コトバ表現研究所
はなしがい 189号
2002.4.1 

 わたしは「朗読トレーニング教室」を開いています。初歩の人ばかりでなく、これまで「朗読」の勉強をしてきた人も来ています。文学作品を声に出してよむのですが、一般の「朗読」のように耳ざわりよくよむものではありません。わたしが目指しているのは声の表現力を高めることです。作品を声にすることは自己表現です。表現は常に個性的なものですから、同じ作品でもよみ手によってちがいます。まして、作品ごとの文体のちがいがありますから、作品の表現はさまざまになるのです。

 わたしがまず受講生に求めるのは、文章の内容を理解しながらよむことです。初心者が苦手とするのは、声を出すことと内容をつかむことの両立です。声を出したとたんに、文章の意味がつかめなくなってしまいます。たいてい「うまくよもう」とか、「まちがわないようによもう」という意識がはたらいています。自分自身が意味をつかむことを第一にすれば、ずいぶんよむのがらくになります。小声でブツブツとよんでもいいし、意味がつかめなくなったら休んで、考えがまとまるまで待てばいいのです。

●「遠い声」と「近い声」

 プロの級のよみ手でも苦手なことがあります。「わたし」ということばを実感を込めてよむことです。日常生活で人と面と向かい合ったときに、わたしたちは自分を「わたし」と呼ぶのに苦労はしません。ところが、文字に書かれた「わたし」がなかなかよめないのです。アナウンサーが「わたしは……」というときにも、どこか白々しさがあります。自分のことではなく、第三者のことのように聞こえます。また、アナウンサーがだれかと対話をするときでも、応答の声がよそ行きのようで冷たく感じられます。

 それでも、アナウンスやニュースの場合はいいのですが、文学作品をよむときには困ります。そもそも、文学作品は「物語」から発展したものです。かつて「物語」の作者は「語り手」でした。人々を前に自らの声で物語ったのです。それがのちに文字に記録されるようになりました。それで、口から耳に伝わっていた物語が、文字を介して目で読まれるようになったのです。とはいうものの、文字の文学も声のイメージのたすけを借りているのです。

 自分の発する「わたし」が実感を持っているかどうか確かめる方法があります。まず、指示語「あれ、それ、これ」をイメージをつかんで声に出してみます。「あれ」では、数メートル先の品物を意識して声にします。「それ」は、一メートルくらいの意識、「これ」は自分の手元です。

 ひととおり声を出してから、「あれ」と言うときの意識に乗せて「わたし」と言います。この調子がアナウンサーの「わたし」の声です。次に、「これ」と言う意識で「わたし」と言います。これが、自分を自分で呼ぶ「わたし」の声です。わたしは、「あれ」の「わたし」を「遠い声」、「これ」の「わたし」を「近い声」と呼んでいます。そこには、声の高い低い、強い弱いだけでない微妙なちがいがあります。「わたし」を「わたし」と言えたときに、よみが「朗読」ではなく「語り」になるのです。

●「わたし」のいるスピーチ

 一昨年、評論家・紀田順一郎氏がインターネット上のわたしのよみを「異質の朗読」と紹介してくれました。その紹介の動機は、外国の政治家と日本の政治家がスピーチで原稿をよむときのちがいでした。外国の政治家は、読んでいるのに話すように聞こえるが、日本の政治家はいかにも読んでいるようになるのはなぜかというものです。それで、新たな表現の可能性として「朗読」に目を向けたようです。

 わたしは、外国と日本のスピーチのちがいは、よみ手の責任のとり方にあると思います。つまり、外国の場合、責任は当人のその場のスピーチにあります。ですから、原稿は読まれるのではなく、語られねばなりません。当人の理解と表現による個人的なのです。ところが、日本の場合、スピーチの責任は当人ではなく、書かれた原稿の文面にあります。だから、原稿はただ読まれるだけです。当人のスピーチには責任がありません。

 わたしが「わたし」の声の響きにこだわったきっかけは、鈴木孝夫『ことばと文化』(1973岩波新書)でした。自分を呼ぶことばはこう説明されています。

「「私」や「僕」のように、話し手が自分を指して使うことばは、考えてみると話し手が言語という一種の座標系の内部で、自分自身の位置を明らかにする行為であると言える。つまり言語による自己規定なのだ。」

 多くの外国語では、話し手が自分のことをいうことばが「一人称代名詞」として固定的に確立しています。英語なら「I」です。いわば、話し手の言語的自己規定が相手や周囲の状況から独立しています。ところが、日本語では、常に相手との関係で自分の呼び名が決まります。たとえば、子どもがいて、話し相手がその子なら「パパ」となります。たとえ、一人称を使う場合でも、「私」「僕」「おれ」などは、相手との関係で使い分けられています。つまり、「対象依存型の言語的自己規定」なのです。

 ここから鈴木氏は、日本人の文化や心情へまで考えを発展させています。

「私たち日本人は相手の気持、他人の考えを顧慮する前に、一応自分としてはこう思うという自己の主張の原点を明らかにすることが、どうも苦手のようだ。相手の出方、他人の意見を基にして、それと自分の考えをどう調和させるかという相手待ちの方式がむしろ得意のようである。/それどころか、他人が意見なり願望なりを言語で明確に表明しないうちに、いちはやくそれらを察知して、自分の行動を合わせて行くことも少なくない。「察しが良い」「気がきく」「思いやりがある」などの表現がほめ言葉であり、またヨーロッパ語には翻訳しにくいものであることを見ても、対象への自己同化が日本人にとって美徳ですらあることが分かる。」

 そして、言語学者としての結論はこうなります。

「日本人が外国語が不得手で、国際会議でも、学会でも実力の割におくれをとるのは、語学力そのものの点よりも、むしろ問題は、自分を言葉で充分表現する意志の弱さ、それも相手の主張や気持とは一応独立して、自分は少なくともこう考えるという自己主張の弱さに原因の大半があるように思えてならない。」

 これは人ごとではありません。自らの意志と主張をこめて、「わたし」と声に表現できるのかどうか。それは、わたしたち一人ひとりに、日常的に実行が求められている課題なのだとわたしは思います。


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