エピソード8・最終回〜バラ色の死

アンソニーは初めから<死>を背負った少年でした。

<漫画版、名作物語>という企画が連載の基本でしたから、キャンディの物語の大筋は<赤毛のアン><あしながおじさん><八人のいとこ><ポリアンナ><そばかすの少年>などが参考になり、その点を指摘されれば「その通り」なので、原作者としては今も心残りの部分です。連載当初はどこか借り物めいた気分がぬけず、テリィが登場するあたりからやっと<自分の世界>という感じになりました。

アンソニーの死……これは<八人のいとこ>をイメージしていたと思います。

原作を書くに当たって、まずは<大筋>のうちあわせをします。(当たり前のことですが、ある程度の話の柱が決まっていないと大型連載は着手できません。)そのなかに<主人公が初めて好きになった少年の衝撃的な死>が含まれていました。決まっていなかったのは<その死の理由>です。

アンソニー・ブラウン(ああ、この名前も後悔の一つです…もっと考えればよかった、と。)彼に初めて会ったのは<漫画のゲラの世界>でした。荒らいゲラの紙を通してもいがらしさんが描いたアンソニーのやさしさ、風になびく髪、光に溶けていきそうな程はかなげで、けれど、どこか強靭な感じのする魅力が伝わってきて…(この子が死んでしまう…)それがわかっていただけに哀しい、後ろめたい気持ちになったことを覚えています。原作を書き進めるごとに(アンソニーは死んでしまうのだ)と分かっていたから尚のこと、アンソニーしか感じないだろう世界、その透明な眼差しが乗り移り、しゃべる台詞がどこか潤んでしまったと思います。

アンソニーが<バラの門>の所有者であること。そのときから、原作者の課題<いかにしてアンソニーは死んでしまうか>の答えはできていました。なんと残酷なこと!原作者はどうあってもアンソニーを生かすことは考えず、その死の方法ばかり考えていたのです。(ふしぎな、きれいな死、にするからね、アンソニー……)わたしは心の中でアンソニーに約束していました。アンソニーらしい、やさしく美しく……そして、本人でもさえも死んだ事に気がつかないようなひそやかな死……

わたしは決めていました。<リルケ>でいこう…と。

ライナー・マリア・リルケ。バラを愛した詩人。「リルケはね、バラの棘がささって、死んだんだよ。詩人らしい死じゃないか」ロマンチストの友人、オーギュスト・Aがそういったときの清潔な夢見るような表情を覚えています。そのときに広がったイメージ…一面のバラ花、その香りに包まれた死…

詩と死…。<詩人になりたくない、詩人でありたい>……わたしが20歳のころ、ノートに書きつけた言葉。あのころはほんとうにたくさんの詩を書き、読んでいました。その気持ちは、今も変わってはいません。今でも詩を書く事は永遠のあこがれ…リルケもあこがれの詩人です。


そう、リルケのバラの香りの死を、わたしはアンソニーにたむけることにしたのです。

バラの棘がささって……アンソニーは……死んでしまう…

その<プロット>に担当のムッシュ・ベルナールは一応、賛成してくれました。アンソニーの死はクライマックスでもある大切な場面です。編集としては<インパクトが強い><説得力>のある<死>をのぞんでいました。賛成はしてくれたものの、ムッシュ・ベルナールの考えこむ表情が気になりました。<バラの香りの死>はたしかに美しい。けれど<インパクト、説得力>に関しては疑問が残る…。担当が目を輝かせて賛成、といわない訳はわたしが一番わかっていました。実際、リルケはバラの棘に刺さって<突然死>をとげたわけではありません。その傷口から急性の白血病を誘い、数日後にあっけなく亡くなったのです。

アンソニーは健康な少年。その少年がバラの花の中であっという間に息を引き取ってしまう…(そう…ばらの肥料、殺虫剤に毒性のものを使えば……)いがらしさんは、初めから<バラの香りの死>を描くことを楽しみだと言ってくれていたと思います。

「バラの肥料、殺虫剤を使うの、だから漫画にするときに伏線として毒性らしい殺虫剤を描いておいてね」そう依頼しておいたので、ホイットマンさんが持つ<肥料、殺虫剤>にどくろマークが目立っているシーンも残っているはずです。

