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タイトル/よみ手 |
作者/作品 |
感想と批評 |
2004年7月26日(月)午後1時30分開演 |
中野芸能小劇場(東京都) |
朗読グループ「弥生」夏の宴隈元裕子、武発悦子、岡尾智津子、堀越セツ子、石垣ふみ子、戸松育子、高橋美江子 |
美しい村(堀辰雄)、屋根の上のサワン(井伏鱒二)、夫婦(小池真理子)、竜と詩人(宮沢賢治)、二人の母親(モリス・ルヴェル)、名人伝(中島敦)、おこりじぞう(山口勇子) |
●表現としての「朗読」とは――「朗読」は表現にならないのだろうか。いつまでも、朗読は「朗読」にとどまるのだろうか。そもそも朗読とは、声に出して作品を人に伝えるということと、もう一つ文学作品を味わい鑑賞するという二つの意味がありました。もしかして、最初は作品を声に出して人に聞かせることであったかもしれません。しかし、作品をよんでいるうちに、よみ手自身が作品の感動にふれていつしか作品とともに声をゆるがせて表現するということはないのでしょうか。かつて、NHKラジオで、アナウンサーによるおもしろい太宰治「カチカチ山」の「朗読」を聞いたことがあります(1999.8.29NHKラジオ文芸館/長谷川勝彦アナウンサー )。最初のうちはアナウンサーらしい落ち着いた「朗読」でしたが、終盤に近づいてくるにつれて興奮が高まり、いつしか本人がまるで主人公のタヌキのような心情で声をふるわせて表現していました。これは何よりもまず太宰治の作品のもつ力によるものですが、また文字の作品を音声にして伝えるということにとどまらない朗読の本質を示すものです▼日本の朗読理論は放送の表現と切り離せないものとして形成されてきました。放送のためにはマイクに乗りやすく、音声の技術的な処理がしやすい声が求められました。声の強弱についても、声の質についても一定のものがよいのです。アクセントについても、強弱ではなく高低に絞られて研究されてきたのも、放送のための声という前提があったからです。文学作品の表現よみは放送のための朗読という考えを打ち破るものです。第一に、高さアクセントではなく、コトバの背後に隠れた強さアクセントの強調、第二に、イントネーションと声質の変化の表現、第三に、文学作品の語り口に必ずひそんでいるプロミネンスの発見――まずは以上の三点の表現です。実際の表現技術を付け加えましょう。第一は、日本語の強さアクセントは文節ごとの第二音節にあります。「ふルいけや かワずとビこむ みズのおと(カタカナがアクセント)」。アクセントは音としては表面に出ませんが、声帯の筋肉を「ムッ」と緊張させて力の入った音です。演劇で言う「呑む」という表現だと思います。この第二音節を重く強くすることによって、日本語のリズムをともなったメリハリのあるよみになります。これを逆に軽く高くしたのが軽薄な語り調子です。第二は、地声に対して一オクターブ高いウラ声の表現です。ウラ声というと極端に高い声だと思われますが、声の高低に関係なく、軽く高いウラ声は表現できます。文の三つの成分のうち、主要成分は地声、必要成分と補足成分はウラ声という具合に文法的な構造でよみわけられます。第三は、プロミネンスが体全体の緊張に支えられていることの確認と、ふたとおりのプロミネンスを区別することです。副詞、接続語、指示語などは原則プロミネンスです。そこにさらに、文と文とをつなぐ文脈プロミネンスが加わることで、作品の文脈の展開が、よみ手には意識されるとともに、聞き手にも明確に伝達されるのです。そうして表現よみの大前提は、文学作品は「語り手」によって語られるもので、その「語り口」は語り手と人物たちのさまざまな声の交流によって生まれるということです。
はじめへ |
2004年7月15日(木)午後7時30分開演 |
深川江戸資料館小劇場(東京都) |
月陽舎第2回公演 リーディングショー『ねこはしる〜工藤直子の世界〜』小高三良、辰巳次郎、平井隆博、渡部洋、武虎、植田大、金沢洋子、水野千夏、鈴木雅子、齋藤廉乃、仲西史絵 |
童話屋『ねこはしる』(工藤直子)、角川ハルキ文庫『工藤直子詩集』(工藤直子、一部抜粋河合隼雄) |
●よみのリアリティとは――舞台のよみ声とにしらじらしさを感じるようになったとき、わたしは演劇に対する関心をなくしました。それ以来、ほとんど舞台に足を運ばなくなりました。もう三十年も前のことです。いわゆる舞台らしい声とは、わたしたち観客に向かって聞こえてくるのではなく、舞台の上空にまるで花火のように打ち上げられるものです。冷たくきどっているようであったり、あるいは極端にテンションが高いのに何の感動も伝わりません。観客などそっちのけの声です。それを鴻上尚史のように観客に届かない声という人もいます。しかし、それは発話者自身が、語るべきコトバの意味を理解していないのです。声の表現の多くは、自ら発するオリジナルのコトバではなくて、他の人がテキストにまとめたものを利用します。たとえ暗記してそれを声に表現するにしても、オリジナルのテキストの意味と、それをよむ者との間に理解の差はあります。世に行われている「語り」の多くが表現にならないのもその例です。テキストとよみ手との距離をどれだけうめられるか、ここに表現よみの理論と実践の出発点がありました。つまり、テキストをよむのではなく表現すること、その基礎にテキストの理解を置いたのです。そして、よむたびごとにテキストの理解と表現を生み出すための実践が行われています▼表現は必ず様式化するものです。しかし、様式の背後によみ手の理解があれば、そこにはリアリティが生ずるはずです。演劇以上に声のリアリティを失っているのが、アニメーションや外国映画にあてられた声の表現です。映像とともに声を聞くならさほど気にならない声でも、映像を見ないで声だけ聞いたら異様に感じられるでしょう。吹き替えの世界はある種の型と様式で固まった表現が大多数です。かつて外国映画というと西欧のものでした。日本人とは体つきも顔つきも表情もちがう西洋の俳優たちが登場する世界に、わたしたちの日常とはまるでちがう声の表現が登場してもさほど違和感はありませんでした。しかし、近ごろ流行する韓国映画には、日本人と区別できない顔つきをした人間が登場してさまざまな表情を見せます。そこから想像されるの声と吹き替えの声とのちがいには大きな違和感を覚えます。アニメについては、デフォルメされた画像とのバランスをとるために声もデフォルメするという説明はできます。しかし、たとえそうであってもその背後になんらかのリアルさがほしいのです。狂言の擬音語や擬態語は完全に様式化されたコトバです。ノコギリで切る動作には「ギシ、ギシ、ギシ」と音どおりの声がつきますが、それが演じ手によってリアルになったりそうでなかったりまちまちです。そこに芸の深さがあります。アニメや外国映画の吹き替えは商業的レベルでの及第点があります。それは芸術や表現のレベルではなく、いわば職人的な仕事の妥協レベルです。声の表現の世界が商業的なレベルを超えて、リアルな表現になったとき、舞台の感動が生まれるでしょう。はじめへ |
2004年5月24日(月)午後3時開演 |
文化座アトリエ(東京都田端) |
「田端文士村シリーズ/芥川龍之介」―橘憲一郎、小野豊、白幡大介、田中進一、岩崎純子、五十嵐雅子、小谷佳加、前田海帆、瀧澤まどか、青山真利子、佐々木愛 |
「白」「杜子春」「三つの寶」(『三つの寶』より) |
今回は「朗読批評」を超えて、「舞台において小説作品をどう表現するのか」という根本問題まで論じたいと思います▼当日の資料に、演出者・原田一樹の「構成/演出のことば」があります。小説作品を舞台で上演することについて、三つのやりかたをあげています。第一が「脚本家の手によってその小説から戯曲を書き起こす」方法で「劇作家の目によってとらえられた文学」の表現です。第二を「朗読劇」とよんで第一と対立させています。小説作品を「朗読劇」として上演するというのは、おそらく舞台で読みあげることをいうのでしょう。小説作品でさえ「台本」としてよもうとする演劇人の考えです。そして、第三は「俳優の声だけでなく身体と空間を使って、そこに文学の世界を想像(?)しよう」という方法です。これを「モノドラマ」とよんで「演出の目によってとらえられた文学」だといいます
▼今回の「田端文士村シリーズ/芥川龍之介」の上演は、第三の「モノドラマ」に「一つ立体的な絵」を加えての上演だそうです。この説明では「モノドラマ」とのちがいがわかりませんが、今回の上演ではっきりしました。小説作品の「語り手」にあたる人物が登場して、小説のテキストそのものを語ります。この人物に身ぶりや行動が加わるのかモノドラマなのでしょう。今回は「語り手」はワキに立って語りますが、カラダの方向を変えるか歩くくらいでほとんど身ぶりや行動はありません。それでも、演者は登場人物のようにドラマチックに語ります。さらに舞台中央には、語られる主人公や登場人物たちが登場して演技をすることになります。
チラシの内容から朗読劇のようなものを想像していましたが、やはり演劇の舞台でした。テキストは持たずに役者たちは、芥川龍之介の作品「白」「杜子春」「三つの寶」の三本を演劇として演じたのです。わたしはまず演劇倶楽部『座』(壌晴彦主宰)の「詠み芝居」に似ていると思いました。これも小説作品を舞台化するものです。ワキの「詠み手」が小説のテキストを見ながらよむのと並行して舞台で俳優の演技が行われる形式です。わたしはかつて泉鏡花原作「夜行巡査」「高野聖」の二本(2003年9月3日(日))を見て、小説のテキストの表現も演技も中途半端だと批評しました(批評の内容へ)。小説のテキスト自体の表現が生かされず、小説のテキストの意味と舞台の俳優の演技とが統一されずに、二つの表現のちがいがありありと分かるのです。そこに違和感があっておかしな感じでした。つまり、小説のテキストをそのまま演じたつもりでもまったく次元のちがう表現なのです。そのちがいをブレヒトの異化効果のように見せたらおもしろいかと思うのですが、そこまでの表現意図は感じられませんでした。「白」と「杜子春」も「詠み芝居」の欠点を共有するものでした。「白」では主人公(?)のイヌを舞台中央で人間が感情豊かに演じて、そのわきで「語り手」を演ずる役者が小説のテキストを「語る」のです。テキストから想像するイヌの「白」と、現実的な存在である人間の俳優を見ているとおかしくなります。テキストと演技とのズレへの違和感です。「杜子春」も同様です。緊張の高まる場面には、主人公の杜子春のほかの役者も登場して演技をします。そのとき、語られる小説のテキストは演技への注釈にとどまらない力を持ちます。小説の想像力です。次元はちがうものの役者の演技と拮抗する表現力です。そのためにテキストと演技とが、お互いの表現を殺し合ってしまうのです
▼わたしが感じた最大の問題は、「語り手」を演ずる役者の語りかたです。いかにも舞台風の語りです。小説のテキストは台本ではありません。小説は客席の観客に語るようには書かれてはいません。一人の読者に語りかけるいわば静かな語り口です。それを舞台でのナレーションのように語っても小説の語り口は生きません。冒頭に前口上を語る佐々木愛もそうでした。やはり演劇の語り口です。当人が直接に観客に語るのではなく、前口上の役を演じているのです。わたしは落語のまくらのような語り口がほしいと思いました。どの場面でも演劇の語りかたは小説のテキストの「語り口」とは矛盾します。また、セリフの語りかたの訓練はできていても、小説の語り口にふさわしい語りかたができません。それも日本の演劇界では未開発でしょう。セリフのときとはちがって、発音やアクセント、イントネーションやプロミネンスなどのよみの表現の基礎的なことが気になりました。
ところが「三つの寶」になったとたんに、俳優たちは生きかえったように生き生きとしていました。もともと戯曲形式で書かれた作品ですから当然のことでしょう。わたしも安心して楽しめました。これは妹尾河童『少年H』からのエピソードに挟まれた構成です。友達から『三つの寶』の本を借りるために、二回連続空中転回に挑戦するという話です。最後には、借りた本についてキリスト教の母から「自殺した作家の本」として叱責を受けます。このエピソードをからめた構成はおもしろいものでした。しかし、この戯曲は底が浅いものです。劇中の妹尾河童のことばを借りるなら「お子さまランチ風の童話」です。既成の宗教の観念や道徳にがんじがらめになった芥川という作家の思想がよく出ています。「蜘蛛の糸」「蜜柑」に代表される人間不信の思想とその裏返しともいうべき安易な結末はつまらないものでした
