コトバ表現研究所
はなしがい 188号
2002.3.1 

 前号で紹介した中島義道がおもしろくて、著書を八冊読みました。その中から『うるさい日本の私』(新潮文庫1999)を取りあげます。タイトルの意味は「うるさい日本に住む、うるさい私」でしょうか。日本中で行われているスピーカーによるアナウンスに対する著者の抗議と戦いの記録です。などというと、堅苦しく思えるかもしれませんが、じつにユーモラスに現代日本の根本問題に迫っています。

●「中島式戦闘法」

 まえがきは、こう書き出されています。

 「私は病気である。(中略)その病名は「スピーカー音恐怖症」である。現代日本では、われわれは一歩家を出るや否や、スピーカーによる挨拶、注意、提言、懇願の弾丸を浴びねばならない。「まもなく終点でございます。足もとにお気をおつけください。エスカレーターにお乗りのさいはベルトにおつかまり黄色い線の内側に……(略)」

 著者の戦いぶりはすさまじいものです。バスの車内の放送はテープにとって文章に起こします。不要な部分に傍線を引いて、責任者に詳細な理由をつけた手紙を送りつけて削除せよと迫ります。まず拒否されます。すると再び反論の手紙を書いて、事情が改善されるまでつづけます。現場でいきなり責任者に放送中止を申し入れることもあります。一回で解決することはありません。時には、何度も出かけて行って直接、会談をすることもあります。

 本人も書いているとおり、たいへん疲れることです。それでも、スピーカーによるアナウンスの停止のために、たいへんな労力を費やしています。読んでいて、わたしも、そこまでやらなくてもいいではないかと思えてくるほどです。

●スピーカー放送の問題点

 スピーカー放送にこだわる理由は次の点です。

 一、放送の内容は一般的な注意であって、そこで特別にいわなくてもいいものであること――特定の個人に向けてもいないし、ほとんどの人に不要です。

 二、放送の内容が何らかの権力を背景にしたものであること――電車内の携帯電話に人々が眉をひそめるのは、まったく個人的なことだからです。

 三、放送をする側も実行されることをほとんど期待していないし、聞いている方も、まさか自分にいわれたことだとは思いません。

 四、責任を持つべき者が責任をのがれるためにアリバイをつくっているようなもの――もし何らかの事故が起こったときには、「これこれの放送をしていた」という言いわけができるわけです。

 五、放送を聞く側から、人のことばを自らのこととして聞く態度が失われること――コトバを聞き流す習慣が、無気力・無関心を育てます。

 人間の行動の規範にはいろいろあります。大きく分けて法と道徳です。スピーカー放送の多くは道徳に関わることです。「人を殺しては行けません」という放送がおかしいのは、法を破れば刑罰を受けることがわかりきっているからです。道徳は各人の心がけです。だれかから直接に言われたら説教になりますが、公共放送では聞き流されます。もし国家権力を背景に放送するなら道徳の強制です。著者はそんな国の恐ろしさを、放送が流れつづける想像の国「キリッポン国」の姿としてみごとに描いています。

●「優しさ」と「思いやり」

 放送のきっかけの多くは一人の訴えです。「注意がなかったから転んだ」などと言われると、責任者はすぐさま「足もとにご注意ください」と放送に加えます。それが「優しさ」「思いやり」とされます。つまり、自らコトバを発して訴えることのできない人たちのために放送しているのだという論理です。それがいつか「みんな」のためとなって、異論を持つ人たちの発言をしにくくしてしまうのです。

 著者の行動はそんな日本文化の風潮との根本的な戦いです。最終章「『察する』美学から『語る』美学へ」には現代日本の構図が示されています。

 「「音漬け社会」を解体するには何が必要か? 答えは、さしあたりきわめて単純のように思われる。それは「察する」ことを縮小し、「語る」ことを拡大することである。日本人が真の意味で「語らない」こと、「対話をしない」ことが、現在の騒音地獄をかたちづくっている、と私は確信している。しかし、じつはこれは、日本文化の「根っこ」を掘り起こすほどの大改革なのだ。語らず察すること――この延長上に「思いやり」や「優しさ」が来る――これこそ、われわれ日本人の美意識、行動規範の根幹をかたちづくるものだからである。」  では、わたしたちは、何を「語る」のか。

 「私が「語る」というとき、それは言葉を発するという意味より狭い意味で使っている。西洋哲学において「対話(ディアローグ)」という言葉が指し示すものに近い。つまり、どこまでも一対一の関係であり、個人がそのつど特定の相手に「語る」というかたちを意味している。そこにいかに大勢人がいても、このかたちは基本的に維持される。」

 それは日常的なことから実行できます。電車を「降りるときには「降ります、通してください」と「言えば」いいし、扉の前に立っている人には「扉の前に立たないでください」と「言えば」いいし、ヘッドフォンのシャカシャカがうるさければ「もう少し音を小さくしてください」と「言えば」いい」。

 「語る」ことは教育の場でも圧迫を受けています。 「「遠足は高尾山に決まりました」と先生が報告し、みんなワーイとうれしがっているなかで、ひとり「ぼく、高尾山なんて行きたくないや。海がいいや」と語るS君は素晴らしい。」  これに対して教師のとるべき態度はこうです。

 「先生は生徒が「語った」ことの背後を探るのではなく、まず何より「語ったこと」そのものの中に飛び込まねばならない。」「一般的に、そしてとくに教室においては「私は〜が嫌だ」「僕は〜したくない」という個人の声を封じてはならない。すべて「言わせて」から、正面から反論するべきである。めんどうかもしれない。くたびれるかもしれない。しかし、決してこれをさけて通ってはならない。」

 著者のスピーカー放送との戦いは、まさにこの原則の実行です。一対一の〈対話〉の復活のためには、一人ひとりが「語る」必要があります。そうすることによって、わたしたちは、憲法に保障された言論の自由や思想の自由を実現することができるのです。今から、わたしたち一人ひとりが「うるさい私」にならねばなりません。


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