コトバ表現研究所
はなしがい96号
1994.7.1 

 今号でちょうど八年がすぎました。じつは、ありがたいことに、この通信が本となって出版されることになりました。

 タイトルは『放し飼いの子育て――やる気と自立の教育論』(一光社・一五四五円)です。通信を章ごとにまとめて、各章の間に「教育についての自分史」という短いエッセイをはさみました。ぜひ、今から書店にご注文ください。

●「放し飼い」と管理の教育

 「放し飼い」とは落語家の柳家小三治さんがラジオの番組で語ったことばです。アナウンサーから「おたくの教育はどんな考えですか」と問われたとき、小三治さんはひとこと「放し飼いです」と答えました。なにも説明はありませんが、わたしはいいことばだと思いました。

 教育というと、放任かスパルタかなどと両極端になりますが、わたしはどちらにも賛成できません。しかし、「放し飼い」は気に入りました。なかなか味のあることばです。

 まず思い浮かぶのはニワトリの放し飼いです。子どものころ農家の庭を群れをなして歩き回るニワトリをよく見ました。クックッと鳴きながら、あちこちの草や小石などをついばんで歩き回ります。ときにネコの襲撃をうけたりすると、けたたましい鳴き声とはばたきの音をたてて近くの木の枝に飛び上がって危険をのがれます。

 しかし、このニワトリもまったく自由なわけではなく、周囲にめぐらされた囲いの範囲ですごしています。でも、農家の人たちはおのおの仕事がありますから、しじゅうニワトリにかまっているわけではありません。とくに事情がない限りは、仕事の合間にニワトリの世話をするくらいです。

 それでも、狭く区切られたゲージに閉じ込められて卵を生まされるニワトリをくらべれば、いかにのびのびしているかわかります。そして、放し飼いのニワトリの卵は、温めればヒナのかえる有精卵です。硬いカラを割ると、黄身も黄色もあざやかで、箸でつまみ上げられるほどしっかりしています。

 わたしの勤める専門学校では、中学の教員を経験した女性が、今年から中学卒業生クラスの担任になりました。国語と計算を担当していますが、もっぱら関心は「生徒指導」にあるようです。「指導」とは、先生独特の用語で「命令」に近い意味をもっています。校則や基本的な生活習慣を守らない生徒に対して、口うるさいほど注意しています。

 わたしが気になるのは、まるで小学生を相手にしているような口のききかたです。元気いっぱいのいかにも先生といった口調なのです。

「○○くん、○○は……しようね。いい! わかったね!」

 そばで聞いているわたしですら、元気が出るどころか、命令されているような圧迫を感じてしまいます。ふしぎなのは、言われる生徒たちが多少は不満気な表情をするものの、抵抗なく受け入れていることです。わたしは、そんな態度よりも、「何でそんなことをやらせるのか!」と不満を言ってくれる方が、対話のきっかけとなるのでありがたいのです。

 ですから、生徒たちは当然のように、担任からの「指導」を守りません。先日も、四人の生徒が校長室に呼び出されて、「君たちは、それでも人間なのか!」などと大上段に説教をされていました。しかし、そんなことばは生徒たちにとどかないし、「校長」の権威も感じないでしょう。

 かつて、この中卒クラスの教育テーマは、学力が低くてやる気をなくした生徒をどのように生き生きさせるか、その再教育はできるかというものでした。それなのに、今年の担任は管理の教育を持ちこもうとしているようです。

●評価の無視と能力向上の喜び

 ある日、授業が終わると、四人の男女が一枚ずつ表を持ってきて「先生、印しをつけてください」といいます。担任が時間割を一覧表にしたもので、時間ごとのマス目に○・△・×などの印しが書きこまれています。用紙の下には、担当講師が評価するための基準が、○=よくできた、△=ふつう、×=だめだったなどとあります。

 その日、二人の女子は日ごろに似合わずよく発言し、ノートもしっかりとっていたので、わたしは女子二人には○をつけて、ノートもとらずにおしゃべりして落ちつかなかった男子二人には、抗議されるかなと思いながら△をつけました。ところが、女子は喜びもしないし、男子も落胆したようすがありません。○、△、×という評価も単なる事務的な手つづきとしか感じないようです。

 この生徒たちは中学校の五段階評価では、つねに1と2をもらいつづけてきました。そこから二つの態度が生まれます。一つは、成績にうちひしがれて暗くなる場合、もう一つは、成績など関係ないものと無視してしまう場合です。成績がわるいからといって勉強しようとは思いません。どちらにしても生徒たちにはつらいことです。

 しかし、この生徒たちが心からの笑顔を見せることもあります。それは自分の力で、自分の能力を向上させたことが自覚できるときです。

 わたしは計算練習の授業で単純なトレーニングをさせています。タテとヨコ一〇マスずつの表に0から9までの数字を入れて、ぶつかった数で+、−、×、÷の計算をします。この生徒たちは一ケタの数どうしの計算能力すら欠けていますから、かんたんな計算をするのも、めんどうくさがるのです。

 この練習のミソは、生徒自身に計算の「記録表」をつけさせることです。計算の能力向上はほかの者との競争ではなく、自分の記録との競争になります。わたしはストップウオッチを押して、できた者が手をあげると五秒おきにタイムを知らせます。

 はじめは計算をばかにしていた生徒も二度三度やるとゲームをするように真剣になってきます。そして、記録を更新するたびに明るい笑顔も見せるようになります。はじめは一〇分かかってひき算の終わらなかった生徒も、時間内に仕上げると誇らしげな喜びに満ちた表情になります。

 できないことを「なぜできないのだ」と責めて、ああしろ、こうしろと迫るよりも、できることをひとつひとつやり遂げる喜びを味あわせることこそほんとうの教育だと思います。


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