コトバ表現研究所
はなしがい95号
1994.6.1 
 みなさんは山田洋次監督の映画『学校』をご覧になりましたか。最近わたしの家の近くのレンタルビデオ屋さんにも二本ならんでいました。劇場で見逃した方はぜひビデオでご覧ください。西田敏行の扮する夜間中学の先生・クロちゃんのモデルは、荒川九中にいた三人の先生だそうです。先日わたしはその一人・見城慶和さんの講演を聞きました。

見城さんと映画『学校』

 わたしは以前から見城さんとは知り合いで、夜間中学の話も聞いていました。映画『学校』ができてから、夜間中学の入学希望者もふえたそうです。

 見城さんは、やさしさにあふれたおだやかな態度で、ひと言ひと言しっかり話してくれました。はじめに、映画のチラシの次のことばを紹介しました。

〈教えることも学ぶことも共に大きな喜びであるはずだ。「学校」が、教師にとっても生徒にとっても、楽しいところであって何故いけないのだろう〉

 見城さんは昭和三六年(一九六一)二月、学芸大学を卒業するころ、塚原雄太さんの本で夜間中学の存在を知りました。わざわざ電話をして訪ねて行き、「自分も夜間中学に入学するつもりで入れてもらおう」という気持ちで専任教員になりました。

 山田洋次監督が、原案シナリオを書いた廣澤栄さんに連れられて荒川九中を訪ねたのは、昭和五六年(一九七六)二月のことでした。そのときから企画がはじまって、完成したのは昨年のことです。

 撮影現場のウラ話もいろいろありました。真の演技をめざして体験入学した中国人俳優の話、先生役の竹下景子さんが国語の授業をした話、西田敏行さんが食堂で食事をしながら生徒たちと話したことなど、どれもおもしろいものでした。

 しかし、わたしが何よりも感動したのは、夜間中学の生徒たちが書いた文章や卒業後の手紙でした。それを見城さんが音読すると、単なる棒読みではなくて、生徒の感情が生き生きと伝わってきました。

 それらの文章に共通するのは、何のために学問をするのかということが、しっかりとらえられている点でした。ひと言でいうなら、人間として自信と誇りをもって生きられるための勉強なのです。登校拒否で中学をやめてから、夜間中学に入学したある女生徒は、卒業後の手紙では勇気をもって生きて行けるようになったと宣言していました。

 しかも、どの生徒の文章も質の高いものでした。見城さんは「わたしたちの教育は今の社会の受験体制の中においてみれば、とりたてて水準の高いことをやっているのではありません」という意味のことをいいました。

 たしかに、夜間中学の教育は、かけ算の九九や文字や文章を書くことなど、いわば読み・書き・そろばんという基本的な学習です。しかし、本来の勉強とは、生きることから遊離した高度な知識や、受験や資格のためのものではなく、人間が勇気と自信をもって生きられる能力をつけるためのものではないでしょうか。

生きるための文章教育

 そんな生徒たちがどのようにして育ったのか。それは見城さんの文章指導の話から想像できました。はじめ見城さんは、生徒たちがどうして夜間中学にいるのか知りたいと思って、「生活ノート」を持たせて書くことをすすめます。しかし、生徒たちはなかなか文章が書けません。

 見城さんは言語教育の研究会で文章について学びます。文章には芸術性を求めるのではなく、はじめは画家のデッサンのような文章の要素となる練習が必要ではないかと考えます。そこで基礎的なことから文章の指導をはじめました。生徒たちに教室の窓の前に立たせて、こんなことを問いかけます。

「教室の窓からなにが見える?」
「エントツが見えるよ」
「よし、じゃあ、それを書こう。『教室の窓からエントツが見える』 エントツはどんなようすだろうか?」
「エントツからは煙が出ている」
「煙はどんなふうに見える?」
「いろんな形に見える。先生に見えたり、タコに見えたりする」

 いま目の前で授業をしているような見城さんの話しぶりから、わたしはソクラテスの対話を聞いているような気がしました。映画『学校』での「幸福」についての授業も思いだしました。

 また、ことばの使い方とものの考え方の関係について、こんな話もしました。
 考えをコトバにするとき、大風呂敷のコトバを使うのはいけない。「仕事はつらい」というのではなくて、「朝何時に仕事場へ行って」「何時から終わりまでどういう生活をしているのか」、できるだけ多くのことを「何をどうする」とコトバ化してみる。すると、どこの部分が問題なのか、仕事のさまざまな面が見えてくる。

 「つらい」「すばらしい」「くやしい」など感情を評価する形容詞を使うときも、「はたしてそうかな」と吟味すべきだ。「セン公はきらいだ」「学校はおもしろくない」といっているうちはそのものと発展的な関係は結べない。友だちについて「明るい」と判断するのと「うるさい」と判断するのでは、まったく人間関係がちがってくる。また、「トイレがよごれている」「机が乱れている」という表現ではなく、「便所を汚す」「机を乱す」ととらえると、自分がどうすべきかという可能性も見えるのだ。

 このようなコトバと生徒の生き方とを結びつける考えを背景として対話が行われるのです。

 最後に見城さんは「でも、なかなかうまくいかないんですよ」と明るい声で笑いました。七年前に、二十七年間勤めた荒川九中からとうとう異動させられて、今は小松川二中で教えているそうです。

 今、日本全国に夜間中学は三十五校あります。見城さんはもっと必要だといいます。日本の義務教育の終業率は九九・九%といわれますが、全国の中学校には七万人をこえる登校拒否の生徒がいます(平成四年の文部省調査)。その生徒たちには形式的に卒業証書が与えられているそうです。そのために困るのは、夜間中学に入りなおそうとしても許可されないことだそうです。義務教育とは、形ばかりの学歴をあたえればすむものではありません。生きる力となる学力が身につくかどうか、それは生徒にとって大切な問題なのです。


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