コトバ表現研究所
はなしがい 194号
2002.9.1 

 日本語ブームといわれるなか、『文藝春秋・特別版・美しい日本語―言葉の力を身につける』という雑誌が出ました。一一六人の文章が収められたB5判二三〇ページの大きな厚い本です。特集「私の書き方」「私の話し方」などのほか、インタビューや対談も収録されています。わたしは書店でこの本を見てすぐに買いましたが、最初から「美しい日本語」というタイトルには違和感がありました。

 今は「日本語」とよばれていますが、かつて日本語は「国語」とよばれていました。「国語」ということばには、国家主義的な思想がまつわりついています。ところが、近ごろの日本社会は変化しました。日本で暮らす外国人の増加に代表される「国際化」によって、日本のことばは「国語」ではなく「日本語」なのだということが常識になりつつあります。

 「美しい日本語」とはどういう意味でしょうか。文部省の学習指導要領では、日本人としての自覚や愛国心の教育をすることをうたってきました。学校でのナショナリズムの教育は、過去の戦争と結びつく危険性を考慮して回避されてきた微妙な問題です。もちろん、自分のすむ土地や人々への思いやりを育てることは必要なことですが、学校という場で忠誠や愛国心を要求することには問題があります。

●「言葉」が問題になる時代

 井上ひさしは、この本のインタビューで、「言葉、歴史、健康」の三つは「国民が閉塞状況に陥る」ときに問題にされると述べています。そして、もう十年もこれらのブームが続いているのは、やはり「みんな先行きに不安を感じている」からだといいます。しかし、考えてみれば、この三つは人が「生きる」ときの根本問題です。コトバの力は自らを含んだ人と人との関係を切り開くもの、歴史を振り返ることは今後の時代や社会を見つめること、そして、健康は人がものを考えたり行動するための前提条件です。

 この本のサブタイトル「言葉の力を身につける」ことの意味は、ただ単にコトバの知識を増やすことではないでしょう。しかし、この本の内容はまさにタイトルの「美しい日本語」に向かっています。多くの書き手は単語の「美しさ」やことばの響きの「美しさ」を探しています。日本語の生きたすがたを考えてはいません。それは、わたしの予想したとおりのことでした。しかし、ただひとり、ロシア語通訳者の米原万里が次のように述べていました。

「要するに言語の使命は、決して美しく整っていることなんかではない。世の中の森羅万象、それに複雑怪奇な人の精神を描き出し、罵り、分析し、弾劾し、解釈し、批判し、祝福し、呪うためには、美しい言葉だけではとうてい間に合わないというもの。」

●言語能力の教育

 では、さまざまな言葉を操れるような言語能力をつけるにはどうしたらいいのでしょうか。「美しい日本語」というワクから脱するためには「国語科」の教育でも基本的な言語能力の養成をするべきです。  わたしが関心を引かれたのは、作家・丸谷才一と劇作家・山崎正和による対談「日本語の未来のために」でした。わたしは二人とも保守的な考えを持つ人物であると思っていますが、日本語教育についての発言には賛成できる部分が多くありました。というのも、コトバの力を育てることこそ学力の基本だと考えているからです。山崎はこう述べています。

「私は義務教育については、かねてから、よみ、書き、そろばん、話し方、この四つだけでいいという考えかたなんです」

 ただし、わたしは言語教育を重視することには賛成ですが、次のように言われると不安もあります。

「要するに国語と算数だけ。必要最小限度にします。理科は数学の一部や国語の中に入れられるし、歴史教育なんて歴史のいい文章を読めばいいわけですから、国語の中に入ります。」

 義務教育は中学校まで含みますから、理科や歴史などの基礎的な知識の教育まで国語科に解消してしまってはいけないと思います。言語教育を重視するあまり、何もかもそこに投げ込むようでは困ります。 とくに私が感心したのは、この二人の考える「作文」の問題です。山崎が大学入試で出題した問題は次の二つです。

 「一枚の写真を印刷して、この場面を見た通りに記述せよという問題を出しました。写真は、踏み切りがあって遮断機が降りていて、中年の男が自転車の子どもと待っているというだけのものです。」
 「私の出した問題は、「にもかかわらず」とか、「恨みなしとしない」といった文章をつなぐ慣用句を五つ出しまして、これを全部使って猫の長所と短所を書け、というものなんです。」

 丸谷も次のような作文の出題を考えています。「十センチ四方の五万分の一の地図を出して、この地形を四百字で記せ。そうすると、北のほうに海があって南のほうの半分は平野でとか、きちんと書ければいいわけです。」

 山崎の言語観は次のように明確なものです。
「言語表現には二つの面があると思うんです。一つは、ある認識を他者と共有するという面。これは国民の共通語の本来的な機能ですね。もう一つは、個人が自己を言葉によって確認するということです。いま自分が何を感じているか、何を考えているかを、まず自分に対して明瞭にするために言語で表現する。」

 一般にはコトバの役割について、伝達作用のみが強調されますが、二つ目の認識作用も重要なはたらきです。この二つが相互に支えあっているのです。発信者の考えに支えられないコトバは空しいものですし、ひとりよがりで受け手に届かないコトバにも意味がありません。

 また、わたしは二人がそろってほめている本にも関心を持ちました。谷川俊太郎・大岡信編、挿絵・安野光雅『にほんご』(福音館書店)です。わたしもどこかでちらりと見かけたことがあります。丸谷はその内容について次のように述べています。

「つまり、言葉は精神の表現であり、人間がほかの獣や鳥と違うのは、言葉、そして精神を持っているからだということなんですね。言葉を使って伝達し、ものを考える。そういう言語論的主張から始まっていて、全体としても言語論なんです。」

 今の日本語ブームの本には、コトバのはたらきを身体面に解消してしまうものもあります。しかし、コトバのはたらきは身体と精神との統一されたものですし、コトバは考えを伝達するばかりでなく、考えそのものを形づくるはたらきがあるのです。だから、言語による人間形成の教育が成り立つのです。


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