コトバ表現研究所
はなしがい 204号
2003.7.1 
 五月末に、フジテレビの「GOーガイ」という番組のディレクターから電話がありました。現代人の表現力が衰えていることを街頭インタビューで証明したいので質問をつくってほしいというのです。おもしろい企画なので引き受けました。

 翌日、喫茶店で二時間ほど話して番組の意図などを聞きました。ディレクターは、Tシャツにジーパンというラフな服装の三十代半ばの男性でしたが、なかなか知識のある人でした。昨年、文部科学省が小学五年生から中学三年生を対象に行った全国学力調査の結果で「表現力」や「思考力」の低いことが分かりました。それで、子どもたちだけでなく一般のおとなも表現力や思考力に欠けているのではないかと考えたそうです。

 企画のきっかけは、同じフジテレビの「EZ! TV」だったそうです。映画館から出てきた若者たちに街頭インタビューで「どんな話でしたか」と尋ねても、だれもがみな話せませんでした。それを見て、もっとくわしく一般の人たちの表現力の程度を調べたいと考えました。それで、街頭インタビューについて、いくつかのアイデアを検討したのですが、なかなかうまく行かないというのです。

●表現力とは何か

 わたしはディレクターと話しながら、そもそも表現力とは何かと考えました。映画について話せなかったことには、いろいろな問題が含まれています。
 第一に、質問のしかたが問題です。ただ、「どうでしたか?」とか、「どんな話でしたか?」と問われたとしたら、わたしだって困ります。第二に、話すべきことはあったのに、いきなりインタビューされたので戸惑うこともあります。第三に、そもそも映画をどう見たのかという問題があります。映画の見方と話しかたとは別のことです。

 こう考えてみると、映画について話すためには総合的な能力が必要です。映画を見るときにはさまざまな能力がはたらきます。画面の理解力、場面と場面とを区切る分析力、場面と場面をつなげる構成力、できごとの原因と結果を結びつける論理力などです。

 ディレクターも話しをするうちに、問題の複雑さに気づいたようでした。「パネルを見せて語句の穴埋めでもさせれば二、三分でできると思ったのですが、それではムリですね」と言いました。

 わたし自身も課題のむずかしさを感じましたが、いったん引き受けた以上、質問を作らねばなりませんでした。いくつかの質問をどうにか作って、翌日ファックスで送りました。折り返しの電話で「むずかしいかも知れないが試してみます」と返事がありました。その後、連絡がありません。うまく行ったら、わたしにもテレビ出演の可能性があったので、いささか残念な気もします。

 ちなみに、わたしの作成した質問のうち、いくつかを紹介します。(問題の詳細は省略します)
 Q「消しゴムについて、それがそれであるために必要な条件を三つあげてください。」
 Q「次の新聞記事の内容を5W1Hの要点をとらえて、だれかに知らせるつもりで、できるだけ簡潔に話してください。」
 Q「次の短い文から三つを取りだして、適当な接続語でつないで意味のある文章にしてください。」
 Q「いま見た映画のエピソードについて、次の三つの文のかたちで話してください。@はじめは、○○が……した。Aそれで、○○が……した。B最後に、○○が……なった。」
 Q「最近、本から学んだことや知ったことを「私は〈○○が……だ〉と知った/とわかった。」という文のかたちで話してください。」

●声のコトバ・文字のコトバ

 ところで、そもそも表現とは何でしょうか。表現とは、文字どおり「表(オモテ)に現(アラワ)す」ことです。そのとき問題になるのは、「何を」と「何のために」の二つです。

 「表現」というと、まず思い浮かぶのは、絵を描いたり、踊ったりすることでしょう。「自由に表現してみよう」などという言いかたをしますが、なぜかデタラメに絵を描こうとしたり、叫び声をあげて走り回るようなイメージがあります。

 しかし、表現とは、そんな自分勝手で一方的なものではありません。ひとつのコミュニケーションです。人間ひとりだけでは表現は成り立ちません。自分ひとりだけで歌ったり踊ったりしても表現とはいえません。ひとりで練習をする場合でも、必ず人に聞かれることや見られることを想定しています。つまり、ほかのコミニュケーションと同じく、表現にも発する人と受ける人とが必要なのです。

 また、発するべき内容も自然に湧き出るわけではありません。日ごろから表現するべき内容は心の中で準備されています。しかし、それが実際に表現されるのは受ける人と向き合ったときです。表現をする人は自分勝手に行動するのではなく、受け手に何らかの影響を与えようとします。その効果には知的なものや感情的なものなどいろいろあります。受け手の楽しみや喜びを生んだり、時には批判や刺激になることもあります。また、表現行為は受ける人ばかりでなく、発する人にとっても喜びや楽しみになります。

 表現が人間のコミュニケーションの一つであるのですが、たいていの表現行為はそれを意識せずに行われています。人間にとって特にすぐれたコミュニケーションの手段がコトバです。しかも、それは自己表現の手段にもなります。コトバの能力は、ほとんど表現力と同じ意味です。

 わたしは近ごろ声のコトバによる表現を重視しています。現代のコトバの多くは文字に記録されて保存されているので、コトバというと文字だと思われがちです。しかし、もともとコトバは声でした。今でも、文章を読んだり書いたりするとき、わたしたちの意識のなかでは必ず声のコトバがはたらいています。文字に書かれたコトバを声に出してよむことでさえ、それぞれの人の表現になるのです。

 わたしたちはだれもが使う共通の文字のコトバで自分の考えや思いを表現することができます。さらに、声のコトバを使えば、もっと微妙な表現ができます。声のコトバは、文字のコトバの表現を越えて、個々人の個性を表現します。今は個性が失われつつある時代だといわれます。だからこそ、あらためて声のコトバで文字のコトバを補強する必要があるのです。個々人の表現力を回復するカギは声のコトバにあるのです。

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