▼このシリーズでひきつづき小説作品をとりあげていくのは前途多難でしょう。ほかの作家を取りあげる場合、戯曲だけを選択して舞台かするわけにもいかないでしょう。また、手慣れた演劇の技法を繰り返すのも新たな「文士村シリーズ」にはふさわしくないでしょう。そこが劇団のジレンマかもしれません。今後の課題が考えられます。小説の語り口というものを舞台でどう表現するか、演劇の語りかたと小説の「語り口」の表現とのちがいを根本から考えなおすことです。それを抜きに進めていくならば、結局、小説を戯曲に書きかえて舞台化するか、あるいは「詠み芝居」の中途半端の繰り返しでしょう。舞台での小説の語りかたというものはどういうものか、理論的にも実践的にも、大げさなことをいうなら日本の演劇史上において、これまでなかったような小説作品の音声化の根本的な検討が必要なのだと思います。今後、文化座がその課題にいどむかどうかが試されています。文化座のページ/
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2003年12月14日(日)午後3時30分開演 |
喫茶店ルノアール(渋谷パルコ横店) |
第4回十四転会 |
エトロフの恋(島田雅彦)神戸木綿子、雪の夜の話(太宰治)白銀由布子、富士日記(武田百合子)白銀由布子・神戸木綿子 |
「この作品のよみならこの人は日本一だ」と思うことがしばしばある。
この二人のよみもその一例である
▼2002年11月、日本コトバの会の表現よみフェスティバ
ルに出演して安部公房「砂の女」をよんだのが神戸木綿子だった。
ハードなことばの響きが作品の表現によく合っていた。
発声に力が不足していることと、基礎的な発音に問題があるのが気になったが、
今回の「エトロフの恋」では声に厚みが出ているし、発音もずいぶんよ
くなった。人物表現のリアリティには音声など気にさせない魅力がある。
作品の選択にまちがいはなかった。主人公ニーナが恋人との出来事を語る独白を表現して人物の個性的
な存在を感じさせた。今後の課題はまだ残っている修飾語と被修飾語との
プロミネンスのクセを取ることである
▼「雪の夜の話」をよむ白銀由布子はまちがいなく日本一である。
わたしが聞くのは3度目であるが、その都度、表現力を増している。
語り手の少女とその姉、その兄、そして兄の話の中の医師、
兄の話の中の医師の
語る小説家のことばなど、重層的に入り組んださまざまな心情を明
確に声に表現していた。この作品は単純な地の文とセリフでは
よめない。表現よみによる声と心情の変化が求められる。
この作品をここまでよめる人はほかにいない。今後の課題
はよむたびに語り手の少女の純粋な喜び感情を新鮮に繰り返
してよめるような実力の保持である
▼二人の「富士日記」のよみにも驚いた。
武田百合子の日記はあくまで日記であって文学作品ではな
いのだが、朝昼晩のおかずなどをよみあげる一言一言の声に文学がある。
一つ一つの単語が明確なイメージをわかせる。フ
ランスの詩人がレストランのメニューをよみあげて聞き手を感動さ
せたという話を想い出した。二人には本格的な詩をよむことにも挑戦してもらいたい。
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2003年11月4日(火)19時30分開演 |
シアターΧ(カイ)(東京・両国) |
『教訓の再読』―音楽と朗読の花田清輝 |
ユニット打落水狗[河崎純・原牧生(朗読)]・丸山昌子(朗読)。ほかにチェロ(入間川正美)、ギター(新美広充) |
朗読の可能性というものは、こんなところにもあるのだと感心させられた。この公演は、チェロとギターとコントラバスと三本の楽器とエッセイの朗読の組合せで、花田清輝の世界を表現しようというものである。しかし、一貫して即興で抽象的な音を立てる三つの楽器が気になった。意識が三つの楽器に分散してしまう。楽器は一台、よみ手の背後にあればいいのではないか。よまれた文章は文学作品ではないのだが思想を語る独特の文体は朗読されると意外な効果がある。取り出された論文の断片が述べられた論理を越えて聞き手の感情を動かすのである。舞台の正面のスクリーンには紙に模様を描く映像やさまざまなオブジェが映されたり、スライドの上映もあった。また、舞台で朗読しながら床に描く模様も上映された。正直いって、朗読そのものの技術はすぐれたものではない。原牧生はどんな作品でも棒読みのように単調である。丸山昌子の朗読は稚拙であるが、いくつかの作品で、驚くような効果があった。ひとつは、丸山が意味のない擬音語を語るのに合わせて、原が散文のテキストを読みあげたとき、もうひとつは、原が「青、白、赤」などの色を叫ぶように朗読したときである。それまで、散文としての意味が伝わらなかった声が生き返ったようだった。もしかしてコトバは音であっても、音そのもので表現できる抽象的なものがあるのではないかと感じた。さまざまな刺激を受けて帰る道々「前衛朗読」というジャンルができるのではないかと思った。(テキスト/「女の論理」「歌」「笑う男」(「復興期の精神」より)、「眼の鱗」「偽書簡集」「テレザ・パンザの手紙」(『錯乱の論理』より)、「作家と予言」「青・白・赤」「動物・植物・鉱物」(『二つの世界』より)、「奴隷の言葉」「マザー・グース・メロディ」「レトリックの精神」(『アヴァンギャルド芸術』より)、「役割の逆襲」(『新編映画的思考』より)公演内容ページへ/はじめへ
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2003年7月16日(水)13:30開演 |
中野芸能小劇場(東京・中野) |
夏の宴(朗読グループ弥生) |
戸松育子による芥川龍之介「おぎん」ほか6作品 |
戸松育子は日本コトバの会の表現よみコンテストに第1回から出場した連続3回の入賞者である。わたしは日本で一級のよみ手の一人と評価している。ただし芸術として見るといくつか注文がある
▼芥川龍之介「おぎん」は一連の吉利支
丹もので戸松のかすれた声質に向いた作品だ。
だが、よみだしで気になったのは、ただでさえ分かりにくい吉利支丹用語が聞きとれないことだった。
その原因は、第一に、マイクを気にして声を引いたことだ。100人ほどの会場だからナマの声で表現すべきだ。しかもマイクレベルが高すぎるので敏感に音を拾う。第二は、表現におけるプロミネンスの不足である。強調すべきことばが立たないので、一文の意味も立ち上がらない。その結果、作品全体の世界が見えてこない。今の地声一本やりの発声のままではプロミネンスも単調化するだろう
▼根本的に重要なのは作品のつかみ方である。さまざまな技術を駆使する力量はある。
人物の会話の表現はみごとなものだ。しかし、それが部分的な思いつきになっている。
作品全体の構造として生きない。作品の「語り手」と人物の関係という基本構造の理解がないからだ。
戸松のよみの基本は次のとおりだ。まず、よみ手
の戸松がナレーターとして地の文を担当して、そ
こに色づけとして人物の会話が表現される。この人物の会話は決して嘘っぽい演技にならず、表
現よみのめざすリアリティがある。だが、残念なことに、全体の構造の中では生きていない。
だから、最後に印象に残るのは戸松の芸の力である。作品の世界が浮かび上がるのではない。
とはいうものの、さすがに戸松は今回のグループで唯一、芸術の水準にあった。いつかひとりで複数の作品に挑戦するような公演を聞きたい。はじめへ
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2003年6月19日(木)15:00開演 |
博品館劇場(東京・銀座) |
朗読週間I(日本朗読文化協会の会員6組) |
新聞記事の群読など6作品と模範朗読=釈迦(瀬戸内寂聴)幸田弘子
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新聞記事の群読に始まり、アネモネ(辻邦生)、蜘蛛の糸(芥川龍之介)、藤十郎の恋(菊池寛)、いろをとこ(里見とん)、怪盗ジバゴの復活(北杜夫)が読まれた。しかし「朗読」とはいったい何かという根本を考えさせられた。ほとんどの読み手が素人の域を出ない。たしかに「朗読」とひとくくりにして共通する表現がここにはあった。しかし、何をよむことなのか。本に書かれた文字をよむのか、それとも、本に表現された文学的な内容をよみ手が表現するものなのか
▼「朗読」とはいいながら、客に向かって語りかけようとする姿勢も気になる。同時に、作品の語り口も中途半端な語りかけになっている。うろうろと演劇の立ち稽古のように歩き回ってしまったのでは、聞き手は読まれる作品に集中できない。その点、スッと立って少しも動かずによみに集中した幸田弘子はみごとだった。だが「模範朗読」はおかしい。「朗読」が芸術であるなら「模範」はありえない▼
幸田弘子の「釈迦」は部分部分の心情表現は、かつてなく迫力あるものだった。
残念なのはテキストの構成である。内容の展開が頭
に入らない。長い作品を切り貼りしたところに問題がある。
すじを示すのではなく、場面を表現するべきだろう。
ただし、相変わらず幸田弘子のよみはうるさい。それは地声一本やりの表現
によるものだ。軽い声にする部分がもっとあっていい。それでかえって強いところが生きるのだ。
病気をして体力が衰えたせいか、ふっと力が抜けるところ
があった。その表現が人物の内面が魅力的にしたのは皮肉だ。ゲスト河合隼雄の「竹取物語」のたどたどしい読みが作品の的確な紹介になるのもおもしろかった。はじめへ
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2003年5月25日(日)14:00開演 |
川崎能楽堂(神奈川県川崎市) |
古屋和子ひとり語り(パーカッション:和田啓) | 中島敦「悟浄出世」
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以前に、安房直子「鳥」の「語り」をテレビで聞いて、この「朗読批評」に取りあげました。暗誦した文章を朗誦するような気どった冷たい感じです。天に向かって打ち上げられるもったいぶった儀式のことばの響きです。聞き手に向かって語り伝えるという表現ではありません。「読み手」を舞台で演じています
▼今回も同じ調子でした。作品の文体の「語り口」が表現されません。それよりも困るのは、
語ることばの意味が立ち上がらないことです。だから、作品の世界が浮かび上がりません。
地声と地声のプロミネンスによる二色の声も単調です。ほとんどセリフのない作品で
すが、セリフになると大声を張るという演劇出身者らしい演出です。声を立てた瞬間、作品としての
「語り」の世界が壊れます。休憩なしの85分間を聞くのが苦痛でした
▼「悟浄出世」の語り口には、風刺による笑いが埋め込まれています。
しかし、そのおもしろさがまるで表現されません。笑い声が聞こえたのは一度か二度です。パーカッションの音も単調なよみに外から伴奏するだけの
効果のないものでした。聞いた人の多くは中島敦の作品はむずかしくてつまらないと思うでしょう。残念です
▼作品の解釈のいちばんの問題は哲学や思想の理解の不足です。
主人公の悟浄が訪れる何人もの妖怪のひとりひとりが哲学的な立場の象徴です。
作者はその思想を見事に形象化して風刺して笑っています。読み手がその思想や哲学の批評を理解することで作品のおもしろさが表現されます。ただひとり、五百年生きている色欲の固まりの女妖怪だけが異様な現実感をもって表現されました。ただし、それが作品の中心テーマと結びつくわけではありませんでした。前の批評へ 古屋和子のページへ/はじめへ
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2003年4月27日(日)19:00開演 |
ティアラこうとう小ホール(東京・江東区) |
第7回JILA朗読フェスティバル:星晶子ほか3人 | 作品:宮部みゆき「鬼子母火」ほか
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ほかに3人よみましたが星晶子の「鬼子母火」(宮部みゆき作)のよみはすばらしいものでした。
完成された「朗読」といえます。地声をベースにしてプロミネンスを加えるよみで、
声の表現の幅が狭いのですが、作品の世界がよく浮かびました。
発声よし、発音よし、プロミネンスよし、表現よしです。会話も特別に声を作るこ
となく、素直に人物の心情にはいります。主人公の少女のセリフな
どは、直接の心情を感じさせて、それだけで感動させます。小学校
のときから児童放送劇団に所属したという長い経歴にもかからわず、
基礎を大切にして素直に表現しているので、今後の成長が期待でき
ます▼
さらによみの表現を磨き上げるためにはいくつかの課題があります。第1に、
作品の語りの構造が理解されてないので、それぞれの部分の表現が
のっぺりしていること。第2に、作品の選び方がまずいことです。作品の世界は浮
