壱ノ章...物井一門

「幸神座様、御当主様、どちらにいられます。御当主様」
物井家の廊下で女が当主を探し回っている。顔は少し青ざめ、おろおろと叫び続ける女。彼女は物井家の使用人の一人だ。
「何をそんなに慌てている?」
突然後ろから高くもなく低くもない不思議な声が聞こえた。が、女は振り向かず、一層おろおろしながら答えた。
「御当主様がいらっしゃらないのです」
「だから私に何用だ?いいかげん落ち着きなさい、凪(ナギ)」
その言葉に凪と呼ばれた女は振り返り、声の主を己の茶眼に通した。映ったのは黒眼で黒髪を頭の高い位置に結わき、白い衣を纏ったすらっとした女性だ。一見すると日本人形のように見える。
女はそれが目的の人物だとわかり、ぱっと顔を赤くして膝をついた。
「御当主様。今までどちらに?お探し致しました。」
「少し庭を歩いていた。凪、何用だ」
顔を上げられないまま、凪は話を続ける。
「はい。今しがた要様がご到着致しまして、御当主様をお呼びで御座います。お早く要様の処へ参上して頂きたく...」
「兄様が...私はあの人と会いたくはない。凪、幸神座は今留守だと伝えなさい。あれだけの騒ぎをしたのだ。見つからないと言っても支障はないはず」
冷たい言葉と共に、幸神座は再び庭へと消えていった。
「そんな、御当主さま!!」
凪の叫び声すら無視して、幸神座の姿は完全に庭の中へと消えていった。

                            †

暫く歩いていくと、木々に囲まれるように小さな庵が一軒、ぽつんと建っていた。戸を開き、中に入る。約6畳程の庵には真ん中に布団が一式引いてあり、その枕元には水差しが置いてある。他には小さな飾り棚があるくらいで殆ど何も無い部屋。その部屋に青年が静かに眠っていた。
パタンと戸を閉め、幸神座は青年の横に静かに座り、頬に手を当てた。
「精...」
その青年の名は謳美 精。12の時から眠り続けている青年だ。年の頃は21。
「貴方を巻き込んでしまったのは、私の咎...赦してね、精」
反応の無い青年に幸神座は力無く語りかける。が、いつまでもその余韻に浸っているわけにもいかず、すっと立ち上がり、
其のまま戸の方まで歩く。カタッと乾いた音を起てて戸に手を添え、青年に振り返る。
「……………」
紡ぎかけた言葉を押し殺し、幸神座は静かに外に出る。閉めた戸のすぐ横に背を預け、幸神座はそっと目を閉ざす。
此の一族の呪いを思う。否、想う。悲しき呪い...
「逃げたくなるのもわかる...」
小さくちいさく呟いて、幸神座は主屋の方へと歩き出した。

                            †

カサっと葉を揺らす音と共に、大柄の男が茂みから現れた。
「此処に居たのか、幸神座」
男の名は要。先程幸神座を探していた者だ。
「何用ですか、兄様」
冷たく言い渡す幸神座に要は苦笑する。
「毛嫌いしないでくれ。お前が俺を嫌っているのはわかる」
「そんな事はどうでも良い事です。何用なのですか?用が無いのなら呼ばないで頂きたい」
先程よりきつい口調で幸神座は言う。要の顔は変わらない。
「用が無いなら呼んでは駄目か?兄妹だろう」
「家を捨て、何もかも私に押し付けた貴方がですか?笑わせますね」
冷淡な微笑み。幸神座は淡々と続ける。
「此の家は兄様が継ぐはずだった。けれど、家を捨て、一族を捨てたのは貴方です。貴方は既に此処の人間ではありません。用も無いのに当主を呼ぶのは如何なものかと?それと、貴方が此処に足を踏み入れること自体、無礼なことこの上ない。即刻この場から立ち去り、お帰り下さりますよう。要殿
ふっと目線を外し頭を垂れて、幸神座は要の横を通り過ぎる。
「私は貴方を許してはいませんよ」
すれ違い様の一言に要は何も言えず、動くことすら叶わなかった。
幸神座が立ち去ろうとした刹那、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「御当主様。こちらでしたか...あ、要様とはお会いできたようですね」
「夙(ツト)、お客様のお帰りです。門までお送りして差し上げなさい。それと、客人はきちんと客間に通すよう言いなさい」
夙と呼ばれる使用人に告げ、幸神座は再び主屋に向かって歩き出した。
「あ、あの...承知致しました。さぁ、此方です、要様」
夙は何か言いたげではあったが、其の侭当主の言葉通り要を門まで案内した。

