コトバ表現研究所
はなしがい 209号
2003.12.1 
 イラクへの自衛隊派遣が問題になっています。いろいろな議論がありますが、納得できる理由はなかなか聞けません。数年前、国語科の教育にディベート(模擬討論)が取り入れられました。今はあまり話題になりませんが、論理的に考えて議論する力をつけるのにいい方法です。今回のような日本の運命を左右する問題を考えるときこそ、論理的に考えて判断する能力がますます求められます。

●自衛隊と日米安保条約

 わたしが注目する政治学者ダグラス・ラミスの近著『なぜアメリカはこんなに戦争するのか』(2003/晶文社)には根本的な議論が豊かです。昨年『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか』(平凡社)を読んで柔軟な思考に感心したので、東京新聞のコラム『大波小波』(11.19)で見てすぐ買いました。
 コラムでは若者の戦争についての考えに危惧しています。若者たちは「イラクに自衛隊を派遣しないなら、自衛隊は何のためにあるのか?」「何人か死ねば国としての役割を果たせる」と投書しています。ある自衛官はそれについて嘆いています。「安保条約の文面は国連を重視しているし、共同防衛の領域は日本の施政権下に限られる」、日本のイラク政策はとうとう「安保まで超越することになった」と。
 そして、コラムの冒頭では、ラミスの次のことばが紹介されていました。「今のアメリカは、日本政府が相手にして日米安保条約を結んだ国とは違う。」
 ラミスの本にはつづいてこう書かれています。
 「ブッシュ政権は封じ込め政策を捨てて、先制攻撃政策を選んだ。問題は、軍事条約の相手がやりかたをこんなに変えた場合、その条約の意味はどう変わるのだ、ということだ。」
 あらためてイラク戦争について考えるには基本的な単語の意味から考えなおしてみる必要があります。

●「戦争」と「犯罪」のちがい

 ラミスの本の魅力は、現実の問題について根本的な問いかけがあることです。戦争とは何か、テロとは何か、戦争とテロとはどうちがうのか。自衛とはなにか、自衛と戦争とはどこがちがうのか。
 巻頭の論文「中立領域」から、ラミスの柔軟な考えかたが見られます。この一篇を読んだだけで、わたしはこの本のトリコになりました。まず、二〇〇一年九月十一日のテロ事件を取り上げて、ブッシュ大統領がこれを「戦争行為」と呼んだことが第一の過ちだったと言います。「テロに、本来値しないような威厳を与えること」になったからです。
 「戦争」とは、戦争法という国際法にもとづく行為です。条件によっては戦争をすることを許す場合もあります。それに対して、戦争法に従わない行為は単なる「犯罪」です。9・11事件は「犯罪」と呼ぶべきでした。しかし、そう言ったならブッシュ大統領は戦争へ突き進むことはできなかったでしょう。アメリカ国民を動かすためには「戦争」という大義名分が必要だったのです。
 そして、アメリカの踏みこんだ「戦争」は勝利の見通しのない迷い道でした。本来の戦争ならば、相手国民のやる気をなくさせたり、領土を占領したり、政府を降伏させれば勝利です。ところが、ブッシュの戦争の「敵」には、国民も領土も政府もないのですから、いつまでもどこまでも見えない「敵」に向かって攻撃し続けることになるわけです。

●反対意見の論理を探る

 ラミスは同志たちの政治的発言についても慎重に検討しています。「9・11事件」について、ブッシュ大統領の政策に反対する人たちの発言は、うっかりすると上すべりした批判になりがちです。たとえば、次のような発言です。(以下丸数字はわたしの追加)
 「ショック、怒り、悲しみにあふれている。しかし、@なぜ人々が自分の命を犠牲にしながらもあんな残虐行為をするまで追い込まれたのか、またAなぜアラブやイスラムの国々だけではなく、発展途上国の世界で一般にアメリカがあんなに痛烈に憎まれているかについて、彼らはほとんど一片の理解もないようだ。」
 ラミスは、この発言には同感できるし、書き手の怒りもわかるが、印象としては「ザマーミロ!」と叫んでいると見ます。とくにAで、アメリカへの憎しみを、アラブやイスラムばかりでなく「発展途上国」にまで広げてしまうのはかなりの「でしゃばり」だと言います。そして、多くの人たちの「正義に基づいた怒りとあの極悪非道のテロ事件を同一視すること」への危険も指摘しています。
 また、「テロ」に関してアメリカ政府の責任を論ずる部分にも批評的なコメントを加えています。
 「(1)アメリカ政府の外交政策によってテロ行為が生まれるような世界構造ができたのだ。(2)その政治、経済、軍事構造を変えない限り、テロが続くのは誰でも予測できる。(3)したがって、九月十一日の犠牲者は、アメリカ政府の外交政策の犠牲者だと見なすべきだ。」
 ラミスは、ここに二つの論を見ています。一つは、世界に不正がある限り、正義のために戦う人は必ずいるという考え、もう一つは、アメリカ政府の外交政策が今のようなものなら、テロを起こすような人物が必ず現われるという考えです。
 わたしが見ても、九月十一日の犠牲者がアメリカ政府の外交政策の犠牲者だと言うのは短絡的な議論だと思います。うっかりすると、進歩的だと言われる人たちは、このようなものの言い方をしがちです。「正義のために戦う」ことと「テロを起こす」こととは次元がちがいます。「戦う」ことが必ずしも「テロ」になるわけではありません。ほかにもいろいろな行動の方法があるのです。
 アメリカの行なう戦争について、ラミスの結論ははっきりしています。
 「ブッシュが想像している『テロに対する戦争』は『テロに対する国家テロ』だ。/覚えておこう。一般市民を攻撃したり、空襲したりすることは犯罪、つまり殺人罪、である。今までもそうだったが、今もそうだし、これからもそうだ。」
 かつて、ギリシャ時代の哲学者プラトンはイデアの世界というものを考えました。私たちの使う一つ一つのことばには、その理念ともいうべき意味があるというのです。現実とコトバを照らし合わせると、わたしたちが目ざすべき理想の方向が見えるのです。
 現実とコトバとの食いちがいが目立つ今日、私たちが明確なコトバで現実をとらえて、明確な議論をすることがますます必要になっています。

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