かびましたが、この作品ではよみこんでも表現に限界があります。もっ
と質の高い文学作品を選んでよんでほしいと思います。第3に、あちこちに朗読調
のなごりがあることです。そのために、よみはじめの部分がうるさく聞こえました。また、十
分に声が出るのにもかかわらず、マイクを通したのはまちがいでした。音量が大きすぎて、
うるさく感じられました▼しかし、わたしが久びさに感動した「朗読」であり、今後に大きな期待を抱いています。はじめへ
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2003年4月5日(土)19:00開演 |
紀伊国屋サザンシアター(東京新宿) |
演劇人による朗読会「あきらめない―演劇は非戦の力」 | 作品:第1部・朗読と歌(9.11とイラク問題を中心に)
第2部・『今、世界各地の「この子」たちは』
第3部・アピールと手紙
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今の日本の役者たちのさまざまなレベルの表現の聞ける会でした。
政治的な目的をもった芸術家の会なのですから、文化としてのレベル
も気になります。参加した人たちが芸術的にも感動するような朗読会であれば
なおさら政治的な効果が高まるでしょう
▼いろいろな人がいました。役者なのに基本的な発声や発音の
悪い人もいます。高齢で声が通らない人は仕方ないでしょ
うが、若手の役者には訓練が必要です。また、卒業式の送辞でも
読むように文章を読む人がいます。文章を書いたであろう人を
演じた人もいますがたいていリアリティに欠けています。それは空虚な演技で、
書かれた文章の内容の価値を下げてしまいます。
いちばん多かったのが、いわゆる舞台での典型的な朗読―天に向
かって歌うようなよみです。セリフではない一般的な文章を朗読するときに
問題になるのは「語り口」です。書いた人を想像するのではなく、文章そのものに
実現された「語り口」の表現です。朗読は文字づらの伝達ではなく表現です。
他人の文章を読んでも、それが読み手の表現にならねばなりません
▼残念なのは、第一部です。コトバは聞こえるもののほとんど意味がわかりませんでした。新聞の記事や政治家たちのさ
まざまな発言や講演や詩を組合わせた内容なのでその感情を表現するのがむずかしいのでしょう。内容を理解するにはよみのテンポが速すぎました。ほっとしたのは林隆三が詩を読んだときです。
新井純の歌も意味はわかりました。企画の中心になった
渡辺えり子はさすがです。この人がよむと文章の意味が立ってくるのです。
そのあとの「劣化ウラン弾」についての講演・平田伊都子の
あたたかい話しぶりを聞いたとき、どうして第1部をこのように
表現できないのかと思いました。台本の構成にも工夫が必要かも知れません。
たとえば、攻撃する立場と攻撃される立場を対立させてよむような構成です
▼第2部はよくこなれていました。これは独立した作品としていつでも舞
台にかけてもいいと思いました。戦争を経験した子どもたちの証言をよむ女性の
読み手がは、第一部よりも心に届くよみでした。
とくにすばらしい表現は吉田日出子です。淡々としたよみを聞くうちに、
わたしは涙がでました。全体のよみ手の中でよみも歌も飛びぬけています。
もう一人、チェーホフ演劇祭でもよんだ毬谷友子に注目しました。何人も
の子どものよみをしましたが、最後の一人をのぞいて内面的な表現ではなく、
声色の技術でこなしたのが気になりました▼その他の読み手でよかったのが今井朋彦です。
この人は、チェーホフ演劇祭でもいいよみをしていました。普通の文章を読んでも、自
然にその語り口を表現できる力量があります。また、最後にアピール文をよんだ木野花が意識的な工夫しているのも印象的でした。※上演自由の台本が下記アドレスからダウンロードできます。
http://hisen-engeki.com/ はじめへ
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2003年3月23日(日)14:00開演14:45終演 |
神奈川近代文学館(横浜) |
文芸朗読会 |
出演:新井純、作品:林芙美子作「風琴と魚の町」
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70年代の前衛劇団・黒テントの出身ということで、
朗読について、一般の演劇とはちがう考えがあるのではないかと期待しました。
しかし、やはり典型的な俳優系の朗読でした。チケットには終演15時
30分とあったのに14時45分に終了しました。しかし、正直なところ、
「短く終わってよかった」という気持でした
▼地の文が軽く読まれ、会話に力がこめられます。地の文は機械的な間(マ)で読まれ、
作品の語り口は感じられません。文字が声として聞こえるだけで、
個々のことばからイメージが生まれません。緊張していたのか、
神経質な態度ばかりが目立ち、それが気どりとも聞こえるのです。
会話の声は舞台のセリフの表現をそのまま持ってきた感じで、うるさいほどです。
セリフが地の文と関係なく割り込んで来るので、語り手によって構成された
小説の世界を壊してしまいます
▼せっかくの会話のやりとりも人物同士に距離が感じられません。
それぞれの人物が独立して存在します。どの人物のセリフもクローズアップされた
人物の声として等距離で聞き手に送られてきます。
そのため、人物同士の心情のやりとりにリアリティが感じられません。
とくに、父親はかなりの作り声で演じたのでアニメの吹き替えのようでした。今後の課題は、地の文では作品の語り手の語り口の表現、会話では人物同士の距離感のある表現ということになるでしょう。はじめへ
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2002年11月29日(金)午後7時 |
銀座みゆき館劇場(東京) |
物語シアター2002「言の葉がたり」 |
出演:北川智繪、上月麻未ほか、作品:藤沢周平作「山桜」(語り・上月麻未ほか)、藤沢周平作「父と呼べ」(語り・北川智繪)
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上月麻未が「山桜」を語り出したとき、地の文にまったく感情を入れずに淡々とよむのに驚かされた。これが表現だろうか。まるでテレビの副音声のようだ。しかも、たどたどしい均等な
テンポである。そのかわりセリフには力がはいる。
「語り」に割って入るセリフは舞台のようである。そこで作品の世界がセリフと地の文とに割れてしまう。しかも、登場する人物が舞台風の振りをつけるので、「語り」としての作品世界は壊れる。そして、地の文がじゃまにさえ感じられる
▼「父と呼べ」の北川智繪の「語り」も同じものだ。地の文はたんたんとした副音声で、セリフが舞台風である。だが、さすがベテランだけに、セリフのやりとりが続くと引きつけられる。
亭主とかみさんの会話などは楽しんで聞ける。笑いも出る。しかし、そこに浮かぶ世界の
リアリティにはアニメの吹き替えを感じてしまう。とくに子どもの声が気持ち悪く、リアリティが感じられない。だが、せっかくの会話のやりとりで浮かんだ世界も、地の文が例の副音声だからすぐに消えてしまう▼ホームページには「話芸写(代表=北川智繪)の『語り』とは、作品中のナレーションはナレーション台詞は台詞としてキャラクターを持たせる語る「話芸」です」と書かれている。小説のテキストを放送劇の台本としてよんでいるのだ。文学作品の「地の文」は「ナレーション」ではない。副音声にするのではなく、いっそのこと切り捨ててセリフのやりとりだけの世界としたらどうか。その場合、放送劇になる。小説の「語り」を表現するためには、セリフのテンションに負けない「表現」としての「地の文」のよみがほしいのである。はじめへ
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2002年11月2日(土)午後2時 |
神奈川県近代文学館(横浜市) |
中島敦・没後60年記念・朗読会 |
出演:かたりよみ(児玉朗)&音楽―コントラバス(安藤久義)、作品:「木乃伊」「山月記」
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かつて朗読を辞書で引くと「朗々とよみあげる」という解説があった。
それを思い出した。声をよく張って、天に向って聞かせるようなよみである。
一口で言うなら「ギリシャ劇風舞台朗読」といえる。
それが効果的に発揮されたのは、「山月記」の漢詩のよみかただ。
なるほど日本語で漢詩をよむなら、このようなよみかたがいいかも知れないと思った
▼とにかく声もいいしテンポもいい。ところが、文の意味が立ってこない。
作品の世界が浮かんでこない。プロミネンスも文章の勘所をはずれている。しかも、均一の声質のよみに同じ声質のプロミネンスをつけるから、一本調子でうるさく聞こえる。また、作品の文体や語り口ということについても、まるで関心がないようだ。「木乃伊」と「山月記」のよみに調子の変化はない。二作の語り口のちがいはまるで表現されなかった▼音楽の演奏との関係でも問題がある。本を持ってマイクに向かう。脇ではコントラバスが不気味な雰囲気をかき立てる。はじめに流れた音楽で、作品をよみはじめる前に雰囲気ができてしまう。それはあくまで音楽としてつくられたものである。それを作品の世界の表現に変えるのは困難である。音楽のイメージには負ける。間(マ)に流れるシンセサイザーの音楽も強烈な印象だ。よみと重らないのはよかったが、声の表現は音楽にかなわない。音楽との競演が成功するとしたら、ぴったり息のあったよみ手と音楽家との即興によるものだろう。はじめへ
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2002年9月14日(土)午後5時 |
俳優座劇場(東京・六本木) |
朗読・ふたりの会 |
出演:臼井正明+七尾伶子、作品:祭の日(宇野信夫)…七尾、小僧の神様(志賀直哉)…臼井、息災(永井龍男)…七尾、押し絵と旅する男(江戸川乱歩)…臼井、野ばら(小川未明)…ふたり
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二十年ぶりの「ふたりの会」、二人合わせて150歳の経歴と知名度からの
期待が大きかっただけに、わたしは残念でした
●七尾伶子の「祭の日」は、以前に放送で読んで
また読んでみたいという思いのこもったものでした。すべてのプロ
グラムの中でいちばんいい表現でした。力みのない語り口で
地の文が始まり、主人公の娘の思いが内言でつぶや
くように語られます。しかし、地の文が作品の語り口のベースになっていません。
セリフ中心の読みなので、セリフは作品の「語り」から浮き出てしまいます。
語り口のベースが主人公の娘の心情になっているので、
地の文と娘の内言やセリフとの声の調子が区別されません。
そのために、作品の全体が骨格のないふわふわしたものに感じられました
●臼井正明の「小僧の神様」は、滑らかに読むことが朗読の技術であるなら、
じつに見事な読みでした。さらさらとよどみなく流れる早めのよみです。
力みもないし、つまずきもありません。しかし、一つ一つのことばがイメージを喚起することなく
いっしょに流れてゆきます。聞き手は流れゆくことばを意識に引き戻して内容を理解する
努力が必要です。作中のどのことばも均一な情緒と心情をもつだけで、
作品が展開していっても、読み手の声には変化ありません。せっかくの志賀直哉作品なのですが、
作品の文体や語り口からくる魅力が感じられませんでした。高度な音声訳に聞こえました。
もう一作、「押し絵と旅する男」についても同じでした。45分という長い時間、
を持たせる実力はすばらしいものですが、作品の構成の単純さに助けられています。
談話の中で臼井氏は、若いころ朗読を習ったとき、先生がタクトを振るような動作をして、それに合わせて
テンポよく読むことを目ざしたといいました。その目標が納得できる読みでした。はじめへ
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2002年7月22日(月)午後6時30分 |
博品館劇場(東京・銀座) |
山崎陽子の世界―朗読ミュージカルIV |
作・演出:山崎陽子、出演:第一部=「とぎれた子守歌」久留公子、「器量のぞみ」森田克子、第二部=「おぼろ月夜」大野惠美、「青い星の願い」森田克子
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昨年度の「文化庁芸術祭大賞」を受賞したプログラムです。
