土器の発生と縄文時代6期区分

 私達が思い浮かべる縄文土器のイメージは縄目模様のついた素焼きの土器だが、一万年もの間に日本列島の各地で造られた土器の種類は想像以上に膨大で、それらは一つ一つ器形や紋様に個性を持つ複雑多様なものである。その個性ある紋様から私達は当時の地域の拡がりや時代を探る重要なヒントを得てきた。 人類がものを造りはじめた頃、それは真にものを産みだすエネルギーが炸裂した時代であった。
「土器の製造は人類がはじめて化学変化を利用したものである。」英国の文化史考古学者チャイルドの言葉はあまりにも有名である。日本列島で土器が造られはじめたのはおよそ一万二千年前という。土器の出現から稲作、水稲栽培がはじまるとされる2,500年前までの一万年の間に製作された土器を縄文土器という。
縄文土器の最大の特長である縄目紋様は、1878年エドワード・シルベスター・モースによる大森貝塚の報告書で"CORD MARKED"縄文の名がはじめて使われ、縄文土器の名称が生まれた。モースによる大森貝塚の調査、報告書は学術的に優れたもので日本考古学の始まりを意味するものだった。
私達がイメージする縄文土器もはじめは縄文を持たず無文、粘土紐を貼付した隆線文、爪や竹などの施文具を用いてハ字やC字形に刺突した爪型文などの紋様であった。 それらの土器は丸底や方形平底であることから土器の発生は網かご、皮袋を模したものと言われている。 縄文土器の起源をめぐっては、今なお研究が進められ、かつて無遺物層として考えられていたローム層からの出土によりさらに年代をさかのぼる可能性が示されている。

一万年にも及ぶ縄文時代を私達は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と大きく6分割して呼称しているが、この分類がなされるまでにはさまざまな研究、学説が行われてきた。縄文土器の分類がはじめて唱えられたのは1894(明治27年)八木奘三郎、下村三四吉による薄手式と厚手式で、大森貝塚に見られる上質にして精巧な薄手式と陸平貝塚に代表される粗質、粗大な厚手式の違いを示したものであった。
大正時代に入ると松本彦七郎による分層的発掘が行われ、層位的分析から新旧を実証するものとなった。学術的に意義を持つ層位的分析は多くの研究者に影響を与えることになる。
昭和に入ると山内清男による年代の編成が形を成して来ていた。 関東地方に見られる繊維土器、諸磯式、勝坂式、加曾利E式、堀之内式、加曾利B式、安行式の新旧を順に把握した上で、縄文時代を前期、中期、後期と3区分し後に発見された尖底土器群を早期、亀ケ岡式土器を晩期に加え5期区分とした。 さらに土器の起源が遡るとともに早期の年代期間が膨らむことから早期を2分し草創期を設定し今日の縄文時代6期区分が成立した。
■参考文献■