                            †

主屋に着いた幸神座は、履物を揃え縁に上がり、廊下を静かに歩く。角を曲がろうとした時、其処に少年が1人立っているのを見つけた。
「どうした吉凶。珍しいな、部屋から出るなんて」
吉凶と呼ばれた少年は手探りで幸神座に歩み寄る。
「幸神座が怒っているから来た」
淡々と喋る少年吉凶は、目が見えていない。けれど、そのせいもあってか、人の感情に対しては非常に敏感である。幸神座は吉凶の肩を取り、怒ってはいない と告げ、そのまま吉凶を部屋まで導いてやる。
吉凶には嘘はつけない。嘘は直ぐばれてしまうのだ。そう、幸神座は怒っていない。むしろ...
「呆れているんだ。家を捨てたものが、ああも簡単に帰ってこれるということに」
皮肉な言葉を冷淡な笑みに混ぜた。けれど、吉凶は淡々と喋るだけ。
「要は後悔している。幸神座に全てを押し付けたことを...だから今日来た」
「今さらそう後悔してくれなくていいさ。吉凶はやはり今日要が来ることを知っていたんだな」
幸神座の言葉に吉凶はこくんと頷いた。
「未来に対して支障が無かったから言わなかった。駄目だったか?」
其の言葉に、ぽん と幸神座は吉凶の頭を軽く叩いた。
「否、別に問題ない。伝えていても、いなくても要には会わなければならなかっただろう」
そして、着いた吉凶の部屋の中に本人を促し、幸神座は部屋の襖を閉めた。そして幸神座は自身の部屋に向かった。

