///来運1遺跡から焼失家屋と平地住居を考える。

【調査が再開される来運1遺跡の焼失住居に建物構造解明が期待される。】
-2005.07.17-

 今年注目される調査の一つに、昨年縄文時代中期の焼失住居が見つかった、北海道斜里町の来運1遺跡が上げられる。 昨年の調査では建物遺構の一部と、おびただしい量の炭化材が確認され、本格的な調査は本年度に行うとのことであった。 縄文時代の建物構造解明にどこまで迫れるか期待される。

 大島直行氏によると、北海道の縄文時代の住居3,440軒を対象とした焼失住居の検出数は179軒に上るという。 また、その数は中期から後期に掛けて増加するという分析結果が出ている。
(1994大島直行「縄文時代の火災住居-北海道を中心として-」『考古学雑誌第80巻1号』)
焼失住居の性格に、住居内の遺物が非常に少ないという実態があり、炉の無い焼失住居も見られることから、故意に住居を燃やした可能性が示されている。福島県の宮畑遺跡では中期末の焼失住居が重複して確認されている。 数時期にわたって焼失を繰り返していて、住居を燃やす習慣があったのではないかと考えられている。
こうした行為に対して、忌避的な儀礼行為あるいは廃絶時や廃絶後の祭祀行為が指摘されている。
(1954大川清「竪穴焼土考」『安房勝山田子台遺跡』)
(1999大島直行「縄文時代火災住居の意味」『考古学ジャーナルNo.447』)
 一方、火災住居の中には突然火災に遭ったかのような、生活道具を残した状態で検出される例がある。 不慮の火災により、普段の生活状態がそのまま残されている可能性があり、建物の機能や間取りなどを知る重要な資料となっている。 籐内遺跡の9号住居では、敷物の有無から土間と寝間の区別を、中道遺跡の20号住居北側からは土器、石皿やトチの実、獣骨、桶状の炭化材がまとまって見つかり調理場を想定している。 焼失住居に対する視点は、焼失住居の実体とその本質にも向けられており、住居の性格や機能そして使用時や廃絶時、廃絶後の状況などさまざまな角度に及んでいる。

 縄文時代の焼失住居で、建築材が検出された例は、岩手県の御所野遺跡、岐阜県の堂之上遺跡、新潟県の中道遺跡、沖ノ原遺跡などが知られている。 (1999高田和徳「縄文時代の火災住居」『考古学ジャーナルNo.447』)
その概略を見てみると、御所野遺跡では平成6年から10年度の調査で、西区を中心に大木10式期の焼失住居が12棟確認されている。DE24号とDF22号住居からは直立する壁板が見つかっている。 堂之上遺跡では中期中葉の22号住居から貫通したホゾ穴を持つ炭化材が、また中期後葉の6号住居からは壁に密着した板材と、炭化した柱が見つかっている。 中道遺跡では中期後葉の20号住居から壁板と考えられる炭化材が、また51号住居からは直立した状態の柱と、網籠に入っていたと思われるトチの実の検出から屋根裏貯蔵施設の存在が考えられている。 沖ノ原遺跡では中期後半の2棟の焼失住居が検出されている。1号長方形大型家屋址からはクリ材の壁板と考えられる炭化材が見つかっている。 青森県の富ノ沢遺跡では円筒上層e式期の大型住居216号住居から、壁面に接して板状や丸太状の炭化材が、また二股状の材に別の材が組み合わされたものが確認されている。  このほか、馬場平2遺跡、近野遺跡、近内中村遺跡、伊皿子遺跡、籐内遺跡などで建築材と考えられる炭化材が出土している。

 以上はいずれも竪穴住居で、今回の焼失住居は平地住居であるらしい。
平地住居というと縄文時代の住居としては竪穴住居よりなじみが薄いが、決してそうではなかったらしい。 西日本に竪穴住居集落が少ない理由に、平地住居の普及があったのではないかと考える向きがある。
(1998宮本長二郎「平地住居と竪穴住居の類型と変遷」『先史日本の住居とその周辺』)
夏は暑く住居内では火は燃やせない。外で煮炊きせざるを得ない。 炉を持たない夏向きの風通しの良い住まいがあっても不思議ではない。 そのようなことから、竪穴住居を冬の住居、平地住居や掘建柱建物を夏の住居とする見方もある。
 平地住居は地表面での床面検出がポイントになってくる。 柱穴、周構、炉跡や床面の踏み絞まり、そして生活痕跡などが判断の根拠になっている。 ところが、浅い竪穴住居や炉の伴わない柱穴だけの遺構、さらに重複している場合には難しくなってくる。 しかも伏屋式においては掘建柱建物のような柱穴列の特異性は見いだしがたく断定は難しい。 加えて重機による表土の取除きも問題を深刻なものにしている。

