コトバ表現研究所
はなしがい 187号
2002.2.1 

 近ごろは単純な物言いがはやっているのでしょうか。単純で断言的な小泉首相の話しぶりはその代表です。井上ひさしは元日の朝日新聞のエッセイ「接続詞のない時代に」で接続語を言わない小泉首相を批判して論理的な考えの重要性を指摘していました。接続語の基礎には、書き手と読み手とのあいだの「対話」の関係があります。

●大塚英志の不安

 わたしの注目する批評家・大塚英志が『サブカルチャー反戦論』(角川書店2001.12.20)という本を出しました。あとがきに「これは「アジビラ」のような書物だから店頭に並んだ時点で目的のほぼ半ばは達成された」とあります。「「現在」は「戦時下」にある」と書き出して、とくに若い人たちに向けて「戦争反対」の発言の必要性を訴えたものです。

 大塚は、昨年九月十一日、ニューヨークでの同時多発テロ事件以来、日本のマスコミが変化したといいます。その例としてプロレス雑誌の訂正記事をとりあげています。事件にふれた記事を「不適切な発言」として訂正したものです。しかし、大塚の言うとおりわたしもその記事が「不適切」とは思いません。この処置について大塚は言います。――「謝罪文の中には第三者から抗議があったのか、編集部の自主規制なのかは触れられていないが、しかしここでは確実に一つの「異論」が押し潰されている。」

 何よりも「異論」が「押し潰され」たことが問題なのです。政治や社会に直接かかわるわけではないプロレスの雑誌でさえこんな状況にあります。大塚は何十年か前に日本人の体験した「戦時下」を想像します。――「「テロ」の空気を肌で感じた時、ああ、なるほどあの時も人々は自らが自らの手で「異論」を封じていったのだな、とぼくが生まれるずっと前の日々を実感できる」

●「対話」のレッスン

 「異論」の圧殺される時代に教育は何をすべきでしょうか。平田オリザ『対話のレッスン』(小学館2001.10.20)では、新しい時代の「対話」がこう考えられています。――「私たちが創り出さなければならない二一世紀の対話のかたちは、曖昧で繊細なコミュニケーションを、省略したり記号化したり、あるいは機能的にするのではなく、そのままの豊かさをかねそなえながら、しかも他者(たとえば外国人)にも判りやすく示すものでなくてはならない。」

 わたしはここから三つの問題を考えました。

 第一に、コトバのアイマイさ・繊細さの重要性です。平田は今の若者たちの「キレル」というコトバの単純さをとりあげて、エチオピアに住むゲラダヒヒの音声コミュニケーションの豊かさと比較しています。このヒヒはなわばりを持たず、上下関係もなく、闘争的でなく、平和に暮らしています。そんな生活を可能にしたのがヒヒの言語能力です。「他者を安心させる、なだめる、懇願する」という繊細なコミュニケーションもできます。――「平和的で複雑な社会がコミュニケーションの高度化を要請し、また逆にその高度化が、より一層複雑な社会の形成に寄与した」のだといいます。

 第二に、平田が問題にするのが、言語表現における省略化、記号化、機能化です。コトバの内容は豊かで繊細なものなのに、単純化されて単語でシャベり合うようになったり、情報伝達の能率化のために単純な記号にされたりします。

 わたしは論理学での記号化を連想しました。ものごとを正確に考えるための手助けとなるのが論理学です。小学生のうちから教育すべきものだと考えています。しかし、たいていの論理学では厳密さを目指してアルファベットや数式を使うので、とても小学生の教育には応用できません。一般の人たちに必要なのは、多少のアイマイさがあっても、日ごろの生活のなかで生かせる論理の力なのです。

 第三は、アイマイでありながら「判りやすい」という矛盾した課題です。わたしの所属する日本コトバの会には、「コトバの四原則」として「@正しく、A分かりやすく、B切れ味よく、C感じよく」があります。まず「正しく」と言われて堅苦しさを感じる人もいますが、コトバが豊かなものを含むとともにアイマイであるということを前提にするなら、あえて最初に「正しく」をあげることの意味がわかります。

●「対話」の原則

 平田は、中島道義『〈対話〉のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』(PHP研究所1997.11.14)という本を推薦しています。この本に書かれた十二項目の対話の原則から、平田は四つを取り出しています。わたしのコメントを加えて紹介します。

 (1)自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること――教育の場でも重要です。お互いが対等な人間だと認めるので、一方が他方に教える関係ではなくなります。お互いの話も単純ではなくなり、深まってくることでしょう。

 (2)相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること――人間を個と認めるなら、お互いちがって当然です。日本風の習慣では、他人と意見が一致しないことは悪いことのように思われがちです。それで一致したふりをしたり、沈黙してしまったりということがよくあります。

 (3)相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること――マルかバツかも二分法です。コンピュータに代表されるデジタルの原理も1か0かです。「それは些細な違いじゃないか」といわれて、まとめられた人々の行き着く先が「挙国一致」「一億一心」という「戦時下」の社会でした。

 (4)自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること――お互いが意地を張って、自分の意見や考えに固執していなくてもいいのです。多くの人たちはそれまで築き上げてきた考えや立場を変えることがなかなかできません。何が何でも自分の立場を守ろうとする人たちがいかに多いことでしょう。

 個々の人間の意見や考えは、基本的には社会的・経済的な立場で定まります。しかし決定的ではありません。立場に縛られない自由な考えと意志をもって行動できるところに人間の価値があります。社会が変わるためには、個々の人間が個別の場において変わる必要があります。だからこそ、個々の人と人とが向き合う「対話」のあり方が重要なのです。


バックナンバー(発行順) ・ 著作一覧(著者50音順)