コトバ表現研究所
はなしがい 203号
2003.6.1 
 この通信では、読んでいる途中の本を紹介するのはめずらしいことではありません。すばらしい本はすぐに知らせたくなります。今回の本は、暉峻淑子著『豊かさの条件』(2003岩波新書)です。著者は以前にベストセラー『豊かさとは何か』(1989岩波新書)を書いています。バブル景気最中の日本を西ドイツと比較して「豊か」でない現状を示しました。単に経済的な事情を書いたのではなく、生活の豊かさを問題にした本です。著者が何気なく比較する西ドイツの「豊かさ」を知ると、日本の「貧しさ」がしみじみ思われました。
 それから十五年近くたった今回の本では、著者のモチーフが明確になりました。タイトルの「豊かさ」ということばは経済問題をイメージさせますが、「人はどのように生きるべきか」というテーマです。それが最新の統計資料を基礎にした日本の現状に即して語られているのです。各章のタイトルと構成を見ると著者の思いが感じられます。
「第一章 切り裂かれる労働と生活の世界」「第二章 不安な社会に生きる子ども達」「第三章 なぜ助け合うのか」「第四章 NGOの活動と若者達」「第五章 支え合う人間の歴史と理論」「希望を拓く――終章にかえて」
 さて、この中で子どもと教育に関わるのは二章と三章です。最初の章では、現代の労働者の状況がのべられます。失業者、フリーター、労働者の賃金の現状が資料で明らかになります。そして、第二章では、そのような労働者の現状と学校での子どもたちの状況が同じような不安の中におかれていることが示されます。不登校の問題は、今の子どもたちの状況を象徴するものです。不登校の子どもを持って、商社に勤める父親のこんなことばがあります。
「現在の学校を知るにつけ、会社と非常に体質が似ていると思った。会社では、会社の方針に忠実で、上司の言うことをよく聞き、売り上げ額や利益額が多い社員がよい社員であり、会社の方針や上司に批判的だったり、売り上げ額や利益額の少ない社員は良い社員ではない。この場合、会社の方針の中身や上司の人間性などは一切問題とされないのである。」
 ここから学校のようすも想像できるでしょう。

●ドイツの学校と教育

 著者が紹介するドイツの学校のようすでおもしろかったのは、小学校の入学初期の教育の進め方です。入学して一カ月ほどは友だちと遊ぶだけで、歌をうたったり、絵をかくことはあっても、教科書的な勉強はありません。しばらくたってから、「勉強に入るチャンスを見極めたかのように」算数の勉強にはいるのです。ところが何と、1という数字について学ぶのに「1がどこにあるのか」という問いかけに始まって、何日も何日も「1」探しがつづくのです。授業形態は生徒の答えや意見を引き出す「対話」です。ここでも著者の思いは日本の教育に戻ります。
「もともと話すことと聞くこととは表裏の切り離せない関係にある。日常の会話をするとき、相手の表情や態度を無視して、ただ一方的に話す人がいるだろうか。話すことと聞くこととは相互に影響し合う関係にある。なぜ教室では一方的な伝達と教え込みが許されるのか。聞く気持ちができていないのに、子ども本位でなく指導要領本位、教科書本位で授業をするところにもともとの無理があるのではないだろうか。」
 ドイツの教育と日本の教育の根本的なちがいはどこにあるのでしょうか。著者はドイツの学校の先生に「いい学校、とは、どんな学校をいうのでしょうか?」と尋ねました。すると、当たり前のように「規則のない学校でしょう」と答えたそうです。その意味は次のようなことです。
「規則がなくても、子どもたちが自分で納得して、自発的にゆるやかな秩序をつくり出し、学校生活が支障なく行われているのが一番いいとは思いませんか。いろいろな規則がはじめからあると、考えない子どもができてしまうでしょう。こういう場合には静かに人の話を聞こう。こういう場合には時間を守ろう。(中略)人びとといっしょに生活するときに、どのようにしたら、みなが最善の状態で、それぞれの要求を満たしていけるか。何を共通に守ればいいか。そういうことを学習し納得していくのが教育の場ですよね。はじめから規則で管理され、罰則で従わされるのでは、自主的な判断は育たないし、罰のないところへ行けば思慮のない行動を無自覚に取るのではありませんか」

●子どもたちのコトバ能力

 OECDが二〇〇〇年に行った国際学力テストの結果も分析されています。「学習到達度調査」は三二カ国の十五歳の子どもたち約二六万人の、読解力、数学的リテラシー.科学的リテラシーの三部門にわたるものです。日本の子どもがもっとも苦手なのは読解力でした。わたしは日本コトバのスローガン「コトバは一生かかって磨くもの」を思い出します。
「なかでも読解力は、それ自体がカリキュラムを超えた技能であり、とくに中等教育段階においてその能力が要求される」「いまや読解のリテラシーとは、単に子どもが低学年の時に習得する能力ではなく、個人がさまざまな状況のなかで、また周囲の人たちとの相互作用のなかで、知識と技能と方策とを組み合わせて進歩していく能力であって、生涯を通じて形成し続けるものであると考えられている。」
 著者は、「失われた子供時代」ということばで日本の教育問題をとらえます。日本の子どもたちを取り巻くさまざまな問題がありますが、それを打破する力はその中にいる子どもたち自身が生み出すほかはありません。ところが皮肉なことに、その能力こそ今の日本の子どもたちには欠けているのです。
「日本の子どもは、決まった手順で答えを出す問題には強いが、複数の考え方があるなかから自分の結論を出していく問題や、論理の入り組んだ問題の解釈には弱い。機械的な問題処理能力にはすぐれているが、問題が何を問うているかを見きわめ、自分の回答を出すことには劣っている。」
 わたしはあらためて、日本コトバの会の大久保忠利が一九六二年に定式化した「国語科教育の基本提案」を思い出します。
「日本の子どもたちにとって、日本語の知識と能力こそ、その全面発達をささえうながす基本的な要素をなすものである。国語科は、その知識・能力の高めに責任を負うべき教科である。」
 そして今「読み・書き、話し・聞き」のコトバ能力で、とくに「文章を声に表現して読む力」と「文章で考えて考えを書く力」が重要だと考えています。

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