「朗読ミュージカル」とは、歌と朗読とセリフと三つの組み合わせです。
ベースは舞台でのセリフで、そこに歌が入って、
最後に朗読の部分が付け足されたもののようです。
「朗読」はおまけ扱いのように感じられました。
よかれ悪しかれ、現在の「朗読」と「朗読」そのものへの考えがよく分か
る公演でした。まず気になったのは、声の表現について心配
りが感じられないことでした。マイクを通した声の音量、語りの部
分の表現、歌の心の表現などにそれが感じられました。それならば
歌が聴けるかというと、それだけで聴ける魅力的には欠けています。
きれいな歌声は期待しません。音がはずれようとも、
心情を声にする細やかさがほしいのです。地の文を朗読する部分は表現ではなく、
まったくのアナウンスです。作品の語り手の語り口の表現も考えられて
いません。だから、作品の世界の全体像が、個性的なものとして浮
かび上がってきません。全体を通して登場するピアノにも同じパターンと
同じムードが感じられました
▼わたしが楽しめた唯一の作品は、大野惠美「おぼろ月夜」でした。
声で表現する作品としてもおもしろい構成でした。エレベーターガールが出会った老
夫婦との逸話です。ユーモアコント風に仕上がっています。ただし、
老婆と老人をいかにもそれらしい声色で演ずるところは気になりま
した。聞き手の想像力が演技者の表現にとどまってしまいます。文
章の表現は文章そのものの表現として味わいたいものです。
このグループの中心となる演者は森田克子です。高い表現力のある
人です。時代物の「器量望み」とファンタジー風の「青い星の願い」
の二つを演じる技術の幅はたいへんなものです。しかし、裏声を中
心とした歌声はうるさく感じられます。また、客の笑いを取
ろうとする態度に大衆芸能のようなあざとさもあります。しじゅう
笑わせるのでなく、まず、語り口のベースとなるような
リアルな語り口とリアルな人間の描写がほしいのです。その上でこ
そ、心から笑える表現が生まれるのでしょう
▼作品の構成は、どれも舞台台本の軽さを基調に
していますが、作品の表現である文章そのものが響いてくるような
作品もほしいものです。森田が得意とするのは、多くの人物を
声色で片づけてしまう演技ですが、うっかりすると器用貧乏になります。
作品の文章の響きそのものを生かす作品
をとりあげたとき、森田がどう演じるのか期待します。
あるいは、語りをなくして、セリフと歌ばかりでやってしまったら、
とも思います。しかし、そうなったら「朗読ミュージカル」と名乗
る意味はなくなります。何よりも重要なことは「朗読」がどこまで
表現として成り立つかということになるでしょう。はじめへ
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2001年11月25日(日)2時 |
シアターX(カイ)(東京・両国) |
書簡朗読「はぐらかされた わが幸せ」 |
作:牧原純、演出:斎明寺以玖子、出演:鈴木瑞穂(チェーホフ)、
内田稔(兄)、川口敦子(妹)、加藤忍
(シャプーロワ)、毬谷友子(ミジーノワ)、島田雅彦(チャイコフス
キー)、池田直樹(ゴーリキー)、今井朋彦(メイエルホリド)、岸田
今日子(妻) |
チェーホフの書簡を構成して朗読するというめずらしい舞台です。
それで2時間半をあきずに聞かせるのは、なかなか
むずかしいことです。書簡そのものの意味を表現するとともに、書簡の背後の感情も表現する必要があります。
▼最初に読み手が「わたしは…の書簡をよむ…
です。」という自己紹介をします。もうそこでクセのある役者風の
セリフになる人がいました。鈴木瑞穂は一貫して感情を揺るがせずに、チェーホフ
の書簡をよみました。だれともない相手に向かって空間に投げ出す
ようなよみです。よみ手の中心に位置した太陽のような
立場を演出したのでしょうか。わたしには労力の節約のように感じられました。妻クニッペルの岸田今日子は、声に力がなく、
発音も不正確でしたが、鈴木瑞穂とのやりとりは見事でした。鈴木瑞穂が
空間に投げ出したコトバを受けとめて噛み合う対話にしていました
▼わたしがもっとも感心したのは加藤忍でした。演技ではない独自の表現でした。
セリフでもなく、よむのでもなく、書簡の背後にある心情の揺れを的確に表現したすばらしいものです。
もう一人、毬谷友子もよかったのですが、こちらは書簡の表現に則さない表情過多の部分が
ありました。とはいうものの、この二人の女性は舞台の魅力をアップさせるものでした。
男性では、メイエルホリドの今井朋彦のよみもいいものでした。最初はやや朗読風かと思いましたが、
しだいに青年芸術家のはつらつたる喜びの表現となりました。後半で、「桜の園」の台本をめぐっ
て、岸田今日子と対比される感情を、書簡を交互によむところは、
二つの書簡の意味を生かした見事な掛け合いでした。よくないのは、チャイコフスキーの島田雅彦とゴーリキーの池田直樹でした。島田は力量不足、池田は書簡を歌詞にして歌っていました
▼台本の構成としては、前半はチェーホフ紹介のあらすじのようでしたが、
後半になっておもしろくなりました。戯曲をめぐるエピソードや
チェーホフの思いや人物像が浮き上がってきました。しかし、まだまだ構成を磨き上げる余地があります。
書簡朗読の可能性を追求してほしいものです。小説の一部を取り入れた構成も考えられます。そのためにはテーマをしぼって明確に打ち出さねばなりません。わたしが表現よみで参加した小説「すぐり」の名が何度も出たのはうれしいものでした。はじめへ
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2001年11月25日(日)6時 |
原宿アコスタジオ(東京・原宿) |
秋元紀子ひとり語り「安房ールドファンタジー vol.4 |
「鳥」「ライラック通りのぼうし屋」 |
「語り」と銘打つものの「朗読」でした。テキストを持っていたという理由では
ありません。声の響きもいいし基礎的な発声や発音はできているのですが、
部分ごとの表現で意味が立ちあがってこないので作品全体がのっぺりしていました。
「鳥」の32分、「ライラック通りのぼうし屋」の38分が長く感じられました
▼作品の構造をとらえる必要があります。地の文も会話も字づ
らのレベルで表現されています。小説や物語のテキストは
「語り手」による語りの構造をとっています。たとえば「鳥」では、
語り手が医者と少女を紹介し、途中から少女
の語る長い話に入ります。その中に登場する女の会話は、次のような四重構
造の奥にあります。〈女の会話←語り手としての少女←語り手←(作者)〉
この構造をとらえれば「地の文」と「会話」という単純なよみ分けではなくなるでしょう
▼すべての声の表現が聞き手に語りかける声なので一本調子です。
ぜひとも必要なのが、一人称の「私」を表現する意識に近い
声です。自分で自分に聞かせるような声です。これをベースと
して語るなら「語り」の語り口の表現ができるでしょう。動きとしては、
作品に書かれたとおりに椅子に腰かけたり、
立ち上がったりするのが不自然でした。また、せっかくの効果音楽が
声を消してしまったり、その場面に合わない感じがあったのも残念でした。(「秋元紀子ひとり語り」ページへ)はじめへ
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2001年11月3日(土)3時 |
明日館(東京・池袋) |
朗読の窓「驢馬の耳」 |
河崎早春/エッセイと「かくれんぼ」(吉屋信子)、飯島晶子/詩(新川和江)と「お母さん」(遠藤周作) |
「いいよみとはどういうものですか」と聞かれると、
わたしは「聞く気になっていなくても、自然にこちらにやってきて、
心をつかまれてしまうようなよみです」と答えます。飯島晶子
「お母さん」と河崎早春のよんだエッセイがそれでした
▼飯島晶子の「お母さん」には思わず涙がこみあげる
ところもありました。中年のストリッパーが高一の息子の話をする一人
がたりです。あと一歩で一人芝居になりそうなほど、声や表情にも
感情をこめていました。わたしはときどき目を上げて表情や身ぶり
を見ましたが、見ることによって、作品そのものの情緒はマイナス
になるような気がしました。まだ、声と表情と身ぶり
に若干の距離があるからでしょう。しかし、これは飯島晶子の個人的
レパートリーにできる作品です。そのためには、いきなりストリッパー
の会話ではじめるのではなく、序として目撃者である「私」の語りを入れて、
結びとサンドイッチのかたちにするといいでしょう。ストリッパーの語りが、
「私」の語りの中に収まって作品全体の統一が取れるようになるでしょう
▼河崎早春のエッセイは非常に丁寧によまれていたので、
その世界が浮かんできました。作品の文章が会話のない地味なもので
あったのがプラスにはたらきました。「かくれんぼ」はセリ
フと「私」の語りとのギャップがあるので、まとまった小説の世界
を聞いている感じがしませんでした。セリフが立ちすぎるので、
聞き手がキャラクターを想像する余地がありません。「かくれんぼ」の
テキストは「私」の語りが生きていないので、芝居に近いセリフでは
浮いてしまいます。そもそも作品の内容が、わたしにはおもしろ
いものではありませんでした。もう一つ、最初のスピーチのとき
から鼻にかかった声の裏返りが気になりました。話しのほとんどが
裏声です。エッセイではそれがほとんどなく、「かくれんぼ」では
意味ない裏声が多くなりました。おそらく聞かせようという意識が
テンションをあげさせるのでしょう。地声のよみがベースになれば、
聞き手に落ち着きをあたえて作品の世界を浮かばせるよみになるでしょう。飯島晶子のページ/河崎早春のページ/はじめへ
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2001年10月31日(水)6時半 |
鈴本演芸場(東京・上野) |
《番外編》小三治独演会 第47回他に、柳家三三、真打ち披露(柳家一琴、柳家禽太夫) |
柳家小三治「金明竹」、「うどんや」 |
「金明竹」は、骨董屋のおじにあずけられている与太郎風の金公が
留守番のときに、関西弁をま
くし立てる使いの者が来る話です。その早口のことばの内容を聞き
とれないおもしろさです。小三治の第一の魅力は人物の実在感です。
まさに「了簡になる」というものです。ほかの落語家は、使いの
者の早口のセリフを観客には理解できるように演じていたと思いますが、
わたしにも内容が聞きとれないように演じていました。
その心を想像すると、与太郎風の金公をどう評価するかという
テーマに関わってきます。つまり、与太郎風の金公も、いっしょに
話を聞いたおかみさんも、そして、観客のわたしたちも専門的な話
については、平等に無知であること、その意味で、金公を笑えない
ということになるでしょう
▼「うどんや」は、いろいろな人のものを聞いていましたが、
はじめてこの演目で泣かされました。話は鍋焼きうどんやの屋台に
酔っぱらいがからんでくる話です。その酔っぱらいの独り言のような話から、
その人の人生が浮かびました。わたしが泣いたのは、幼いころから
かわいがった隣の家の娘の婿取りの晩のところです。
男には子どもがなく娘のように思っていた娘が、婚礼に呼んでくれ
て、男の夫婦を正面の席に座らせるのです。そこに現れた娘の高島
田の描写と、それを見たときの思いをしみじみと語るところです。男の
人生最大の喜びのすがたについ涙しました。
最後に、ひそひそ声の男がうどんを黙って食べる場面を見ながら、
一人芝居の舞台や若手の漫才やコントなどを連想しました。それらの
表現の多くの要素が落語にはそなわっているのです。物売りの声や
都々逸などの声の響きもすばらしいものでした。小三治がこの演目を
取り上げたのは、甲高い声を張り上げて演じた
ふたりの真打ちへの批評としての贈り物だと思います。はじめへ
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2001年9月28日(金)6時半 |
お江戸日本橋亭(東京・日本橋) |
きばってまッせ!! Vol.5(きばらん会/青二プロ大阪出身者の会) |
第1部―あなたに電話 その1・その2(鎌田敏夫・作)、新・モモタロー(田辺聖子・作)、第2部―卵に目鼻(田辺聖子・作)、約束(藤沢周平・作)
|
このグループのアレンジはラジオドラマ風のものです。前回と同様に
マイクが気になりました。狭い会場なのに
必ずマイクを使います。再生の音が大きすぎて、ハウリング
を起こしたり、音量のミスがありました。何よりも、声がのっぺり
して聞こえるのが気になりました。生の声のほうがことばの微妙な
ニュアンスが表現できます
