コトバ表現研究所
はなしがい 208号
2003.11.1 
 二〇六号で取りあげた「心のノート」の現物をある方からいただきました。実物を見るとさすがに迫力を感じます。これで子どもたちはどんな教育をされるのでしょうか。「心のノート」とは、昨年から全国の小中学校に「補助教材」として文部科学省から配布されたもので「道徳教育」のテキストです。

●道徳の教育のむずかしさ

 わたしは学校での「道徳教育」には反対ですが、道徳の教育がなくていいとは思いません。ただし、道徳には他の分野の教育とは違った教育の仕方があるはずです。道徳教育の一つに「徳目主義」があります。忠・孝・仁・義などの「徳」を分類して、「親に孝行せよ」「目上の人を敬え」「国を愛せよ」などと詰め込むものです。「心のノート」にも徳目主義が感じられます。そんな教育でも歓迎する教師や父母はいるでしょう。というのも、今の社会には道徳的なきまりを求めたくなる状況があるからです。
 道徳のスローガンを持ち出して子どもたちを従わせても問題は解決しません。道徳の教育はそう単純ではありません。他人からの命令や指示で行動することは、道徳的なこととは言えないからです。当人の自主的な意志が必要です。だからといって現状を放っておくわけにはいきません。どのようにしたら道徳を生み出せるか。ここにむずかしさがあります。
そのカギになるのは「考える力」です。
 十一月一日の夜、NHKテレビで教育の特集番組がありました。「学力ナンバーワンに学べ―考える力世界一・フィンランドの秘策」という題でした。しかし、「学力」や「考える力」はまるで問われないまま、校長にどんな権限を持たせるか、到達目標をどう作るかなどが話し合われるだけでした。
 人間はコトバを使って考えます。「話し・聞き、読み・書き」のうちで、考えるためには書くことが最適の方法です。落ちついてじっくりと考えを運ぶことができるので、考えを生み出したり、まとめたりしやすいのです。あらゆる学習と教育において、書くこと、書いて考えることが必要です。わたしは「書いて考える力」の教育こそ道徳の教育につながるものだと思っています。

●「学力」としての考える力

 最近、読んだ鶴見俊輔『限界芸術論』(1999ちくま文庫)の「らくがきと綴り方」には本来の道徳教育についての重要な指摘があります。まず、鶴見氏は「のろいの言葉」を手がかりにして、日本人の天皇制への信頼度を論じています。
 「日本語の中に、天皇・祖先神・神道などについてののろいの言葉がないことは、注目すべきことだ。これは、民衆の思想表白の手段における一つの空席であって、日本思想の性格への手がかりとなる。」
 ここ数十年、日本のマスコミでは、いわゆる「差別用語」を隔離する政策をとっています。テレビでは「ただ今、不適当な言葉が使われました」といって、お詫びをすることがありますが、それがどんな言葉だったのか分からないまま闇に葬られています。それも「のろいの言葉」を発する機会を失わせる一例でしょう。
 「天皇制に向かって怒りが向くように、民衆の思想表白の言語が、成長していないということ、それが、この場合に問題となる」

●「綴り方」と「混沌状態」

 鶴見氏の思想の根底には、戦争遂行の支えとなった天皇制へのうらみがあります。今の日本では天皇制の力はさほど強くないと思いがちですが、古い社会の体質は変わっていません。体制派の政治家の口からは何かの拍子に天皇の名が飛びだします。古い道徳と天皇制の思想は一体となって、日本社会に今も残る封建的な制度を支えているのです。
 「天皇制は、法律・政治の面でのことがらとして、狭くとらえることでは、氷山の一角をとらえることにしか至らず、効果的にこれに立ち向かうことが、できない。我われの人間関係、生活形態、思想にかかわる習慣のタバとして理解することが必要だ。と思う。」
 日本の生活習慣の例として、鶴見氏が取り上げる例は、わたし自身を反省させるものです。
 「はっきりと自分で考え、承諾するという手続きを経ずに、重大問題についての決定を受けてしまう習慣。社会にもたらす効果によらず、身分によって扱いを変える習慣。こういう習慣が、どんなふうに、ぼくたちの日常の行動に実現されるかに対して、見張りをすることが、ぼくたちの天皇制に対する反抗の一部分となるべきだ。天皇制に対する反抗は、それ自身が天皇制的であってはならない。」
 わたしは道徳とは、日常生活において自分自身の行動の意義や価値を意識的に振り返ることだと思います。そこから日本の道徳の基礎が見えそうです。
 それでは、どのようにしたら、私たちは自分の日常を振り返ることができるのか、そこで登場するのが「綴り方」です。これは戦時中に、抵抗運動として行われた国語教育の歴史的な名称として知られています。この方法は子どもばかりでなく、おとなにとっても意義のあるものです。
 「綴り方を書くということは、この目的のために、役に立つことだと思う。これは、綴り方を書くことなしに見ることのできなかった多くのことを、綴り方を書くひとりひとりが新しく見ることができるようにする。」
 鶴見氏の考えは京都の小学生が天皇について書いた作文集を読んだのがきっかけでした。子どもたちの使うコトバは戦前の教科書や教育勅語、軍人勅語などの天皇制のキマリ文句の体系とはちがっていました。そこに、「混沌としたもの」を見ています。天皇についてさまざまな立場があり、それぞれの理由のつけ方もすじ道もちがっています。それが「混沌状態」です。
 「天皇制に対して、長続きする反抗が芽ばえてくるとすれば、それは、こういう混沌を通ってからのことだ。それは、民衆のひとりひとりが自発的に考えたもの、あっちに向かって思想をのばし、こっちに向かって思想をのばしした上で、考えあぐねて到達したものとして、成立する。そうでなくて、ある特定の指導者群(大学出の知識人と称するもの)から配給されたキマリ文句にたよって、反抗に立つとすれば、その反抗は自発性を欠くゆえに、一時的な強さしか持たないであろう。」
 書くこと、書いて考えることから、明日の行動につながる思想が生まれるのです。道徳とは、人が日々どのように行動して生きるか、その指針を提供するものなのです。

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