                            †

部屋の前に辿り着き、そっと襖を開くと、中には吉凶より年下だと思われる少女がいた。幸神座の姿を見て、タタタッと駈け寄ってくる。愛くるしい姿に心を和ませながら、幸神座は少女の頭を撫でてやる。
「良い子にしてたか?殺女」
殺女と呼ばれた少女は小さくこくんと頷くと、幸神座の手を取り長椅子の方へと導く。幸神座は、促されるまま、すとんと椅子に腰掛け、定位置とばかりに、殺女は膝の上に乗る。けれどそれもいつもの行動と見えて、幸神座は変わらず殺女の頭を撫でてやる。これまでで一言も喋らない殺女は失語症を患っているのだ。
「お前が喋れたらどんなに良いだろう」
疲れた様な呟きと共に殺女を抱え込む。殺女は捨てられていた処を幸神座が拾ってきた少女だ。その頃から既に言葉を失っていて、名は持っていたぬいぐるみに掛かっていた札に記されていた。向日殺女と...
不安そうに幸神座の衣の裾を掴み、顔を見つめる殺女。その仕草に、大丈夫。と告げ、再び頭を撫でてやる。しばらくそのまま時が経ち、部屋の障子に静かにノックがされ、開く。そこにはきちんと正座をして頭を垂れる先程の侍女、夙がいた。
「御当主様、失礼致します。裄次様がお見えになっております。客間のほうにお通し致しましたが如何為さいましょう」
「稜が...どうする、殺女?」
幸神座の言葉にこくんと頷いて見せた殺女。幸神座はそれを見て夙に告げる。
「ならば此方にお通ししなさい」
「はい。承知致しました」
深々と頭を垂れて夙は障子を閉ざし立ち去っていった。
稜とは幼頃からの友人であり、互いについて抵抗なく話し合える仲なのである。だからこそ自室に呼ぶことができる。でも何故急に尋ねてきたのだろう?何かあったのだろうか?などとあれこれ考えていると、再びノックがされ、開いた障子の先に夙を控えさせた青年が立っていた。
「久しいね、幸神座様」
ふざけ半分の言葉遣い、顔にも笑みが浮かんでいる。
「相変わらずだね、稜。夙、もう良い。下がりなさい。ご苦労様」
軽く頭を垂れて静かに障子を閉め、夙は立ち去っていった。そして人の気配が完全に消えると殺女は立ち上がり稜に近づき裾を引っ張る。それに従うように稜はしゃがみこんで殺女の頭を撫でてやる。
「今日わ、殺女」
優しい稜の声に殺女はニコっと微笑み再び幸神座の基へ戻る。その殺女を優しく撫でてやり幸神座は稜に問い掛ける。
「今日は如何した?又、何か有ったか?」
其の言葉に反応して、稜は幸神座の隣に座した。
「別に何も無いさ。要さんが来るって耳にしたものだからね。来てみた訳さ」
ふざけた口調ではない。極普通に喋っている。なので幸神座は何も答えなかった。その反応が当然だと思ったのか稜は小さなため息をつく。
「やっぱりな。赦せる訳無いと思った。要さん急に出て行ったからな。残されるお前が跡目に成ることは必然的に決まっている訳だし...」
「私がそんなに小さい人間に見えたの?」
凛とした声で幸神座は稜を見据えた。
「私は兄様が出て行くことを知っていた。吉凶は其の時既に居たから...当主に成る事だって別に苦では無かった。私が兄様を赦せないのは...」
口を噤んだ。この先を言ってどうなる訳でもない。其れに此の先には誰にも言えない秘密が有る。例え其の相手が稜であっても...其れを察知したのか、敢えて聞き返しはしなかった。其れに気づき、幸神座は口を開く。
「其のために来たの?」
あぁ、と稜は答えた。
「あと、吉凶に先見して貰いたくてな」
「吉凶に?」
「あぁ、話はして有る。少し時間が欲しいらしかったからお前に処に来たんだよ」
これでも心配してたんだぜ。と稜は言う。くすっと幸神座は笑い、ありがとう。と告げた。
少しの間が有り、殺女が襖に指をさす、と歩いて来る人影が見えた。其れはきっと稜を呼ぶ為に来た者だろうと知れた。案の定其の影は立ち止まり坐ったように見え、襖にノックがされた。
「御当主様、失礼致します」
其の声がして静かに襖が開いた。夙だ。
「ご歓談の所申し訳御座いません。吉凶様の準備が整いましたので稜様をお呼びに参りました」
「あぁ、ありがとう夙さん。では又、失礼しますよ御当主様」
「いい加減ふざけるのは止めなさい、稜」
幸神座の言葉に笑いながら、稜は夙と共に幸神座の部屋を後にした。部屋に残された2人は襖に映る影を見送った。
人の気配が消えた後、幸神座は殺女を膝から降ろし、すっと立ち上がった。殺女は不思議そうに幸神座を見つめている。幸神座は部屋の隅に在る飾り棚から一本の檜扇を取り出した。淡い緋の和紙を開いて香を馨く。ぱちん、と閉じて面前に掲げる。ぱん、と再び軽い音と共に扇を開き幸神座は舞を始める。
――其の手は滑らかに線を描き、軌跡を辿る。ゆっくりと、優雅に上へ下へと扇自身が意思を持っているかの如く宙を泳いでいた。―――
扇を動きを興味津々に眺めている殺女。檜扇の動きは徐々に止まりだし、額近くに掲げられた扇をぱちん、と閉じた。刹那、空間の時が止まる。其の後に殺女の笑みと拍手が部屋を満たした。ふぅ、と息をつき、扇を元の場所へと戻す。
「迷いがある舞は美しくはないけれど、舞うと迷いを断ち切れるのもまた事実...」
長椅子に腰掛けていた殺女は幸神座に近づき袖口を掴んで顔を上げる。幸神座は優しく微笑んでしゃがみ、殺女に目線を合わせて頭を撫でてやる。
「心配しなくて良い。兄様に会っただけで揺るぐ心じゃないよ」
真っ直ぐと芯のある瞳。語っているのはずっと先の未来...
「私は此の一族の呪いを断ち切る為に生まれた者。其れだけの存在だから...」
殺女を抱きしめる。心を落ち着かせるように...
「この一族には滅んでもらわければ成らない。確実に...」




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