いよいよ、そのシーンを書かなくてはならない日がやってきました。わたしの記憶に残っているそのシーン…アンソニーとキャンディがバラ園に立ち、楽しく語らいながらアンソニーが大切な言葉をいいかけて…急に、静かになってしまう場面。それは、アンソニーの素直なほとばしりでる愛の言葉…?なぁに…?アンソニー、今なんていったの?キャンディには分かっている…でも、はっきり聞きたい…ドキドキしながら聞き返し…でも…返事はなく。振り返ったキャンディが見たのは…・バラの中に倒れるアンソニー…アンソニーがいいかけたのは…?もはや永遠に聞くことのできない<言葉のつづき>…それはそれからのキャンディの胸の底をずっとたゆたうことになる…はずでした。

「あのね…悪いけど…アンソニーの死の場面もう一回考えなおしてくれない?」原稿をわたした日の夜遅く、ムッシュ・ベルナールから電話がかかってきました。編集会議にかけたところ、「アンソニーの死のシーンとしてはちょっと弱い」ということになったので、もう一度打ち合せをしてほしい、というのです。わたしはとっさに、(アンソニーはもうバラの中では死ねない…)とそのとき感じました。そして、だぶん、<きつね狩りで落馬>することになるであろうと……アンソニーの<不慮の死>のシーンとして、何回も打ち合わせのとき、浮上しては消えていった設定。漫画の絵としては確かに、インパクトはある……しかし……きつね狩りも落馬もアンソニーには似合わない、残酷すぎるとわたしはうなずけなかったのです。けれど、漫画としての完成度を考えた時、その衝撃が確かなことはわたしも認めていました。「動物を殺す…というきつね狩りは、どうもね…」ムッシュ・ベルナールが首を傾けつつ、わたしの案<バラの死>を受け入れたのも、そういった考えが共通していたからです。しかし、<バラの死>には説得力がない、といわれれば、認めざるを得ません。肥料や殺虫剤の毒性だけで、<即死>に近い死は設定として確かに無理があることは承知していました。「きつね狩り、しかないね……スコットランドの移民なら無理のない設定だし…養女としてのお披露目なら説得力もあるし…絵柄的にも華やかになるね……」わたしは考えを切り替えていきました。

アンソニーの死……それは変えられません。突然であっけない死の設定をそのとき他には考えられなかったのです。締め切りはとうに過ぎていました。わたしが遅れると、漫画家にしわよせがきます。わたしは急いでその回を書き直しました。心のどこかを閉ざして。

今回の悲しい事件で、わたしは20数年ぶりに生原稿を探しました。アンソニーが落馬するシーンの原稿のコピーは残っていました。また、そのシーンのための下書きも……。しかし、一番読み返し、確かめたかった<バラの死>原稿は残っていませんでした。

アンソニーが落馬する原稿を読み返しながら、(これでよかったのだ…)と納得しつつわたしは心の中ではずっと<バラの死>を追っていたのだと感じました。どうしても、ひっかかっていること。アンソニーは生き物を愛する少年です。母の死のかげを引きずり、アンンソーならではの死生感をもっていた彼が殺生を好む訳がなかったこと。アンソニーはきっと、きつね狩りは避けたかっただろうね。(これはステアも同じ。そう思っています。アーチーはまた少し考えが違います。優しい少年であることは違いありませんが)

わたしが書いていた物語が<小説>ならばなんと言われようと、強引に自分の説を通したと思います。わたしは<原作者>でした。漫画にするために物語を書いていること、最終的にはよい漫画として生きかされる事が仕事だと自覚していました。

きつね狩りのシーンは、最終的には成功したと思います。そのシーンはのちにキャンディがテリィと馬に乗ることによって再生するシーンにも生かされました。

しかし、今でもアンソニーの死を思う時、繰り返しスローモーションで流れるシーン。アンソニーがゆっくりとバラの海に倒れていく……香りたつバラ…舞い散る花びら……

アンソニー、落馬したとき、痛くはなかった…?いや、瞬間だったからなにも感じなかっただろうね。わたしは、まだ、あなたが落馬するシーンを正視できないの…。原稿に書きながら、謝っていたのよ…キャンディに残す言葉ももっと、べつの言葉にしたかったけど……

アンソニーに語りかけられる事、これもこの事件の思いがけないプレゼントです。いつもこれから書く作品の人物とばかり会話していて、こんなにゆっくりキャンディたちと会話することは長いことありませんでした。こころのなかのアンソニーに25年ぶりに、やっと気持ちを告げられました。



スイスにあるラロンの教会崖の上に立つ灰色のその教会の壁にはめ込まれているというリルケの墓碑銘。

ばらよ
おお きよらかな 矛盾
あまたの 瞼の下で だれの眠りでもないという
よろこびよ


(中央公論社版  <リルケ全集>より)


(C) Keiko Nagita
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