コトバ表現研究所
はなしがい 200号
2003.3.1 

 この通信もとうとう二〇〇号となりました。刊行以来、十六年半ということになります。祝うべき号なのですが、今、世界はたいへんなことになっています。この一カ月ほど、アメリカがイラクに戦争を仕かけるかどうかという問題で世界は揺れています。さまざまな事情はありますが、いざ戦争となれば、多くの人々が殺されることはまちがいありません。世界各地で戦争反対の声をあげる人々の思いは、この一点にかかっています。

 米原万里「読書日記」(東京新聞2003.3.9)によると、一九九〇年の湾岸戦争のとき、イラクでは四十二日のあいだに多国籍軍の空爆で十五万人の市民が殺されたそうです。出撃はのべ十一万回に及び、人口千六百万人のイラクに八万八千トン(広島型原爆の六倍)の爆弾が投下されました。とくに恐ろしいのは、砲弾や銃弾として使われた劣化ウラン弾でした。劣化ウランとは「核燃料や核兵器用にウランを濃縮させる過程で出る放射性廃棄物」です。それによって、イラクには広島に投下された原爆の一万四千倍から三万六千倍の放射性原子がばらまかれました。その結果、イラク各地の住民に白血病、ガンによる死亡率が急増し、奇形児誕生の確率も上昇しているそうです。

●『ゲーテとの対話』

 最近、わたしは、エッカーマン『ゲーテとの対話』(岩波文庫/初版1968)を読みました。上中下三巻、合計九百ページ以上の分厚い本です。以前に角川文庫で読んで、さまざまな分野についてのゲーテの発言のすばらしさに感動した覚えがあります。今回は、文学や演劇についての発言に期待したのですが、ゲーテの関心はじつに広いものでした。ほかに、絵画や彫刻について語られるのはもちろん、博物学や光と色の研究についても科学者と肩をならべる仕事をしています。

 今回読んで意外だったのは、ゲーテが当時の政治情勢にも強い関心を持ち、機会あるごとに話題にしていることです。当時のゲーテは、七十歳半ばを過ぎて八十歳になろうとする年齢です。それでも世界への関心を失わず、フランス革命やナポレオンの評価について繰り返し述べています。それも単なる情勢論ではなく、政治の世界に生きる人間たちの人物批評を基礎としています。政治情勢の変化とともにナポレオンの評価が変わっていくのはいかにも文学者らしい見方でした。

●子どもと環境

 じつは、わたしは文学・芸術のほかに、ゲーテの教育論があるかもしれないという期待を持っていたのですが、残念ながら見ることはありませんでした。おそらく、対話の記録者であるエッカーマンが文学者なので、もっぱら自分の関心ある文学の分野を中心に記録したためでしょう。

 それでも、下巻では教育に関する発言を見ることができました。ゲーテの書いた『若きヴェルテルの悩み』への悪評をきっかけにして、子どもと環境との関係を論じたことばです。当時、作品の主人公ヴェルテルが恋の悩みから自殺するので、その影響で自殺する若者が増えたのだという評価がありました。それを前提にして、次のような発言があります。

「一冊の本が、人生そのものよりも不道徳な影響を与えるというなら、それは都合の悪いことにちがいない。毎日、醜い場合が、おびただしくわれわれの目の前で、でなければ耳もとで展開している。子供のばあいですら、一冊の本や芝居が与える影響はそれほど心配する必要はないね。日々の生活のほうが、今も言った通り、どんな刺激的な本よりも影響が大きいよ。」

 このあと、ゲーテは家庭内での親子の対話の心がけについて語ります。子どもは親たちが聞かせたくないと思うことをよく見つけ出し、嗅ぎつけること、「子供たちはふつう嘘いつわりをしないから、わたしたちにとって優秀な晴雨計の役目をはたしてくれる。子供を見れば、その家庭でわたしたちが好意を持たれている度合いがわかる」と述べています。

●若者の自殺とゲーテの人生

 今の日本で子どもたちをとりまく状況はいったいどのようなものでしょうか。まず、長期にわたる不況と失業者の増加、中高年の自殺者は年間三万人です。年間の交通事故死者数一万人の三倍です。そこに加えて最近、若い人たちの心中自殺が二件起こりました。わたしは驚きました。かつて若い人の自殺といえば、一人でひっそりと行われるものでした。それなのに、今回の二件はお互いに助け合うような形で実行されたのです。「自殺するにも勇気がいる」ということばを聞いたことがあります。「勇気」をマイナスの行動に使うのはまちがいだと思いますが、そんな最低限の決定をすることさえ、他人に頼らなければならない若者が増えているのでしょうか。

 わたしがゲーテに関心を持ったのは、かつて『されど我らが日々』で芥川賞を受賞した柴田翔による二つのすばらしい新訳『若きヴェルテルの悩み』(2002/ちくま文庫)、『ファウスト』(2003/講談社文芸文庫)が文庫で出たからです。ヴェルテルの自殺についても読み直してみようと思っています。また、『ゲーテとの対話』には、エッカーマンが相談相手となって書かれたファウスト第二部の進行状況も語られています。いわば八十歳になるゲーテの人生論の集大成ともいえる作品です。

 最後にもうひとつ、読書について、ゲーテのことばを紹介しましょう。
「みなさんは、本の読み方を学ぶには、どんなに時間と労力がかかるかをご存知ない。わたしは、そのために八十年を費したよ。そして、まだ今でも目的に到達しているとはいえないな。」

 わたしが驚くのは、八十歳になろうとするゲーテが、本の読み方について、まだ目的に到達していないと考えることです。

 ゲーテは一七四九年に生まれ一八三二年に八十二歳で亡くなりました。その間に多くの仕事をしました。その人生に比べると、二十代で自殺した若者の命がもったいないと思います。でも、世の中は自殺する若者ばかりではありません。日本でも、アメリカのイラク攻撃に反対してデモなどの行動をする若者たちもいます。もしかして、アメリカがイラクに戦争を仕かけて、多くの子どもたちの命が失われるとしたら、いったいどうなることでしょう。それは考えることすら恐ろしいことです。わたしは戦争が起こらないことを心から願っています。

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