コトバ表現研究所
はなしがい 193号
2002.8.1 

 「自主」「自立」というコトバは教育のキーワードです。子どもの教育の仕方について「子どもを自主的に行動させる」とか「子どもを自立させる」などと語られることがよくあります。しかし、それを実現することは口で言うほど簡単ではありません。

 実際にオトナたちを見ても、必ずしも自主的に行動し、自立しているとはかぎりません。どちらかというと、ただおとなしく「社会」にしたがっているような人たちが目立ちます。ときには活発に発言したり行動したりする人もいますが、「社会」を無視した自己中心的な行動にすぎない場合もあります。「社会」と自分との距離を考えない人だったりするのです。そんな人たちは、自主的とも、自立しているとも言えません。

 子どもは育ってオトナになるわけです。その道すじにおいて「社会」に対して、どのような関係をとるかという問題があります。人間は生きているかぎり「社会」とかかわりがあります。最初から「社会」に参入することを拒否することはできません。いったんは「社会」に参入しなければなりません。当人が「社会」の一員として受け入れられた次の段階として「自主」「自立」が問題になるわけです。「社会」に受け入れられつつ「社会」に距離を取れるような場合に、はじめて「自主」や「自立」について論じることができるのです。

 子どもがオトナになるということは、「社会」という場に受け入れられることです。そのうえで、個人が自らを主張することができるかどうか。そこに「自主」「自立」の問題があります。つまり、オトナになるためには、型から入って型を出るというような道をとる必要があるのです。

●「成熟」と「通過儀礼」

 大塚英志『人身御供論―通過儀礼としての殺人』(2002角川文庫)は、現代日本での「成熟」の問題を論じた本です。かつて日本では、ムラが「社会」の型となっていました。ムラとは、いわば人間社会の歴史全体を貫く制度です。人間たちが人類として生きのびるための共同社会の秩序のことです。考えてみれば、社会が階級的な差別のうえで成り立っている時代はわずか数千年です。それ以前に、人類が生きのびてきた歴史は何十万年にもなるのです。

 子どもたちは、ムラでの生活を通じて、日常生活でのふるまい方や、人と人とのつきあい方などを身につけました。それは近代の学校教育の制度よりも、はるかに広い分野での教育を成しとげました。そして、オトナへの「成熟」というものもムラへの参加として行われました。

 ムラが健在のころ人間はどのようにしてオトナになったのでしょうか。文化人類学や民俗学でいう「通過儀礼」という習慣があります。子どもが成長して一人前のオトナと認められるために何らかの義務的な行為を経験させられました。そして、それができればオトナになれます。ムラで育った子どもにとっては、そうむずかしいことではありませんでした。いわば日常生活で積み重ねてきた経験の仕上げなのでした。

 ムラには確かな価値観と行動の規範があります。良かれ悪しかれ、それが道徳として生きていました。その価値観を身につけて行動できることがオトナの証明でした。ところが、近代社会においては、ムラそのものが崩壊してしまいました。そして、人間が成熟するための目標も失われました。それに代わって登場したのが「国家」という「社会」でした。

 ムラが日常の生活を支えるものであったのに、「国家」は人間を政治の中にとりこむための制度です。人と人とは政治的な力によって関係づけられます。人間同士の結びつきはありませんから、支配者は人々を「国家」へと統合するための思想を事あるごとに注入します。かつてのムラでは「社会」のイメージが明瞭かつ具体的でした。しかし、近代では「社会」の具体像が曖昧なので、かつての通過儀礼も不可能になりました。

 かつてのムラとしての「社会」と今の「国家」としての「社会」には大きなちがいがあります。人間が人類として生きのびるために鍛え続けられたムラと、わずか数千年の間に私有財産を支えにした階級対立によって成立した「国家」による「社会」とでは歴史の長さがちがいます。

 大塚は、人はどのようにして成熟できるのかという問題にこだわりつづけています。ムラがなくなって人を「成熟」に導けなくなったとき、人々は「物語」に頼るのだといいます。それで、現代のサブカルチャーの代表であるマンガの「物語」から、若者たちの「成熟」のストーリーを分析しています。

 人の「成熟」には、目標となる人物像や生活態度やモラルの全体的なイメージが必要です。しばらく前には、まさに「国家」が自らの望む「社会」を目ざして教育をすすめてきたものです。しかし、今では「国家」の目ざす「社会」のイメージもさまざまな面で破綻をきたしています。

 かといって、それに代わるべき「社会」のイメージにも欠けるのが実状です。大塚は、一九七〇年代半ばから、日本の文化全体がサブカルチャーの乱立となったと考えています。どの文化も本流を成すことはなく、それぞれの人たちが、それぞれのサブカルチャーを提唱しているといえるでしょう。

●ムラの歴史から受け継ぐもの

 教育においても同じようなものです。ここ十数年の文部省の指導要領を見ても、まるで朝令暮改のような方針の転換が見られます。いつでも時代の流れに振り回されています。時代の表面的な変化に応じるために、政策は現状の後追いになっています。近代日本ではムラは崩壊してしまって、「社会」は枯れた河のようですが、河の底には地下水として流れる水脈もあるのだと思います。

 「国家」による教育政策は、今後も目先の必要によってしばしば変わるでしょう。しかし、ムラにあった教育の根本には揺るがない理念があります。それは原始共同体といわれる古い時代から受け継がれた人間が生きのびるためのエネルギーです。

 かつて、作家・住井すゑは人間にとっての絶対的な価値は「命」だといいました。共同体の価値は一人ひとりの人間を生かすことにあります。個人が「生きる力」を身につけることも、人間が生きることを保障する共同体の協力なしにはむずかしいことです。わたしはムラというものがはぐくんできた根本理念が何であったのか、今あらためて教育との関係で考えてみようと思っています。


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