コトバ表現研究所
はなしがい 195号
2002.10.1 

 近ごろ、学校の先生がたが研修のために一般の企業に出かけて行って仕事をするという話を聞きます。なるほど学校の先生は一般社会と接触がないから、そんな経験も必要なのかと思う反面、どこか変だなとも思います。どんな研修をするにせよ、教育が何を目的として、どのような人間をつくるのかという基本的な考えがほしいと思います。
 学生たちは常に「何のために勉強をするのか」という疑問を持っています。教える側も、勉強の目的が定まらないことには、何を教えたらいいのか困ります。勉強の成果というと「進歩」「成長」「発展」などのコトバで表現しますが、どれも経済的な政策を連想させます。もしかしたら、教育も経済と同じ評価で行われているのではないでしょうか。

●どこまでも経済は「発展」するのか?

 つい最近、社会の根本を考えさせられる本を読みました。ダグラス・ラミス著『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか』(2000.9.25平凡社)です。タイトルは経済学の本みたいですが、現代社会の問題を総合的に説きあかすものです。テーマは次のように示されていますが、わたしはこの本から人間教育の指針を読みとることができました。
 「この本は、経済発展だけではなく、戦争と平和、安全保障、日本国憲法、環境危機、民主主義など、さまざまなテーマを取りあげている。」
 著者は、一九三六年、アメリカはサンフランシスコの生まれ、一九六〇年に海兵隊員としてオキナワに駐留して、翌年の除隊とともに日本に住み着いてしまいました。津田塾大学の教授もしましたが、今ではオキナワに住んで、執筆や講演の活動をしています。日本が好きになってしまったアメリカ人という印象です。
 著者はこの本を現代における『コモンセンス』にしたいといいます。それは一七七五年に、アメリカのトマス・ペインが書いた本の名です。日本では「常識」と訳されますが、「普通の感じ方」「共通の感じ方」という意味です。『コモンセンス』の主張した国王制の否定やアメリカの独立は、当時の常識」とはずいぶんちがうものでしたが、のちにアメリカ独立革命の思想宣言のようになりました。
 著者は「この本は新しい情報を読者に伝えるためのものではない」と繰り返し述べていますが、たしかに本当の「常識」は手持ちの知識からでも十分にわかることです。わたしには、まさに目からうろこが落ちるという比喩がぴったりの経験でした。よほどアタマの固い人でない限り、たしかにこの本の指摘が今の日本にとって、いや世界全体にとって「常識」となるべきだと納得が行くはずです。
 各章の内容もおもしろいものです。「第一章 タイタニック現実主義」では、もう三十年も前から、このまま経済成長をすすめていけば地球が危ないという警告を知りつつ進んでいく世界経済を、巨大氷山に向かって推進するタイタニック号にたとえています。「第二章「非常識」な憲法?」では、「非常識」だと非難される日本国憲法こそ未来を先どりした「常識」なのだと説かれます。「第三章 自然が残っていれば、まだ発展できる?」では、「発展」というコトバがいつ生まれ、どのようにして世界経済を指揮するイデオロギーとなったか述べています。
 「第四章 ゼロ成長を歓迎する」では、自動車の経済効率の悪さと比較して自転車のすばらしさが語られます。そして、「第五章 無力感を感じるなら民主主義ではない」では、民主主義といえば、代議制民主主義だと思われているが、じつはそうではないことや、古代ギリシャの選挙がなんとクジびきであったことの意義も述べられています。

●人間の能力を育てる「対抗発展」

 この調子でいくとすべての内容を紹介したくなりそうです。教育にかかわる問題にしぼります。教育の目標は何にあるのか、どのような人間を育てればいいのか、という問題です。著者は経済発展のイデオロギーによる二つの人間の見方を批判しています。一つは「人材」という「生産手段」とする考え、もう一つは「消費者」という「消費手段」とする考えです。そもそも経済発展の目的とは何かといえば、人間がより豊かな楽しい生活をするためのものでした。ところが、そうなってはいません。人びとは「仕事中毒」や「消費中毒」になっています。
 かつて労働運動では労働時間を減らすことが最重要課題でしたが、さほど減っていません。一日八時間以上働く生活です。現代の高度な生産技術を生かせばもっと少なくていいはずです。また、せっかくの余暇時間も消費システムに取り込まれているのですが、それとはちがった楽しみ方があるはずです。
 「店へ行ってCDを買うよりも、自分で歌ったほうが楽しい。人が踊っているのを見るよりも自分で踊ったほうが楽しい。あるいはテレビタレントの物語を代理体験で楽しむのではなく、自分の物語を展開していったほうが楽しい。」
 今、教育の世界では、表現することの重要性が声高く唱えられていますが、現実にはもう表現を楽しむ人たちは生まれているようです。若者たちが街角に立って自分の歌を歌ったり、グループで踊ったりしています。中高年の人たちに広がっている朗読ブームもその一例でしょう。教育政策の方が現実の後追いとなってウロウロしているのではないでしょうか。
 さて、そこで問題は、教育においてどのような人間を育てるのかということになります。それがわかれば何を学び身につけるべきか分かります。著者は経済発展や経済成長を批判して、このまま世界中が先進国と同じような経済「発展」をしたら地球がダメになると繰り返しています。そして、以前とはちがう発展を「対抗発展」と名づけてこういいます。
 「物を少しずつ減らして、その代わり、物がなくても平気な人間になる。それは人間の能力の発展ということになります。」
 その一例は、機械を減らして、道具を増やすこと、人間が文化を創る能力をもつことです。たとえば「機械から音楽を聴くのではなく、楽器を持つとか、自分で踊るとか、自分で芝居を作るとか」、「生きていることを楽しむ能力を身につける」ということです。「こうした過程を続けていけば、私たちが今では想像できないような新しい能力、新しい技術、新しい文化が生まれてくるはずです。」
 新しい文化の芽ばえはあります。必要なのは、あらゆる分野で「発展」の価値を転換させることです。新しい生活は一朝一夕に実現するものではありませんが、まずは「常識」の転換から始まるのです。

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