という番組で1月23日 にしどろもどろで認めたわけです。若い女性アナウンサーに念まで押されていたから滑稽です。新旧の放送総局長の二人は1月19日にNHKで 会見して事前説明を通常行われていることである、とのたまわっています。
1月15日の衆院総務委員会でのNHKの「説明」は、活動を支えるはずの、視聴者からの受信料支払い拒否は70万件に達し、増える見込み、との 内容で、その直接の原因とされる職員の不祥事、さらに決定づけてしまった上記の「政治介入の受容」問題でなお、政治家よりの姿勢しか示 さず、独立した、それこそ報道を行う者としての尊厳さえ否定するものでした(後の自民党総務会の政治家への”言い訳”)。そして、恰好 の機会ながら示すべき変革の姿勢を見せなかったことです。
問題の調査はNHK自身によったこと、それをそのままそれでよい、とした小泉首相の愚かしさは際だっています。第三者機関に依るべきであり その内容と結果を公開すべきでした。何をすべきか
民放と決定的に異なる収入源の確かさと幅広さに根ざした視聴者、というよりも、国民の立場に立った権力や暴力、圧力に真っ向から対峙す る姿勢を国民であり、一人一人はどうしようもなく弱い私たちは期待しています。権力者にすり寄ったり、意見を求めたり、いえ、この表現 が不適当ならば、了解を求めたり、その前後で内容を変更したりするような軟弱な態度はきっぱり捨て去ることです。これを会長は衆院総務 委員会で明言すべきでした。始めから自身に負けていたのです。涙での告発を見た私たちは、その理由如何にかかわらず、その行動と姿勢に 少なからず共感を覚え、讃えたはずです。そういう人が内部にいるのに、力と代表の立場を与えられた会長らがその姿勢を示せなかったとは あまりに情けないと思うのは当然でしょう。そのプロデューサーを守り、声を合わせて、どうして他の職員は行動を起こせなかったのでしょ うか。ここにも基本的に欠けている報道者としての姿勢を見ることができます。日本全国に支局を持ち、声を取り上げて放送に生かすべきで す。それが直接伝わり、明示的に為されなければ、受信料支払い拒否は止むことはないでしょう。取ってしまえば我々のもの、ではありませ ん。使途は明確に力を拒絶すべきなのです。そして、なにより、事実をありのままに報道する姿勢こそ、放送局としての基本的な原点であり 欠くべからざる姿勢なのです。