▼よかったのは「新・モモタロー(田辺聖子作)」でした。楽しく笑えまし
た。イヌ(竹田佳央里)が語りを兼ねたもので、関西弁の気がるな
語り口が原作の雰囲気を生かしていました。
一人の語り手が一貫して担当するので、作品の世界が
安定していました。ただし、語りとイヌのセリフとが交代するとこ
ろにムリを感じました。思いきってイヌのセリフも切りはなしたら
どうかと思いました。ほかには、女鬼(佐々木亜紀)のアニメーション風
のセリフも妙な効果を上げていました。イヌの妻(陰山真寿美)も戯
画的な存在感がありました
▼残念だったのは「約束(藤沢周平・作)」でした。阪脩のセリフはいいのですが、
語りのよみに疲れが見えて迫力不足でした。この作品では、セリフの担当者4人
が地の文もよむのですが、語り手が変わることで作品の統一感が
こわれていました。文学作品をラジオドラマ風に構成すると、どうしても
文体の語り口が失われるものです。しかも藤沢作品は、そもそも文体の語り口が
貧しいものです。4人の語り手のうち、幸助(中井和哉)のナレーション風の無機質な
語りがいちばんあっていました。阪脩の語りは思い入れの表現をしかねているようでした。はじめへ
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2001年9月1日(土)7時 |
シアターX(カイ)(東京・両国) |
『ピアノのかもめ/声のかもめ』高瀬アキ(ピアノ)+多和田葉子(朗読)のパフォーマンス |
第1部 チェーホフの音(桜の園―三人姉妹―かもめ)ほか、第2部 ケープタウンは夜の映画館ほか
|
まず、日本語の声の響きを大切にしていないと感じました。
マイクの音量が大きすぎて、しばしばハウリングを起こすのが
気になりました。発声がよくないので生の声では通らないのでしょう。
声の表現だけとったら高校生の文化祭の朗読並みの印象です。
とくに、第1部でチェーホフの戯曲をモチーフにした詩の朗読は、
発音が悪く、早口で、ほとんど内容が入ってきません。
あっと思わせる見せ場は、第1部の最後の詩、手でリズムを取りながら
朗読するものでした。第2部になると、よみなれている詩のせいか、
ひとつひとつのイメージが伝わるようになりました。
また、半分以上の時間を占めているジャズ風のピアノの演奏は聞けるものでした。
しかし、この人が読み手と掛け合いをするときの声がとても汚いのです。
老婆がしゃがれた声で少女の口まねをするような声です。
ところどころにはさまれるこの声にずっと気持ち悪さを感じていました
▼第2部では、意味のないイメージのラレツのような詩がよまれまし
た。シュールリアリズムのような異様な感覚が生きています。それは、
ニヒリズムかデカダンスと呼びたいイメージです。むしろ不快に感じられるような
イメージを重ねていきます。その一方で、不釣り合いな幼稚な
イメージとも組み合わされます。わたしはダリの絵画や筒井康隆の小
説などを連想しました。それがテーマだといえばなるほどというし
かありませんが、気持よくないのです。
そこから振り返ると『かもめ』のトレープレフの演劇論のセリ
フで、デカダンだといわれたことへの反論に、妙に力が入っていた
ことに思い当たりました。それは自らのパフォーマンスへの批評を先取り
した反批判なのかと思いました。はじめへ
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2001年7月31日(火)1時30分 |
野方WIZ(野方区民ホール・東京・中野区) |
朗読構成・岸田国士の世界 集団ひびき(主宰・坂井清成) |
岸田国士「古い玩具」、「富士はおまけ」、「歳月」
|
はたして演技をすることなく戯曲をよむことはどこまで可能かとい
う疑問を持ちました。この会のメンバーはもっぱら「朗読」をして
いる人たちですから、どうしても「セリフを読んでいる」という
印象が消えません。セリフをよむのと演ずるのとはちがいます。
たとえば、人が「おーい」と遠くの人を呼ぶ場合、よみでは、まっ
たく小さな声で「おーい」といって現実の声を想像させられます。
しかし、演技となると、かなり実際の声に近い声の大き
さで出さねばなりません。心理的にもかなり高
いテンションで声を出すことになります
▼「古い玩具」は、一人ひとりがそれぞれのセリフをいかにも
「読んでいる」という印象で、セリフの絡み合いができていませんでした。
ラジオドラマ「富士はおまけ」は軽いコントのようで、作品そのものがおもしろ
くなかった。内容が聞けたのは「歳月」です。主人公・八洲子が17
年前に別れた夫と再会してあらためて自立の決意をするという話で
す。読んだのは全3幕のうち、3幕だけでしたが、その場面として
のまとまりを感じました。前の二つの幕を知らなくても楽しめまし
た
▼八洲子の松川真澄さんはソフトな声と心情の表現が他の人より
も図ぬけていました。しかし、最初のうちは人物の心情の表現より
も声の響きに意識が行っていたようです。後半になって声の乱れと
ともに人物の心情が表現されました。ところが、相手役である男た
ちが手慣れた声優の吹き替えパターンのようなのが気になりました。
しかし、娘・みどりの村田千春さんのすがしがしさは印象に残ります
▼意外におもしろかったのは「ト書き読み」というものです。要する
に「八洲子、部屋を出て行く」というよみがはさまるのですが、こ
れがいわゆる異化効果となって作品の構図が浮き出てきます。
「間」のところで人物のアクションがないので、間が持たないという場面が
たくさんありました。そのせいか、予定時間よりも15分も早く終演となりました。はじめへ
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2001年6月17日(日)7時 |
角筈ホール(東京・新宿区) |
第21回放送表現教育センター研究生発表会(主宰・山内雅人) |
山田洋次原作「裏長屋愛妻記」、伊藤桂一「七夕の夢」
|
「裏長屋愛妻記」はゲストと講師によるよみ
(永井一郎、阪脩、北村弘一、岩原幸子、田村操、三川雄三、戸村美智子、櫻庭祐士)、
「七夕の夢」(植草美幸、阿部伸子、入西恵子、天海一彦、阿部ひろみ)は
専科教室生徒のよみである。日ごろは一人よみの練習をしているそうだが、
発表会はラジオドラマ形式の分担よみである。毎回、生き生きしたセリフの表現に
魅力を感じるものの「語り」になるべき地の文の表現が貧しい。テキストの構造が
「セリフ」と「ト書き」と理解されているためだろう。また、たいてい通俗的な
軽い作品がほとんどなので作品そのものを味わうという魅力に欠けるのが残念だ
●「裏長屋愛妻記」は講師総出演のためらしいが、ナレーションの分担が
細かすぎた。人物のセリフの表現では、熊
五郎の櫻庭祐士、甚兵衛の阪脩がよかった。この二人のやりとりだけで
もおもしろさは十分だった。しかし、どの人のナレーションからも、作品それ自体の魅
力は感じられなかった。ト書きの部分が説明
の文体だからだろう。原作自体もモデルとなった落語「子別
れ」には負けている。文句なしに笑えたのは落語そのもののやりとりを
生かした熊五郎のセリフだったのは皮肉である
●「七夕の夢」は主人公の男とふたりの女のセリフは
感動的だったが片方の女性のアニメ風に作った声は気になった。
本来なら「語り」になるべき「地の文」を3人が担当したが、作品の調子
と雰囲気にまとまりを欠いて
いた。いいよみ手が一人で語り、そこにセリフがからんだらいい
だろう。いちばん目立たなくて地味だった語り手の表現がこの作
品には ふさわしい。 だが、わたしはこの作品の通俗性が
気になる。都合のいいお涙ちょうだい式のつくりには抵抗を感じる。はじめへ
|
2001年5月14日(月)4時50分 |
なかの芸能小劇場(東京・中野区) |
第8回 春の朗読まつり |
太宰治「魚服記」、樋口一葉「にごりゑ」、田島征彦「じごくのそうぺえ」
|
坂井清成(きよしげ)の主宰する音声表現学苑の「おさらい会」のゲストコーナー3人のよみを聞きました。3人ともプロもしくはプロに近い人々だそうです
▼「魚服記」の松川真澄は
1999年8月に「きりぎりす」をよんだときには語り手の語り口がよく出ていた
のですが今回の語り手の把握には苦労したようです。この作品の語り口は
民話風の渋いものです。冒頭から語り
口が沈みがちで、ナレーション風の文末が情緒的なのが気になりま
した。そのために段落の切りかえなどにメリハリがなく自信の無さ
が出ていました。しか
し、後半で語り手がスワの心情と重なってくるあたりから作品の調
子と合ってきました。スワのセリフが一部アニメ風で張りすぎたも
のがありましたが、投身場面の「おどっ」はよかった。今後の課題
は、人物の会話と内言の部分のリアリティでしょう
▼「にごりゑ(四)」の守屋政子は
一葉の格調ある文体がよじれたように感じられるよみでした。しか
も速すぎます。全体をくずして柔らかくしているのですが、会
話のところにいかにも舞台風の調子がつけられて、人物のリアリティ
がありません。それに引きずられるように、地の文までが型くずれ
して一葉のハリのある文体が生きません。
事前にそれまでの「あらすじ」のプリントを配布するのも興ざめでした。
すじではなく場面のよみでも表現として聞かせてほしいものです
▼「じごくのそうべえ」の坂井清成は
さすが主宰者というよみでした。安心して聞けます。神戸
出身のことばを生かして、関西落語風のセリフのおもし
ろみあるよみでした。しかし、テキストが絵本なので笑いを生むには無理がありました。
文章に聞き手の想像をわかせる魅力が
欠けていたのです。スライドで絵を示すなどの方法があったら作品
そのものも楽しめたでしょう。はじめへ
|
2001年3月27日(火)7時 |
六行会ホール(東京・品川区) |
白石加代子「百物語」第18夜(演出:鴨下信一) |
三遊亭円朝「真景累ヶ淵」、筒井康隆「関節話法」
|
一と口に言うなら「完成された一人朗読
劇」ということになるでしょう。「よみ」ではなく「演技」の世界です。
作品の世界を描き出すというよりも、どんな作品でも白石加代子の
世界にしてしまう強烈な表現です
▼「真景累ヶ淵」(約70分)では、テキストをよみつつ会話のと
ころは動作と表情を加えて演じます。ただし、人物全員が厚化粧の
マネキンのような感じのものでした。人物の怖さは非人間的なものです。
そこに筒井康隆のニヒリズムに通じるものがあるかもしれません。
しかし、原文が落語の形式であるだけに、
地の語りの調子が気になりました。観客とのあいだに常に距離をおく
声の冷たさがあります。演技の皮を一枚かぶっているような
歯がゆさがあるのです。また、ところどころで観客に過剰とも思われる
「サービス」の語りかけをするので語り口の統一が乱れます
▼「関節話法」(約35分)では、テキストを見ながら活発に
動き回ります。服装は太極拳のような黒い衣装、頭に大きな赤い花を二
つつけていました。関節を鳴らす言語表現という発想です。文字に
書かれた言語を白石加代子は自らの全身の運動で関節話法として見
せるのです。その動きが観客の笑いを誘いますが、それはコトバの表現ではない
身体表現のおもしろさです。筒井のねらった言語表現との対比のおもしろさが
消えてしまうほどのハシャぎようが気になりました
▼聞き終えた印象は「圧倒された」という感じです。
一方的に白石加代子の世界を押しつけられて、自分がまったく受け
身にされてしまったような感じで、気持ちいい後味ではありません。こ
れを快感とするかしないかが好き嫌いの分かれ目ということになるでしょ
う。「白石加代子の部屋」へはじめへ
|
2001年3月3日(土)11時半 |
明日香舞台(東京・銀座二丁目) |
近代文学研究会「たけくらべ」朗読公演(演出:八木光生) |
石村昌子、牛丸奈保子、岡橋和彦、宮川嵯羅(以上、劇団民
芸)、越前屋加代(ザ・スーパー・カムパニイ)、岡崎ちか子(?)、
堀江真理子(アンクル・ベイビー)
|
近代文学研究会という名称にひかれました。2回目の公演でした。
文学作品を演劇風に処理したものの、演劇としても朗読としても中途半端なものでした。
今後、研究してほしい課題がいくつもあります。
朗読は演劇とはちがうので、そのちがいをどうとらえて、どう表現に生かすか
ということが根本となります
▼第一に、よみの表現が未熟でした。とくに地の文をよむときに世界をイメージさ
せる表現力がありません。パターンになった叫ぶようなよみなので
樋口一葉の文体の表現にはなりません。会場は日本舞
踊の稽古場で、二十畳ほどの板の間の半分が舞台、半分が客席でし
た。観客約40名が座布団に座っています。どの人の声も張りすぎで、
うるさいと思うほどでした
▼第二に、セリフがよくない。小説のセリフを演劇の舞台とおなじ声
