コトバ表現研究所
はなしがい 191号
2002.6.1 

 わたしはこれまで三十年近く、人にものを教える仕事をしてきましたが、近ごろ、ものごとを考えるのにいちばんいい方法は書くことだとあらためて感じています。

 今、わたしは専門学校で一般教養の「社会」、考える力をつけるための「教養」を担当しています。今年の学生たちはとてもよく話を聞いてくれます。私語が気になることも少なくなりましたし、真剣な表情で耳を傾ける学生も目立ちます。

 しかし、わたしにはもの足りない思いがあります。これまでは私語をせずに話を聞いてもらうことに努力してきましたが、さらに学生たちに深くものごとを考えてもらいたいと思うようになったのです。

●知ることと考えること

 そもそも教えることと学ぶこととはどのような関係にあるのでしょうか。教えるのは教師の側、学ぶのは学生の側です。わたしが感じるもの足りなさは、学生たちが何をどのように学んでいるか見えないことです。わたしはそれを知りたいのです。それを確かめる手段は、やはり書くことです。書くことは考えること、考えることはコトバを操作することです。

 学んだことが考えになるにはいくつかの段階があります。第一は、基礎的な知識です。「空、雨、イヌ、傘、水たまり」などの単語の意味がわかって使えることです。また、見たり聞いたりしたモノ・コトも、コトバにして記憶に定着できます。第二に、単語を文の中で使うことです。「スイカ」についての知識がなければ、「ぼくはスイカを食べた」という文は書けません。「具体的」の意味を知らずに「話しが具体的になった」とは言えません。そして、第三に、文と文とを論理によってつなぐことです。

 つまり、考えは単語、文、文と文という三つの段階で組み立てられるのです。ところが、これまでの教育では、単語による知識が中心でした。まるで、クイズ番組のような学習です。「○○は何ですか」と問われて「それは○○です」と答えるようなものです。その知識を基礎として、さらに考える力を育てる必要があります。

 ことばでつかんだモノ・コトの意味を自分なりに説明する力、そのことばを使って文を作る力、さらに、文と文とを論理にしたがって組立てる力、この三つの総合が「考える」ということなのです。

●「文章の原型」とは何か

 先日、題名にひかれて外山滋比古著『日本語の論理』(初版1987中公文庫)を読みました。文章を書く力とは論理の力です。日本語研究の第一人者である著者がどのように考えているのか興味がありました。

 「文章構成の原理」の章では「文章の原型」の重要性を主張していました。それはいったい何なのか関心がわきました。

 「どうして多くの日本人、しかも相当教養のある人たちの書く文章が骨なしになってしまうのであろうか。一言でいえば文章の原型をもたずに書こうとしているからである。」

 このあとで「文章の原型」がどのように説明されるか、わたしは期待しました。ところが、どうしたらそれが身につくかという方法の話になってしまいました。どうやら「文章の原型」とは、未知数Xとして設定されているようです。次のような発言から想像するしかありません。一つ気になるのは、文章についての意識を「○○感覚」とよぶことです。これも問題を深められない一つの理由だと思います。

 「文章の基礎をかためるべき作文の教育が自由勝手なことを書かせているのも文章下手をつくる有力な原因である」「多様さが仇になって文章感覚の原型が固まらない」「基本的な日本語表現が何であるかはっきりしていない」「多くの人がこれこそ標準的であるというような文体もはっきりしていない」

 「文章の原型」を身につける訓練としてあげられたものは二つです。一つは、西欧諸国で子どものときから行われるという聖書の暗記です。もう一つは、かつて日本で行われてきた漢文の素読で、その「文章感覚」には国民的合意があったと述べています。そして、結論はこうです。

 「読書百遍、意おのずから通ず、というが、これはと思う文章をくりかえし、くりかえしよむのが文体感覚を身につけるいちばんの早道である。」

 しかも「文学的文章」ではなく、「ノン・フィクション」をすすめています。「思考の組み立て」の章では、寺田寅彦の随筆を読むことをすすめています。読むものを文学に限らないこと、寺田寅彦の文章を読むことには、わたしも賛成です。

 とくに感心したのは「思考の原型」についての説明です。わたしがこれまで研究してきた「文章展開の四種類」や「文章トレーニング」などの考えに通じるものがあったからです。「最近」とはいっても三十年近く前のことです。今はどうなのでしょうか。

 「論理を論理として教えようとすれば、それは数学や論理学になってしまう。コトバで外装を施してやらなくてはならない。それがレトリックで、それに対する関心が最近少しずつだが出てきたことは喜ぶべきである。(中略)抽象思考の原型ができたらそれにレトリックの外装をつける。それで思考活動の基本は整ったことになる。ただ、これをどういう形式にするかが問題で、それが冒頭に述べた思考のユニットに関係してくる。思考をばらばらなものにしないで、パラグラフにまとめて、それを積み重ねて次第に大きな単位のものにして行く方法を身につける。思考の建築法で、ユニットがしっかりしていさえすればいくつでも大きな構造ができる。」

●文章トレーニングの方法

 この部分は、わたしにとって大いに思考の刺激となりました。一九九三年にコトバ表現研究所を設立してから、わたしは「文章トレーニング」というものを工夫して文章指導をしてきました。ヒントは公文式のやり方でした。いくつかの細かいトレーニングを積み重ねていくことで文章全体を組み立てる論理能力をつけるのが目的です。今は専門学校の「教養」という科目で年三十時間の授業を行っています。

 「文章トレーニング」を始めたころには、論理構造の全体のイメージがつかめませんでした。しかし、十年近くあちこちの教室や学校で教えているうちにどうやら見えてきました。もしかしたら、一冊の本のかたちにまとめられるのではないかという展望も出てきました。できあがったら、一般の人から学校教育の場まで、いろいろなところで応用可能な文章能力養成の方法となるでしょう。


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