 平地住居の例は山形県の押出遺跡や栃木県の根古谷台遺跡が知られている。
押出遺跡は低湿地帯に築かれた縄文時代前期、大木4式期の集落跡である。 縄文のクッキーや彩文土器の出土で知られているが、住居構造においても、その一端が明らかになっている。 遺構が検出されたのは地下2mの地点で、住居跡は杭状の柱根が床面の外周に隙間なく打ち込まれた状態で検出された。 柱根の太さは5cm〜20cmで、打込みの深さは50cmから深いもので2mに達する。 確認された住居跡は35軒とも38軒とも報告されていて、杭の総数は4,000本にも上る。 住居の形状は円形、長方形、楕円形とさまざまで、主柱を持つ住居と持たない住居があり、炉跡は住居内からは検出されていない。 小型の住居は、1号住居の約4m×3mの長方形、17号住居の約3m×3m方形、2号住居の直径約4m円形で、いずれも中央に主柱が1本見られる。 また、最大の11号住居は長方形で、規模は長軸約10m短軸約8mである。 柱根は2重3重に巡り、床面はマウンド状に約30cmの盛り上がりが見られる。床面直上からはおびただしい量の建築材が見つかり、転がし根太と考えられている。 床面のマウンド状の盛り上がりは、15号、20号、30号住居にも見られ、同じように柱根が2重3重に巡る。 宮本長二郎氏によると、柱を打ち込み立替えの度に粘土貼り床を重ねたのではないかという。
(1998宮本長二郎「平地住居と竪穴住居の類型と変遷」『先史日本の住居とその周辺』)
また、20号住居は長軸約8m短軸5mの楕円形状で長軸線上に3本の柱が並ぶ。この住居は『日本原始古代の住居建築』(1996宮本長二郎)に復元図が解説されている。 それによると押出遺跡の住居構造は、杭状柱間に小枝や草をしがらみ状に絡ませて壁体をつくる形式、または杭状柱を1列に巡らせて草壁をつくる形式で、壁柱で屋根を支える壁立式や、中央に柱を持ち棟木を支える構造であったと考えられている。 また宮本氏は、宮城県の今熊野遺跡(大木2a式期)の竪穴住居の例を引合いに解説を行っている。 壁柱を隙間なく巡らし中央に1本の柱を持つ例は、今熊野遺跡の北、名取川を隔てた対岸の三神峯遺跡や南に2kmの泉遺跡、さらには福島県相馬市の段ノ原遺跡や福島市の下ノ平D遺跡にも類似性が見られ、前期における東北南部の建築様式が浮かび上がってくる。

 平地住居は、特徴的な構造のものが多い。 新潟県の柏崎平野に見られる5本柱の住居は、平地住居と考えられている。 時期は前期後葉から中期前葉のもので大沢遺跡、雨池遺跡、屁振坂遺跡などからまとまって見つかっている。 雨池遺跡は中期前葉の新崎式期の遺跡である。 5本柱から推定される平地住居は11棟と見られ、地床炉を伴うものも見られる。 柱穴は掘立柱建物とは明らかに異なり全般に浅く小さく、上屋構造は簡易なものと考えられている。 その中にあってSI105a、SI105b住居はベース形の底辺を連結させた10本柱の大型の住居と報告されている。 長軸の柱間の長さは7.4m幅は3.4m、長軸線上に沿って2基の地床炉が見られる。 柱穴の平均の深さは約40cm、主柱には直径20cmほどの柱材が使われたと見られ、比較的しっかりした作りであったと考えられている。 集落の特徴としては、竪穴住居が1棟も検出されなかったことと、土坑が極めて少ないことが上げられる。 報告者は夏の住居、冬の住居に言及して報告を行っている。

 さて、来運1遺跡であるが、現地説明会資料を見ると、はっきりしていることは、縄文中期の焼失建物遺構で、炭化材が建築部材ということである。そして宮本長二郎氏の所見として、遺構は壁立式の平地住居で、炭化材は壁支柱と壁小舞である可能性が強い、ということである。 はたしてどのような遺構が姿を現すのか、詳細は今年7月から8月まで行われるという調査の報告を待ちたいと思う。

(1983千野裕道「縄文時代のクリと集落周辺植生-南関東地方を中心に-」『東京都埋蔵文化財センター 研究論集』)
(1977「沖の原遺跡発掘調査報告書」津南町文化財調査報告書第12集)
(1998「中道遺跡-農業基盤整備事業に伴う発掘調査」長岡市教育委員会)
(1997「堂之上遺跡-縄文時代集落跡の調査記録-」岐阜県大野郡久々野町教育委員会)
(1992「富ノ沢遺跡」」青森県埋蔵文化財調査報告書143集)
(2004「御所野遺跡」一戸町文化財調査報告書第48集)
(1985「押出遺跡1次調査説明資料」山形県教育委員会)
(1987「押出遺跡3次調査説明資料」山形県教育委員会)
(1988佐々木洋治「押出遺跡」『図解検証原象日本5』旺文社)
(1986佐々木洋治・佐藤正俊「山形県・押出遺跡」『月刊文化財278集』文化庁)
(1990長橋至「山形県押出遺跡」『季刊考古学第32集』雄山閣)
(1990『季刊考古学第44集』雄山閣) (1989佐々木洋治・長橋至「山形県高畠町押出遺跡」『縄文時代の木の文化』富山県考古学会縄文時代研究グループ)
(1980「三神峯遺跡発掘調査報告書」仙台市文化財調査報告書第25集)
(1986「今熊野遺跡」宮城県文化財調査報告書第114集)
(1998「泉遺跡」名取市文化財調査報告書第39集)
(1984「庚申町遺跡」大石田町埋蔵文化財調査報告書第3集)
(1995「相馬開発関連遺跡調査報告書。」福島県文化財調査報告書第312集)
(1995「下ノ平D遺跡・弓手原A遺跡」福島市埋蔵文化財報告書第77集)
(2000『横山東遺跡群氈x柏崎市埋蔵文化財調査報告書第34集)
(2003品田高志「柏崎平野の縄文集落」『新潟県の縄文集落』)
(2003杉山祐一「焼失住居跡」の可能性を考える-研究成果と調査方法の考察を通じて-『印旛郡市文化財センター 研究紀要3』)


◆斜里町埋蔵文化財センター


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It was last updated in JULY 2005.
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