の張りでよんでいました。もともと、小説のセリフは舞台のために書かれてはいません。
演劇のセリフ、ラジオドラマのセリフ、朗読のセリフ――この三種類のちがいが自覚され
ていません。いわゆる新劇風の下手なセリフで、それぞれが「朗読」するから、
登場人物たちが演劇的にも噛み合わないし、語りとしての作品の統一もできません。
よみ手それぞれがてんでんばらばらです
▼第三に、見せる舞台とはちがう朗読の舞台への考慮が不足していました。
場面ごとに拍子木が入り、よみ手の交替と位置の移動が
ありますが、それは視覚を考慮しただけのことです。地の文と会話
とのよみ手の入れかわりが激しいので、作品の語り口が生かされません。
せめて語り手を2人くらいに固定して、登場人物が入れ替わった方が視覚的に
もずっとすっきりするでしょう▼朗読とは俳優を前面に押し出すものではなく、あくまで
作品の語り口を生かすものです。そんな魅力のある舞台を今後の研究から
生み出してほしいと思いました。はじめへ
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2001年2月26日(月)午後1時30分 |
千代田区内幸町ホール(東京・新橋駅下車) |
午後の朗読館 |
太宰治「葉桜と魔笛」・新美南吉「てぶくろを買いに」(フルート=ニコス)飯島晶子/里見怐uいろをとこ」河崎早春ほか三人 |
表現のレベルに達していたのは飯島晶子と河崎早春の二人でした
▼飯島晶子は発声・発音などの基本は十分で声も魅力的でした。
「葉桜と魔笛」では姉と妹の会話のやりとりもいい。しかし地の文の語りとのバランスがよくない。
会話に語りが負けている。「語り手」の表現をもっと一貫して押し出
す必要があります。ところどころにナレーションの調子がちらつく
のが気になりました。そのために作品の世界が浮かび上がらない。
はじめて作品を耳にする人にはつらかった。今後の課題は「語り手」
を妹の会話以上にしっかりと表現することでしょう。また、
「てぶくろを買いに」は文体の語り口がうすいのでなお
さら地の文が少し早めのナレーションになっていました。語りから
情景を浮かばせる力が弱いのです。自分が世界を理解することよ
りも、聞き手に伝えようとする意識が強いようです。
フルートの伴奏と重なったところはよみが負けていました。会話ばか
りが目立つ気がするのは「語り」がかげに回ってるからでしょう
▼「いろをとこ」は粋な雰囲気が河崎早春のキャ
ラクターに合った作品でした。会話は舞台風のものでした。
男の会話はパターンから出ない作り物でしたが女性は魅力的でした。
せっかくの女性の会話なのですから里見怩フ文体を生かす
語りの力がほしいと思いました。出だしで感じられた文体の調子
に統一されず、途中は突き放したナレーションでした。会話
の表現を落として地味にするのではなく、語りの表現を強化して作
品全体をつつみこむ表現に発展させる方向が必要でしょう
▼二人の作品のよみから作品の切り取りの重要性を感じました。
残念ながら、二つの作品とも、作品の展開がよく
わかりませんでした。作品の切り取りと構成の再考が必要です。
二人とも実力のある人なので今後の発展が楽しみです。はじめへ
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2001年2月10日(土)午後7時 |
コーヒースペース・しろとくろ(東京・水道橋西口) |
山口晶代 ソロパフォーマンス |
瀬戸内寂聴『冬薔薇』
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ビルの中にある小さな喫茶店に40席ほどの椅子がならんでいました。
ささやくような小声での45分ほどの「語り」でした。
一と口で言うなら、平野啓子風の語りです。
評価できるところは、とにかく最後まで作品を聞かせてくれたことです。
冥界にいる女性が別れた愛人に向かっ
て、二人の出会いから別れまでを「あなた」と呼びかけて語るとい
う話自体が、次がどうなるかとの期待を生んだからでしょう
▼根本的な欠点が二つあります。第一に、声の問題です。
声が小さくて張りがないこと、しかも発音がよくない。
口の開き―とくに下あごの開きが小さいので、おちょぼ口の
ような口つきの発声になる。これが表情まで貧しくしている。
さらにサ行の発音も不正確です。発声と発音の再訓練が必要です。
第二に、舞台朗読によくある表現の欠点があります。見せ場になると、
早口になってテンポをあげる工夫には効果はありません。
作品の「語り手」の心情と語りの心境をどうつかんでいるのか、それが根本です。
セリフの表現はなかなかいいのですが、作品の文章の構造をとらえることが必要です
▼しかし、かつて前進座で6年学んだこと、その後、さまざまな
ワークショップでの勉強という努力をしている人ですから、
今後に期待しましょう。山口晶代ページへ/はじめへ
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2001年1月8日(月)午前11:30- |
クロスタワーホール(旧東邦生命ホール・東京・渋谷駅下車) |
「グループD・I・L朗読劇公演2001」Reders Theater |
「竹取物語-序章-」/「ブレーメンの音楽隊」グリム童話/
「空中ブランコ乗りのキキ」別役実作/
「カチカチ山」太宰治作/ 「長ぐつをはいた猫」E・ケストナー作
|
『朗読劇ハンドブック』メルビン・ホワイト+レスリー・コーガー
(玉川大学出版部/1989)の訳者である岡田陽の指導する
「朗読劇」というものを一度は聞きたいと思っていた。やっと実現したが、本で読んで
いた朗読劇とはちがった。劇のつなぎとして朗読をつけただけの感じだ。
ナレーターだけがテキストを持ち、登場人物はすべ
てテキストを持たずに演技をする。
わたしは朗読劇は、アクション外した分だけ、
声の表現に集中できる表現の場だと思っている。このグルー
プの朗読には、そんな訓練の成果を感じなかった。演技
の練習が中心で、ついでに朗読をつけているようだ。
●「竹取物語」は「群読」だ。
群読の宿命なのか。声をそろえることが目的の棒読みだ。
翁のセリフは講談調なのだが、なかなか心の入ったものだった
●「ブレーメンの音楽隊」は、主人公のロバ、イヌ、ネ
コ、ニワトリを子どもにしたのが適役。童話の世界が違和感なく表現された
●「空中ブランコ乗りのキキ」は、主人公キキ役の青年の
セリフの無感情な一本調子のセリフと表情が気になった。演劇として
も声の表現として中途半端だ
●「カチカチ山」はウサギとタヌキのセリフの芝居にしてしまえばよかった。
羽織袴姿で張り扇を持った講談調の語り手がいるものだから、語りの内容
と演技との間にズレが生じる。作品の地の文の「語り」から想像するものと
演技者の表現とがちがうのだ。演技者の動きが不要なアクションになるし、
演技者の表情が原作のキャラクターとはちがうのがありありと見え
る。もっと作品の文章の表現を生かすには朗読を生かすべきだ
●「長ぐつをはいた猫」は良質の児童演劇を見
た感じだ。主演の玉川みなみの猫が魅力的で、色気ある猫の姿態をうまく表現していた。はじめへ
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2001年1月7日(日)午後6:00- |
内幸町ホール(東京・新橋駅下車) |
戸村美智子 ことばの宝石箱「読む・語る・舞台でするラジオドラマ」ほか |
(1)杉みき子作「おばあさんの花火」林玉緒、(2)西澤実脚本・梅若伝説「隅田川」内藤和美、(3)舞台でするラジオドラマ「客」 柴田寿子作・演出、戸村美智子・こあけみつよ・金親義彦・阪脩ほか
|
「おばあさんの花火」の林玉緒のよみは、安定した危なげのないものである。
自分が演じる姿を見せる、聞かせるという態度で大人向けの読み聞かせといえる。
ただし「語り手(ぼく)」の位置と立場がよみに表現されないので作品の統一がない。
一人ラジオドラマとでもいいたい。また、人物の声に語り手の評価が入らない。
とくに、おばあさんのセリフの部分が、いかにもそれらしい演技のように感じられる。
作品そのものが子ども向けの軽いものなので、こういう作品はこういうよみし
かないだろうな、という気もする
▼梅若伝説「隅田川」の内藤和美は、テキストを持たない
「語り」の形式である。平野啓子のめざす型であるが、こちらのほうがうまい。
しかし、声を自分と聞き手との中間の空間に投げ出すナレーションのようなよみだ。
バスガイド風の二音節目の節上げの調子が続くので一本調子である。
もっとくだけた語りの調子の変化がほしい作品だ。調子の
ワクにことばをはめこんでいるので、語り手の心情に動きが出てこない。
わたしはこのよみには個性と魅力とを感じなかった。よみの魅力は、
まず声の魅力として感じられるものだ。俗な言い方では「色気・艶」、
世阿弥いうところの「花」に通じるものだ。まずはナレーションのヨロイを
取り去って、本来の「語り」の表現にしてほしい
▼「客」のオチのあるコント風の作品がわたしにはおもしろくない。
見せ場までの導入が長すぎる。全体が一時間近いので、おもしろく聞ける後半を中
心に半分の長さにしたらいいだろう。やはり光っていたのは阪脩の演技である。
一言セリフで参加するだけで場面全体に重みが加わるのがみごとだった。はじめへ
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2000年10月9日(月)午後2:00- |
お江戸日本橋亭(東京・地下鉄三越前駅下車) |
きばってまっせ!・きばらん会・第4回勉強会・阪脩・永井一郎ほか |
(1)鎌田敏夫「父と子」、(2)山本文雄「にわとり」、(3)遠藤周
作 「するべからず」、(4)森瑶子「曇りのち雨」、(5)田辺聖子
「愛のそば」
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ラジオドラマを舞台で表現する試みといったらいいでしょう。
100人ほど入る会場は、広めの学校の教室のような感じです。
そこで、各々がマイクを使うことに
は驚きました。小声でも表現ができるという効果はありますが、
若手の中には、うるさいほどの大声を出す人もいました。
▼まず感心したのが、予想どおりすばらしい阪脩のよみでし
た。「父と子」の父役、「するべからず」の大学教授の論文のよみ、
「愛のそば」の探偵する男と、三つの人物をみごとによみわけてい
ました。それも、演技ではなく、作品をその場にふさわしくよむと
いう表現でした。
▼永井一郎の「父と子」の「父」には感動しました。しかし、
「するべからず」では、よみについての迷いを感じました。語り手の
「私」をよみましたが、表面的には笑いをおさえた語りであるのに、
ついついお客に向かって演じてしまったようです。そして、それに
気づいて、またおさえたよみにするという感じでした。
▼この二人に比べると、若手のよみは基本的な発声ができてなかったり、
リアリティのないアニメ風のセリフが気になりました。とくに、わたしが
残念なのはとりあげられた作品です。ほとんどがすじのおもしろさをね
らったものでしょうが、わたしはこのような作品にはおもしろさを
感じません。文章の表現からの味わいもありませんでした。
どの作品も、聞き終わった後、それがどうなのと言いたいようなお話でした。
▼舞台の構成で気になったのは「父と子」でした。父 (阪脩)
と娘、父 (永井一郎)と息子の二組の対話でした。本を手にしたものの、
二人が向かい合って演劇のようにお互いが話すのが気になりました。
会話ばかりで成り立っているので、演劇の練習として聞いてしまいます。
これなら、本を持たずに演劇にしてしまった方がいいでしょう。あえて
本を持った舞台を構成したとき、演劇のように直接見せるのではなく、
聞き手の想像力を刺激する世界を創造したいものです。はじめへ
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2000年9月20日(水)午後6:30- |
日暮里サニーホール(東京) |
けやき会・物語の世界/特別出演・鎌田弥恵 |
藤井青銅「白い小さな雲」、向田邦子「字のない葉書」、江国香織「冬の日・防衛庁にて」、藤沢周平「十三夜」、森瑶子「ボウリング」、山川方夫「予感」、小泉八雲「因果ばなし」、向田邦子「再会」、藤沢周平「朝顔」 |
出演者8人は、鎌田弥恵 (みつえ)の教える朝日カルチャーの講座の出身者である。
いい意味でもわるい意味でも、今の「朗読」の常識的な水準を示した会である。
ほとんどの人が個性の感じられないナレーション風のよみであった
▼「語り」としてテキストを持たずに演じるのだが、どれもこわばった声と
