コトバ表現研究所
はなしがい 196号
2002.11.1 

 まずはお詫びいたします。遅れても一週間以内と考えていましたが、運わるくパソコンの故障が重なって二週間が過ぎました。申しわけありません。

 この一年ばかり、室生犀星の作品を読んでいます。犀星は詩人として有名ですが、散文にもそのセンスが生きています。日本語の響きを生かした繊細な文章の美しさにひかれます。内容がいいのはもちろんですが、わたしの黙読は音(オン)をイメージするので、ことばの美しさがとくに感じられるのです。

 今から読んでみようかという方には、『或る少女の死まで』(初版1952/61刷2001/岩波文庫)をおすすめします。自伝的三連作「幼年時代」「性に眼覚める頃」「或る少女の死まで」が収められています。作家には転機となる作品がありますが、太宰治の自伝的作品「思い出」と同じように、この三連作ものちの犀星の出発点になりました。

●六十代半ばの室生犀星

 今、私が読んでいるのは、『随筆・女ひと』(初版1958/32刷1993新潮文庫)です。六十代半ばに書かれた散文の作品集です。三連作から四十年をすぎて書かれたものですが、文章のみずみずしさに変わりはありません。わたしは始めのうち文章にひかれて読んでいましたが、あるとき、その美しさの奥にある過去への苦々しい思いに気づきました。犀星には過去に克服すべきさまざまな障害があったのです。

 まず驚いたのは「あにいもうと」という作品です。主人公の女性は、のちの作品からは想像もできないような悪口雑言を吐きます。そんな荒々しさとやさしい叙情の世界とが以前には別物のように感じられました。しかし、今では両面がまとまってこそ犀星なのだと思っています。

 犀星の苦しみのひとつは「あにいもうと」の家庭のようすから想像できます。幼いとき養子として他家へやられてずいぶん苦労しました。養母は厳しい人で犀星に辛く当たり、しばしば暴力をふるいました。頼れるのは姉だけでした。

 さらに、別の悲しみが犀星の心の底にはありました。『随筆 女ひと』には次の表現があります。
 「わたしは二三人の少女達に知己を持っていたが、どの人も私を対手にしてくれなかったのは、贈り物をしない事、私の顔というものが、ほかの男性にくらべて、ちっとも、きれいさのなかったために好かなかったのであろう」

 そのあとで自分の顔を描写して詩を書くことの希望を語ります。――「頬骨は隆(たか)く眼はチャリンコのごとく鋭く、口もとも血色もまた良くない。こんな青年に金もないし、学生というわかさの持つ身分も持っていないと来たら、誰も、女と名のつくものは寄ってもつかないものだ、私はそんな不利な条件のなかで、馬鹿のひとつ覚えのように詩を書き、詩というものは女と非常に密接な関係のあるものに心得、どんな女でも、詩をよめばみな感心してくれるものに思っていた」

 けれども、六十代半ばの犀星が語る自分の顔の話しには余裕が感じられます。作家として仕事を続けてきた自信が、女のひとから好かれない悲しみを、女のひとへの慈しみの思いに変えました。あたたかい思いが作品全体にあふれています。容貌のことなど問題にせず、自由に思いを語る犀星がいます。どのようにしてこの境地にたどりついたのでしょうか。

●アドラー心理学の「劣等感」

 今の子どもたちが自分の劣等感とどのように向かい合っているか気になります。子どもたちが昔よりもひ弱になっているとよく言われます。叱られるとひどくシュンとしてしまうとか、人が自分について批評したり指摘することを極度に恐れるそうです。

 わたしが子どものときにも弱い子どもはいました。授業中に先生に指されても、ろくに返事ができず、小声で何かつぶやいて下を向いたまま顔も上げられません。当人はそんな形で自分の弱さと向き合っていたでしょう。しかし、今の子どもたちは、自分の弱さを予感すると、おびえて逃げ出すか、サラリと交わして弱さと向き合わず成長するようです。

 では、どうしたらいいのか、わたしに名案があるわけではありません。ただ思いつくのは、A・アドラーというアメリカの心理学者の説です。「人間の劣等感が人を成長させる」という考えです。偉人たちの中にも劣等感をバネにした人がめずらしくありません。たしかに生まれつきの天才などいません。子どもにとって周囲の人たちは自分よりすぐれた人に決まっています。他人が皆すばらしく見えます。幼児が本能的におとなの真似をするのも劣等感の克服であると言えそうです。

●劣等感の克服と未来の教育

 今の教育はどんな風潮でしょうか。「子どもはほめて育てろ」「人はそれぞれちがっていていい」というスローガンが目立ちます。一般的な考えとして、まちがってはいません。しかし、このスローガンはだれのためのものでしょうか。

 まずは親のためです。子どもを信頼して、個性を認めることは親が自覚すべきことです。だれが何と言おうとも、親が自分の子どもをほめて個性を認める決意です。しかし、それは子どもに言って聞かせることでなく親が心得て実行すべきことです。

 また、それを語るとしたら、どの年代の子どもに語るべきかも問題です。わたしは思春期のころからだと思います。幼児期の子どもには、むしろ自分が劣っていること、自分の弱さを味わわせることが必要ではないかと思います。その時期の子どもは生きようとする本能的な能力をそなえているからです。

 アドラー心理学の実践の例として、子どもが親と同じことをしたがるときの対応があります。要するに、子どもの立場と親の立場はちがうのだという説得の仕方です。これは決して差別ではなく、区別です。親が多くの食物を食べて、子どもが少なく食べるのは当然です。それを説得するためには、親も子どもの将来を示して、「おまえも大きくなれば、たくさん食べられるのだよ」といいます。それは子どもに未来の成長の方向を示すことです。

 今の教育のスローガンに見られる価値の相対化が気になります。価値のちがうものは比較できませんが成長には上があります。努力の差で成長のちがいが生まれます。努力なくして成長はありませんし、成功をとげた偉人たちには、それぞれの努力があります。犀星はおどろくほど多作です。その生涯と作品は「人間の劣等感が人間の成長のバネになる」というアドラー心理学のひとつの証明だといえます。

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