コトバ表現研究所
はなしがい 185号
2001.12.1 

 12月5日の新聞に、OECD(経済協力国際機構)が実施した学習到達度調査の結果が載っていました。OECD加盟国二十八、非加盟国四の計三十二カ国から、約二十六万五千人の十五歳が受験したものです。「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」の三分野の国別順位が出ています。日本の生徒は、「数学的応用力」で一位、「科学的応用力」では韓国についで二位です。ところが、「読解力」では、フィンランド、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、アイルランド、韓国、イギリスに続いて八位でした。

 「読解力」とは「文章を理解、熟考する」というもので、三ページにもわたる文章を読んでさまざまの問いに答えたり、自分の意見を述べるものです。日本の生徒は、趣味として読書をしていないものが半数を超えていて、参加国の中で最低でした。一位となった「数学的応用力」でも、「考え方が試される問題では、正答率は平均的なレベルで、答えを書かない生徒の割合がかなり高い」のだそうです。

●「考える力」とは何か

 わたしはこの結果におどろきませんでした。当然だろうと思いました。今、教育についての話題や議論はいわゆる「総合的な学習」に集中しています。NHKテレビ『ようこそ先輩』に象徴される体験授業が目立ちます。その一方で「学力低下」を危ぶむ声もあがっているのに、根本的な対策については議論の声が聞こえません。来年度から、小中学校の教科内容を三割削減した新しい指導要領による教育が実施されることも不安です。

 わたしは、学力の基礎は「言語論理能力」にあると考えています。学力とはかんたんに言えば「考える力」です。今回のOECDの調査の三項目に共通するのも「考える力」です。いわば、教科全体を貫いてはたらく能力です。哲学的な能力といってもよいでしょう。人間が何をするときにも応用できる根本的な考え方です。

 たとえば、複雑なものの中からあるものを取り出すときにも、いろいろな思考操作があります。何を取り出すか決めるためには、ものごとをさまざまな要素に分析して比較します。分析や比較などは考え方の根本です。それなのに日本の学校教育にはそんな考え方の教育が欠けています。その重要性を自覚している教育理論家も教師もごく少数でしょう。

●コトバと論理の教育

 「言語論理教育」とは、コトバを使って考え方の教育をすることです。数学では、図形を使ったり、数を使ったりして考えています。また、絵を描くことは、線や面を使って考えることだともいえます。しかし、それらの作業は、その分野に限られます。それに対して、コトバは人間の活動のあらゆる分野で使える手段です。

 たとえば、数学における証明はふつうは数式を使いますが、コトバでもできます。また、実際に絵を描かなくても、コトバで表現することはできます。どんな分野の思考活動もコトバで表現できるのです。ただし、微妙な作業については、それ自体の分野での実践や経験によります。しかし、初歩からある程度の段階までは、コトバという手段でその世界の考え方に接近することができるのです。

 日本の国語教育は、情緒的な面、道徳的な面にかたよっています。論理面の教育は欠けています。教科書の内容は、文学文と説明文と区分されていますが、基本的な論理の教育にはなっていません。論理の基本は文そのものにあります。小説や詩を読むにしても、文そのもの、文章そのものを論理的に読みとることが基本です。何が文の主部で、何が述部か、文と文とがどのような論理でつながっているか、まずは、これらをつかめる能力の教育が必要です。それが身につけば、文のかたちを意識することなく、内容が直接にあたまに入ってくるようになります。

●福沢諭吉と接続語

 わたしも長い間、本を読み続けてきましたが、最近になって、やっと本が読めるようになったかなと思えるようになりました。本によってむずかしさの程度のちがいはありますが、文章のかたちがよく見えるので、内容を読みとることがずいぶん楽になりました。

 そんな力がついたのも、これまで表現よみと印つけよみを実行してきた成果だと思います。とくにこここ数年の表現よみの実践が読解力と文章力を高めたと思います。表現よみで文章を声に出してよむときには、文中のどのコトバが強く読まれるべきか意識して表現します。それによって文の意味が理解できて、自分自身に納得されます。その表現が聞き手に対しても文章の意味となって伝わるのです。

 印つけよみとは、本にしるしをつけながらよむことです。文章の構造を理解するためのしるしです。主部やテーマは丸で囲んで、述部には傍線をつけます。そのほか、論理的な展開を示す接続語は、必ず四角で囲みます。たったそれだけのことですが、本の内容の理解が格段に深まります。表現よみと結びつけると、さらに文章の味わいまで変わります。

 つい最近、福沢諭吉『学問のすゝめ』の一部を読みました。かつて日本史の資料として部分的に読んだ覚えがありますが、全部は読み通していません。今回は、第十二編「演説の法を勧むるの説」というところにひかれました。文語文は読みにくいと思っていましたが、論理が明快で読みやすいものでした。読みやすさの秘密は接続語にあります。「ゆえに」「たとえば」「あるいは」といった接続語が、どのページを見てもたくさん出てきます。かといって、声を出してよんだときにも、それがじゃまにならず、かえって文章の調子をよくしています。まるで講談でも演じているような心地よさです。

 福沢諭吉は明治の始め、西洋の近代的な思想と知識を日本人に伝えました。しかし、それにとどまらずに、人間が自立・独立していくために身につけるべき思考法についても考えていたようです。「演説」についての発言などはその一例でしょう。

 今、日本では不況からの脱出という経済問題が騒がれていますが、それは外部の変化だけではなく、人間の内部の変化を伴わなければ解決しない問題だろうと思います。明治のはじめに日本人が直面したのと同じような文化の変化が求められているのではないでしょうか。われわれ自身、ものを考えるための考え方そのものを、考えなおしてみる時期ではないかと思います。


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