こわばった表情なので、笑えそうな作品も笑えない。あらた
めて、テキストを暗記することが、「語り」の表現を保証するもの
ではないと思った
▼最大の問題は、よんでいる世界がイメージとして浮かんでこない
ことだ。伝わってくるのは「きれいな声」ばかり、かろうじて世界が浮かぶ
のは「ボウリング」 (長谷由子)と「朝顔」 (鎌田弥恵)くら
いだ。ただ「ボウリング」はもっと笑える作品なのに、地の文の固
さと宝塚風の会話でずいぶん損をしている
▼作品のテキストはラジオドラマの台本のようにとらえられている。地の文はナレーション風の一本調子で、文章の表現とは関係ないところに感情を入れたりする。会話になると舞台のように
張り切って声を張り上げるが、宝塚風やアニメ風でリアリティがない。
さすが、鎌田弥恵のよみには表現と余裕があった。ほかの人たちは、鎌田の技術を
少しずつかじりとったようだ。「冬の日…」や、「因果ばなし」のセリフは、間延びしていてイライラ
するほどだった。だが、鎌田のよみでは長い間(マ)が生きていた。残念ながら、最近の病気のために声が衰えて息づかいも苦しそうで迫力には欠けていた
▼何よりも、とりあげられた作品がそろって魅力ないことが残念だった。
どんな作品を選ぶのかということは、よみにおいて何を表現するのかという「朗読観」に直接につながるものである。今後どのような作品を選んで表現していくかが重要である。はじめへ
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2000年9月3日(日)午後6:30- |
東京芸術劇場小ホール1(池袋) |
演劇研究室「座」第4回公演 |
詠み芝居●泉鏡花『高野聖』(原作「夜行巡査」「高野聖」の二本立て) |
コンセプトは「優れた文学作品を原文のまま読み進めながら音楽と
舞踊の要素を加え、原作のエネルギーと味わいをそのままに
演劇として立体的に構成する」ことです。「詠み芝居」という名称もユニークです。
わたしは以前から期待をしていました
▼しかし残念ながら「よみ」も「芝居」も中途半端でした。第一に、よみの部分が
声を張った新劇的よみ調子なので原作の文体のニュアンスが生かされないこと、第二に、
原文から生まれるはずの豊かなイメージを安易な芝居で殺してしまったことです。
いい例が「高野聖」での、ヒル、ヒキガエル、コウモリ、ウマなどのおもちゃ
の舞台への登場です。原文のせっかくのイメージが作り物の世界のイメージに
矮小化されてしまいました。まるで漫画による絵解きです。「高野聖」の女のイメージも、
読み手の想像力で成り立つ世界をつまらないものにしていました。だからかえって
目立たない「若き僧」の中山昇の演技が光っていました
▼「高野聖」の問題は壌晴彦(大谷美智浩とのダブルキャスト)の語りです。最後まで一本調子で、
講談風でありながら的確なメリハリのつかないよみでした。内容がイメージとして浮かんで
こない新劇調のセリフ回しの延長です。語りというよりも、アナウンスに近い感じで、
ただ声の響きが聞こえてくるものです。「夜行巡査」の若手の女性三人の語りも「高野聖」
の語りに準じた表現でした。「夜行巡査」では、とくに文語体の語りと現代風のセリフとに
違和感があって最後まで作品のなかに入ることができませんでした▼コンセプト実現のためには
これまでの芝居に新劇風の原作のよみを接ぎ足すのでなく、新しいよみの考え方が必要でしょう。はじめへ
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2000年8月17日(木)午後9:00- |
NHKテレビ(東京) |
寺尾聡(ナレーション) |
「星の王子さまに会いに行く」 |
何気なくテレビをつけて見始めた。最初は「小室等かな」と 思って聞いていたが、
じつにあたたかい気持ちのよい完璧と思えるほどのナレーションである。サン=テグジュペリの
伝記を語るその声 の響きといい語り口といい、とても心地よいものだ。声の表現そ
のものに感動がある▼途中で字幕が「寺尾聡(あきら)」と出て納得した。父・宇野
重吉の血を受けたのではないか、というすばらしいものである。もしも、再放送があるなら
ビデオに収録して永久保存版としたい。
その背景には、もちろん番組そのもののすばらしさもある。作家 の思想を、的確に把握して、
それを映像とともに表現している。
池澤夏樹の書いたというナレーションの原稿もよかったのだ▼しかし、残念なのは、
作品の朗読と星の王子さまセリフなどである。せっかくのナレーションのよさをぶち壊しにしていた。
狐 のセリフはひどいし子の声の表現もよくない。あいだに
入る広瀬久美子のナレーションもよくない。すべてを寺尾聡がやればよかった。
その実力は十分にある。はじめへ |
2000年3月14日(火)15日(水)午後7:00- |
東京・ウッディーシアター中目黒 |
AAT=小高三良/寺島令子/中西文枝/平井隆博/増田ゆき/三浦七緒子/吉岡文夫/渡辺知明 |
AAT第4回公演「海のファンタジー―浦島さんとティオ」(1)太宰治『お伽草紙』「浦島さん」(2)池澤夏樹『南の島のティオ』より「絵はがき屋さん」「十字路に埋めた宝物」「帰りたくなかった二人」 |
AAT(オーディオ・アミューズメント・シアター)の結成は6年前、ひさびさの公演である。朗読でもなく、ラジオドラマでもなく、舞台で聞けるオーディオドラマを目ざすというユニークな目標の実現された公演だった▼今回の公演には「魔装機神サイバスター」の声優たちと異色の表現よみ研究家・渡辺知明が参加。二作ともテンポの速いたのしい語り口で二時間があっという間であった。「浦島さん」は、浦島(吉岡)と亀(平井)の会話のやりとりを、二人の「語り手」(渡辺/小高)の掛け合いで構成したもの。渡辺はひとりよみ風の粘る語りであり、小高はナレーション調の抑え気味の語りであったが、その組み合わせからおもしろい味わいが出ていた。「ティオ」は、ティオの会話を増田、三話それぞれの語りを三人(増田、寺島、三浦)が読み分けたが、少年ティオの心情の感じられる語り口をそれぞれの個性で表現されていた。そのほかのメンバーは会話を受け持ったが、実力のあるよみ手たちの個性が生きていた▼よみ手への視覚的な注目を避けるために黒と白でまとめた衣裳と、場面ごとに微妙に変化する照明の美しさもマッチした。また、音響効果もきめ細かいもので、ジャズを基調にした「浦島さん」、「ティオ」のオリジナルテーマが印象に残る。声のドラマを初めて聞いたという若者たちのアンケートでは「声からイメージがわくのにおどろいた」「日本語の美しさを知った」という感想が目立った。はじめへ |
1999年12月5日(日)午後1:30- |
東京・ウッディーシアター中目黒 |
あるていすと&スコーピオン公演 |
「妖しの夕べ」Bプログラム。演出・平井隆博。(1)江戸川乱歩「押し絵と旅する男」、(2)乃南アサ「団欒」、(3)乃南アサ「出前家族」 |
一口に言って、朗読劇というものの可能性に確信の持てた公演でした。定員150名くらいの会場は肉声の朗読に適していました。読み手に照明を当てて、客席を暗くしての演劇風の演出で、全員がテキストを手にしてのよみです。ナレーションは肉声、セリフの多くはスピーカーを通した声でした。それぞれの作品をナレーションとセリフに分けて、4人から10人で分担しました▼よかったのは(3)です。物語の内容がよく伝わりました。とくに一人で安定したナレーションを担当した小高三良と老人役の森一海のやりとりがみごとです。人物のセリフも人間の存在の感じられるものでした。声優系のメンバーの会なので、アニメ風・吹き替え風のセリフを予想しましたがわざとらしさのない自然なものでした▼問題は(1)(2)のナレーションのよみです。どの人たちも棒よみに近い早口のよみで、発音の不正確さ、沈みがちの表現から基本的な力の不足が感じられます。とくに、人物の長いひとり語りになると、心情が表現できていません。ところが、セリフなら生き生き表現できるのは、訓練の力点がもっぱらセリフにあるせいでしょう▼わたしの期待する朗読劇とは、文学作品の「地の文」を台本のようによんでナレーションにしてしまうのではなく、語りの文体としてよみに表現したものです。そのようなよみは、みごとなナレーションをした(3)にも注文したいことです。そのためには、作品の文体を生かすことのできる原作を選ぶ必要もあるでしょう。はじめへ |
1999年11月13日(土)午後7:00- |
東京・紀尾井町小ホール |
幸田弘子 |
樋口一葉「わかれ道」(20分)、泉鏡花「化鳥(けちょう)」(60分) |
以前からテープで聞いて、わたしなりの意見をもっていましたが、肉声による朗読を聞いて、あらためて考えることがありました。会場は
200人くらいのホールでした▼まず初めに、幸田さんの声がずいぶん衰えたと感じました。せっかくの一葉の作品が、以前よりも艶のないものでした。また、ナマの声で張る発声ですから、地の文の講談調のメリハリはいいとしても、セリフが舞台調になって表現の荒っぽさが出ます。広沢虎造がマイクを使うことで繊細な表現を実現したという浪曲の歴史を連想しました。ナマで声を張ることによって失われる表現が確かにあります▼幸田さんの朗読にはアクの強さがあるのですが、それがナマの声で聞くとよけい感じられました。しかも、200人の会場なのに、声の衰えを意識してか、ずいぶん張りますから、ビンビンとうるさいくらいでした。それでいて、メリハリのつけ方が機械的なので心地よいリズムになって、わたしも「化鳥」の後半では、ついに居眠りが出てしまいました▼幸田さんの本領はやはり一葉作品の語りです。「化鳥」では、語り手が安定していないのが気になりました。基本の語り手が把握されていないようで、部分ごとに女の語り、男の語り、子どもの語りと、ばらばらで統一性に欠けていました。とくに子どもの声はいかにもという作り声で、新派の舞台のように不自然な感じがでした。わたしはやはり文学作品には、戯曲の舞台化のような朗読とはちがった表現がほしいと思います。次の批評へ はじめへ |
1999年10月30日(土)午後2:30- |
TOKYO FMホール(地下鉄半蔵門) |
浅田次郎 |
『天切り松闇がたり』朗読会 |
作家の自作朗読については、よみのうまさへの期待はありませんでした。しかし、今回は自作朗読から発見するものがありました。浅田次郎が『天切り松闇がたり』の第三巻にあたる「初湯千両」を約70分よみました。ヤクザが刑務所の入浴時間に語るという話でした。ヤクザものの漫画のような通俗的な作品です。
50代くらいの女性が多かったのですが、あんな話をおもしろがるのか疑問でした。文章そのものに語り口の味わいがないので、たとえうまいよみ手でもよむのに苦労するでしょう▼舞台の中央には、スタンドを置いた机、その脇に長火鉢、上手には古びた茶だんす、下手には、やはり古い本棚があります。作務衣姿の浅田次郎は下手から登場すると、まず本棚から一冊の単行本を引き抜いて机につきます。そして、スタンドの灯りをつけると、そこには閉じられた大判の原稿が置かれています。ときどき、水差しから水を飲みながらの朗読でした▼浅田次郎のよみはすらすらと軽いものです。マイクの音が大きく響きすぎるので、マイクの前でささやくような発声でした。よみにメリハリがないので眠りをさそうのか、わたしの周辺には、途中で寝ているひとが数人いました。しかし、「天切り松」という男の語る話の中の主人公「とらや」のセリフには、作者の思いがかなり込められていました。そのセリフの調子こそ、この作家の思想なのでしょう。「とらや」は虚無的な人間です。シベリア出兵の最中の陸軍大将(?)の家に押し入って千円の金を取ってきます。その斜に構えた態度と、権力に対決しながらも、すねているような人物の声が、この作家の地声のように感じられました。はじめへ |
1999年8月17日(火)PM2:00 |
東京都中野区野方WIZ |
集団「ひびき」 |
太宰治の世界―ひとり語りを中心に―構成・演出=坂井清成 (さかい・きよしげ) |
「女生徒」「斜陽」「雪の夜の話」「千代女」「きりぎりす」「桜桃」、構成読み「走れメロス」。一人ひとりのよみは約
