コトバ表現研究所
はなしがい 205号
2003.8.1 
 わたしは今、九月六日(土)の公演「表現よみ/ブレヒト『暦物語』の世界」の準備に追われています。ブレヒトはドイツの偉大な劇作家です。叙事詩的演劇という名で、人間の問題を叙情的にではなく、歴史との関わりで表現することを提唱しました。わたしが舞台でよむ詩や短編はどれも歴史につながる作品です。
 そんなわけで、わたしは最近の日本の歴史についても考えています。まず、若い人たちに元気がないのが気になります。しかし、考えてみれば、若い人たちばかりでなく、社会全体に元気がないのです。経済にしろ、政治にしろ、文化にしろ、どの分野もパッとしません。そうなると、何か即効力のある方法はないかとつい思いがちです。しかし、そんなものはないでしょうし、効きすぎる薬には副作用の危険があります。

●憲法と民主主義の原理

 数年前から、日本の経済はこのまま行ったら経済破綻が起こるか、戦争になって景気が回復するかどちらかだと言われていました。たしかに、先日のイラクへの自衛隊派遣法の成立のように、戦争を予想させる動きも進んでいます。また、「憲法改正」の問題も日程にのぼりつつあります。わたしも、国の行方を政治家たちばかりには任せてはおけないという気持ちになります。
 わたしの注目する批評家・大塚英志が『少女たちの「かわいい」天皇』(2003.6.25角川文庫)という新しい本を出しました。その最後に、最近の大塚英志の民主主義と憲法についての考えがまとめられた論文があります。わずか十六ページの短いものですが感激しました。わたしは天下国家を論ずるのは好きでもないし苦手でした。しかし、今あらためて憲法と民主主義について考える必要があると思いました。
 大塚は以前から日本国憲法を支持しています。憲法の役割として二つの面を取りあげています。
 第一は、権力が国民から暴走するのを制限する役割です。「憲法とは国民ではなく国家を制限する法律」という考えです。憲法一〇三条のうち三十一条があてられた「基本的人権の尊重」はその代表です。それらの条項があるからこそ、いつでも国家は国家は国民の意見を気にせざるを得ないのです。
 第二に、占領軍が日本の国家を連合国への脅威とさせないための役割です。憲法第九条は、武装解除の面と軍事力行使の制限の面と二つがあります。それで日本は、良くも悪くもアメリカの軍事力に支えられてここまで来たわけです。

●「象徴」としての天皇

 大塚は個々人の主体的な関わりが民主主義の前提であると考えています。大学生のとき、ある学生が「天皇の戦争責任についてどう思うか」と質問するのを聞いて「私たち個々が歴史的な主体であることを自分たちが回避してしまう」危険を感じたそうです。国民主権とはどういう意味か、大塚は憲法第一条を正確に読みなおすことによって説明します。
 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 この条文の意義は「国民主権」を「可視化」するところにあります。つまり、「天皇」は権力そのものではなく、権力者に委託された権力の根拠が「国民」にあることを示しています。だから、天皇はいちいち国の儀式に立ち会うのです。
 わたしは大塚より前の世代なので、天皇というと戦前の絶対的な権力を連想して、天皇の政治的利用や復活を考えがちです。しかし、大塚はここ三十年ほどの時代の変化をよくとらえています。この本の題名も、昭和天皇の死の直後、皇居に集まった少女たちの「天皇ってかわいいね」という発言から取られています。天皇はかつてのような権力ではないという考えから、大塚は日本国憲法における天皇を支持する立場をとってきました。
 しかし、大塚の考え方は少し変わりました。それは短い論文のタイトル「疎外された「天皇」を断念するために」にも表れています。国の「象徴」となった天皇であっても、もう頼るべきではないという意味でしょう。「象徴天皇制に変わる権力抑止の憲法のあり方を模索すべきだ」と大塚は言います。
 その理由は二つあります。一つは、「憲法改正」が政治日程化しつつあることです。わたしはハッとさせられました。たしかに最近の国会審議を見れば、「憲法改正」も通りそうなようすです。もう一つは、国民がいまだ超越的な権威として「天皇」を求め続けていることです。大塚も以前のようには、楽観的に象徴天皇制を考えることができなくなっています。

●歴史への判断力

 大塚は民主主義の原理を次のように確認します。「民主主義とは個々人が「国」という任意の枠組みに責任を持つというシステムです。それを他人に委託するからこそ、委託した責任を私たちは負います。一つには権力を委託するに値する人間を選択し、同時にその人物の行動をチェックし続けることです。」だから、「自身の権力の委託先を選択することは、当然、彼らが何をしたかということに対しての責任をも負います。」となります。
 そうして、大塚は若い人たちに向けて民主主義のもとで生きる者が実行すべきことを述べます。
 「責任を全うするために私たちは歴史を最低限学び、同時に「歴史」とは常に時々の為政者によって作られてきたことをも学び、歴史に対して主体的な判断力を養う必要があります。」
 大塚は為政者の「歴史」とわたしたちの歴史とを区別しています。そして、わたしたち自身が「歴史への判断力」を持つことに期待します。それは「目の前の事象を歴史の過程として判断し、自身の中に歴史を構築していく」ことなのです。
 それはむずかしいことだと思われそうですが、それほどたいへんではありません。「最低限」の歴史の知識を身につけることで可能です。「書物は本屋や図書館に行けば山程あって、そこで学べることで最低限、何とかなるのですから。」
 若い人たちが歴史を「最低限」学ぶことによって、歴史についての社会の常識は変わります。なぜなら、今後の社会もまた若い人たちの考えによって変わって行くにちがいないからです。大塚はいわゆるサブカルチャーの常識が、社会全体の文化水準を引き上げることに期待しているのです。

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