15分、構成読みの「走れメロス」は40分くらい。暗唱による「語り」は「女生徒」「雪の夜の話」「きりぎりす」、ほかはテキストを見ていました。基本的な発声や発音、アクセントについては、さすが教育がゆきとどいています。照明も地味に押さえて、ひとりずつ固定されていました。よみ手の出入りに使う音楽は残念ながら安っぽい感じで、「走れメロス」の場面転換のところでは、読みとの関係なのか、とくにチャチな感じでした。音楽はむずかしい。よみ手の服装は、まったく普段着の坂井さん以外は、「女生徒」のセーラー服、「雪の夜……」のモンペ、「千代女」の黄色い振袖(?)などですが、年のいった人のセーラー服や振袖姿はそれだけで気持よくないものでした▼「女生徒」と「雪の夜……」の二人は、ひとり芝居の舞台での演技でした。「女生徒」は声優風のつくり声で、聞いてて恥ずかしくなるようなよみです。「斜陽」「千代女」はいかにもよんでいる調子、しかも「斜陽」は文の意味の区切りがわるくて、声のソフトさに内容を流してしまいます。「雪の夜……」は、わたしが二番目にいいと思ったよみで、内容を聞かせる力がありましたが、フレーズごとの出が高すぎる一本調子でした。これは表現しようという意図がテキストの表現を越えて飛び出してしまうからでしょう。坂井清成さんの「桜桃」は、細かいところまで神経の行き届いたよみですが、残念なことに歯がない発音が老齢を感じさせてしまいます。若い妻の会話が老婆のようなのがとくに気になりました▼わたしが感心したのは「きりぎりす」の松川真澄さんでした。すばらしい表現力をもつ人です。低めに抑えたよみの部分はみごとな語りです。しかし、内言までを舞台せりふのように調子をあげるので、せっかく築き上げた「語り」の世界が一転して「舞台」になってしまいます。「語り」というテキストの基本的な性格が理解されていないのだと思います。このテキストは、別れの手紙として語られるものですから、もっとおさえた語りになるべきでしょう。しかし、この人の表現には感心しました。今後のよみもぜひ聞きたいと思います▼そして、「走れメロス」ですが、これは地の文を一文くらいの単位で7人のコロスで細かくよみ分けて、ところどころ大状況などを群読するものです。しかし、メロス役のよみ手が、一貫して単調な舞台セリフだったので、内面表現に乏しく、ドラマとしての魅力がまったくないものでした。コロスのよみに語りの統一がないのも気になりました。はじめへ |
1999年6月7日AM00:00 |
NHK教育テレビ(東京) |
平野啓子 |
平野啓子語りの世界/「ちっちゃなかみさん」平岩弓枝作 |
瀬戸内晴美「しだれ桜」、連城三紀彦「落葉樹」につづく「語り」です。前回「落葉樹」の力みの目立つ講談調のよみよりも自然になりました。第一の収穫は会話の表現にやわらかさが出てきたことです。よみの基本はラジオドラマ風ですが落語のような軽さもあります。しかし、地の文のナレーションのような固さ・冷たさや顔の向きの不自然なつけ方は遠慮がちな落語のようです。ムダな地の文があるのも気になりました。会話に感情を入れて読んだあとで「と○○は悲しんだ」というようなことば不要です。わたしが根本的に疑問をもったのは原作の文体の問題です。「語り」の文体で書かれてないものは「語り」の表現を拒否する力を持っています。あとの対談で紹介されたアンデルセン「絵のない絵本」の「語り」にはハッとさせられる魅力がありました。それは文体が「語り」の表現を引きだす効果だと思います。それに対して、よくなかったのは瀬戸内寂聴訳「源氏物語」のいかにも現代風なよみでした。今後の課題は、第一に「語り」に適した文体の作品を選ぶことでしょう。第二に、テキストを記憶することが「語り」の表現を高めるかどうかの検討です。対談では、テキストを記憶することで「朗読」の「よみ」の表現から脱せられると発言していました。あえて「語り」と称するのもそのためでしょう。しかし、いつも次のことばを思い出そうとするような不安定さが感じられます。暗記がそのまま「語り」の表現力を高めるわけではなく、書かれたコトバを音声の表現に転化させるという根本的な力量の養成にあるのだと思います。それは「朗読」「語り」「読み聞かせ」に共通する表現力だと思います。前回の批評へ はじめへ |
1998年12月7日AM0:48 |
NHK教育テレビ(東京) |
古屋和子/番幡初美(ギター) |
芸術劇場・古屋和子語りの世界/安房直子「鳥」 |
近ごろ「語り」という言い方が流行っているが、その本質は何だろうか。読みでもなく、ナレーションでもない、演技でもない独自の性質があるだろう。それを、わたしは「自分ひとりに向かって語られている」という聞き手の実感にあると思う。不特定の聞き手に向かう典型的なものはナレーションである。「読み」では聞かせることより自分の理解が軸になる。演技において重点は世界をそこに示すものだろう。古屋和子の「語り」は「語り」というよりも演技であった。「語る」人物を演技者として演じていた。聞き手に世界を語り伝えるのではなく、「鳥」の世界を演じて示していた。だから、語り手の思いは聞き手に迫ってこない。演技としての気どりが目立ち、世界を示す冷たさがある。語り手と聞き手との間に、最後まで一枚のヴェールが介在していたのである。示される人物の会話は、新劇か宝塚歌劇のような舞台セリフであるから、「語り」の親しさが感じられない。作品がメルヘン風のものであるから、まだ救われているが、いわゆる「地の文」にあたる部分の冷たさと舞台風のセリフの組み合わせが、作品の「語り」としてのまとまりをくずしていた。ギター伴奏の素人っぽい曲もよくないし、伴奏者とのやりとりなども、中途半端な舞台劇を見ているようであった。次の批評へ 古屋和子のページへ/はじめへ |
1998年12月5日PM1:00 |
獨協大学(埼玉県草加市) |
17名の出演者たち |
第5回表現よみコンテスト |
今年の表現よみコンテストは17名が出演した。入賞5名は、奥村淳子/寺山修司「かくれんぼの塔」、佐藤昇/中島敦「山月記」、小脇貞子/太宰治「燈籠」、神門彰子/谷崎潤一郎「猫と正造と二人の女」、久保道雄/藤沢周平「一茶」である。奥村は、ミステリアスな子どもの世界をリアルな世界に表現した。佐藤は、地の文に含まれた作者の視点の転換を立体的によんだ。小脇は、24歳の娘の語り文体を「語り」として表現した。神門は、谷崎の文体の豊かさを感情ゆたかなセリフで表現した。久保はたんたんとした地味なよみであるが作品世界を浮かび上がらせる独特の力があった。今回、プロのアナウンサーが数名出演したが賞はなかった。アナウンサーたちの発声・発音は美しくみごとであったが、作品の内容が声によって表現されてはいなかった。残念ながら、わたしたちが聞かされるのは、アナウンサー個人の声であり、音声に変換された文字づらであった。表現よみでは、読み手が消えて、作品の世界が浮かび上がるのが理想である。その意味では、入賞者のよみは一定の水準であったが、さらに聞きあきないよみを目ざすためには、発声の力強さ、発音の正確さ、そして、作品の内容理解をより積極的に表現する能力が求められるだろう。はじめへ |
1998年9月23日PM2:00 |
シアターモリエール(東京・新宿) |
伊藤惣一 |
物言う/昔語り・黄金花咲く・山月記(中島敦)・ういらう売りせりふ・詩集「深呼吸の必要」長田弘 |
伊藤惣一のナレーションはTBSドキュメントでよく耳にしている。クセのない自然な声で耳ざわりのよいものである。その人が中島敦「山月記」を読むというので出かけたが、いちばん感動したのは「ういらう売りせりふ」であった。たいてい物理的な発音練習の素材にされているセリフを、人物になりきってその心理を表現しながら品のいい語りにしていた。「山月記」は薩摩琵琶を伴奏に、作品の文章をたんたんと暗唱するものであった。文字づらで見ると難解な文章が人間の語る意味あることばとして伝わってきた。しかし、その声の調子と語られる内容とのあいだに一貫して距離があるのがもの足りなかった。聞き手が作品の世界に入り込めないのである。それは身についたナレーションの技法からくるものであろう。語られる世界と表現する声との間に感じられる一皮のへだたりがもどかしい。その点は、最後の長田弘の詩の朗読でも同じであった。あと一歩のところで、読み手の心にも作品の思いにも近づけないのだ。「山月記」でとくに残念なのは作品の文体が感じられなかったことである。作品が文体によって自立しないので、ついつい語られる世界に対応する画像をイメージしがちになる。伊藤氏自身もその点を承知しているのか、会話になると新劇風のセリフと演技を付けるのだが、それまでの語りとは調和しない表現であった。伊藤氏の朗読は、聞き手を疲れさせない自然な響きで作品の文章を客観的に伝えるものである。はじめへ |
1998年8月22日PM1:00 |
津田ホール(東京・千駄ヶ谷) |
第17回ゲーテの詩・朗読コンテスト |
30名の出演者たち |
洋菓子のユーハイム主催のこのコンテストは日本では貴重な朗読のコンテストである。毎年、全国から300本以上の応募テープが集まり、そこから30名が公開審査の舞台で読む。今年のゲスト審査員は平野啓子さんだった。最優秀賞は、朗読というよりもアマチュアらしいたんたんとした読みで「シュタイン夫人に」という書簡文を読んだ伊藤良康さんであった。わたしには意外であったが、この会の趣旨からいうと当然の受賞かもしれない。今までもそういう傾向であった。しかし、今年の審査員長の宮下啓三氏(慶應大学教授)は講評で、今年の傾向としてアマチュアよりも朗読の訓練を積んだ人たちが勢力を増してきたと前おきして、「月に寄す」を見事に読んだ小脇貞子さんの読みをたたえて、審査の基準が変われば入賞していたと述べた。朗読の技術の向上をとるか、アマチュアの応募者を増やすか、そのあたりにジレンマがあるようだが、結局、コンテストの目標は、催しを通じて会社のイメージを広げることにあるだろう。わたしはこのコンテストが今後もつづくことを祈るとともに、プロ・アマを問わずに朗読の技術を評価する「表現よみコンテスト」こそ、日本の朗読の水準をあげるものであると思った(ちなみに筆者・渡辺知明は第12回の出演者)はじめへ |
1998年8月8日AM1:00 |
NHKテレビ |
吉永小百合 |
大平数子「慟哭」 |
吉永小百合は息づかいが苦しそうな独特のセリフ回しをする。そこに微妙な哀しみと詠嘆の情緒がこもっているのだが、そこが評価の別れるところである。好きな人は吉永小百合の個性として受けいれるだろうが、好きでない人にはパターン化された演技と思われるかもしれない。NHKテレビの番組「祈るように語り続けたい」は、吉永小百合がこれまで読んできたヒロシマ原爆の詩12編をはじめて広島の土地で朗読した会のようすと、詩の作者との交流を描くドキュメンタリーであった。とりあげられた多くの詩はヒロシマ原爆の記録となるものであった。「ヒロシマの空」などは吉永小百合の読み口調に合う作品であったが、別の調子で読むべきだと思われる作品がいくつもあった。しかし、朗読会の最後で読まれた「慟哭」は、作品自体の芸術性と、吉永小百合の個性がぴったり合った文句なしにすばらしいものだった。この一作だけでも、吉永小百合の朗読は芸術として歴史に残るものである。はじめへ |
1998年5月18日PM8:00 |
放送表現教育センター(東京) |
山内雅人 |
夏目漱石「坊ちゃん」その7 |
「坊ちゃん」の最終回。これまで各回40分ほど読んできたそうだ。はじめに作品の展開と、声で聞いてわかりにくい語句についてコメントがあった。それにまず感心した。よみそのものは、「ドラマティック・リーディング」を主張する氏ならではのよみである。作品の分析と表現の基礎はラジオドラマであろう。ナレーションのワクに、演技に近い会話のよみをあてはめる。はじめのうちは、ナレーション調のよみに語り手である「坊ちゃん」の表現が感じられないのが気になったが、いつか磨きあげられたよみに引きこまれた。ごく軽い発声のよみは従来の「朗読」の観念とはちがうものだ。とくにセリフの表現は見事である。ただし、ドスの利いた声から二十代の「坊ちゃん」を感じるには無理があった。また、地の文のテンポが速すぎたのも、おそらく地の文をナレーションと考える立場から来ているのだろう。とにかく、一家を代表するすぐれたよみとして一度は聞くべき価値あるよみである。ひとつ、会話のまったくない文学作品をどうよむのか聞いてみたい。はじめへ |
1998年3月9日AM0:00 |
NHK教育テレビ |
平野啓子 |
連城三紀彦「落葉樹」 |
前回放送の瀬戸内晴美「しだれ桜」ではメリハリのない沈んだ調子でした。今度はメリハリをつけようとして力みの目立つよみで、講談のような調子がついていました。通俗小説の文体は軽いもので全体が説明的なものです。それで表現しようとするときには、どこかムリな強調が必要になります。それが正直に出ていました。また、語り手の文脈で書かれたところまで登場する女の情緒に引きずられて読んでいるので、全体が平たんな感じでした。女性二人の会話にも、気どりや感情過多の調子が目立ちました。なによりも問題なのは、作品の文章だと思います。地味な表現であっても、作品の文章がすぐれているなら、自然によみ手を的確な音声表現に誘う力があります。作品の内容と音声表現とは助け合うものです。今後、どんな作品を選んでよむのかに注目したいと思います。次の批評へ はじめへ |