コトバ表現研究所
はなしがい 184号
2001.11.1 

 めったにない機会にめぐまれて、十一月十一日(日)「チェーホフ演劇祭40日」(シアターX(カイ)主催)の企画に表現よみで参加します。半年前ほどに、企画募集を知ってオーディションを受けました。表現よみは小説をよむという地味なものですから、演劇分野の審査で認めてもらえるかどうか不安がありましたが、女性の審査員から「感心しました。こんな朗読もあるのですね」としみじみ言われたときにはホッとしました。

●チェーホフ「すぐり」の幸福論

 わたしは学生時代からチェーホフが好きで、全集を買いこんで読んでいました。この通信でもいくつかの小説を取りあげて教育の問題を書いたことがあります。チェーホフは医者でもあり、学校や図書館などを作る社会的な活動をしています。教育についても確かな見解を持っていました。今回、わたしが舞台でよむ「すぐり」という作品にも幸福の問題が教育との関わりで取りあげられています。

 この物語の中心は、ある男の語る長い話です。村へ猟に出かけた獣医のイワンと中学校教師が、雨に降られたために知人の家で雨宿りさせてもらいます。その夜、イワンが弟の夢見た暮らしの話をします。

 ニコライは県の財務局に勤めていましたが、子どものころ過ごした村の生活が忘れられずに、いつか田舎に引っこんで地主屋敷で暮らすことを考えていました。自分の家の庭にできたすぐりの実を食べてみたいというのが夢でした。それでほとんどの金を地主屋敷を買う資金としてため込みます。結婚も持参金が目当てで妻の財産はすべて預金してしまいます。切りつめた生活がもとで妻は早死にします。そうして手に入れた地主屋敷へ、兄のイワンが訪ねて行って弟の生活ぶりを見ます。弟はもうすっかり地主の旦那といった暮らしぶりでした。そして、家で初めて取れたすぐりの実を満足して食べるのです。

 しかし、イワンは弟のことを人ごととは考えません。「自分もやっぱり満ち足りた幸福な人間だった」と気づきます。そして、次のような考えにたどりつきます。――「幸福な人間が安穏に暮らせるのも、不幸な人間がかわりに黙って重荷を担ってくれているからこそで、その沈黙がなければ、幸福もなにもあったものじゃない。」

 また、イワンは「待つこと」「待たされる」ということにこだわります。自由を求める人たちに向かって世間はこう言います。「自由であることはいいことだ、空気のように自由なしにはすまされない、だが今すこし待つ必要がある」しかし、イワンは中学校教師であるブールキンに呼びかけます。――「なんのために待たねばならぬのですか、わたしはあなたにおたずねするのですよ。どういうわけなのか、って。」

 イワンの思いはさらに続きます。「わたしはもう年をとって闘争にはむかないし、憎悪すらできない。ただひそかに悲しみ、いらだち、歯ぎしりするだけで、夜ごと頭にさまざまな思いがむらがって熱くなり、おちおち眠ることができないのです……。ああ、もしもわたしが若かったら!」

 それから、田舎に住むアリョーヒンに呼びかけます。「幸福なんぞありゃしないし、あるはずもないが、もしも人生に意義や目的があるとしたら、その意義や目的はけっして幸福にあるのではなくて、なにかもっと理性的な、偉大なことにあるのですよ。どうか、いいことをなさってくださいよ!」

 しかし、チェーホフはイワンの思いを手ばなしで読者に訴えはしません。イワンの熱っぽい思いを冷ますかのように、他の人たちの反応が描かれます。プールキンもアリョーヒンもイワンの話にはほとんど関心を示しません。アリョーヒンにいたっては「たったいまイワン・イワーヌイチの言ったことが、賢いことか正しいことか、彼は考えようとはしなかった。」というのです。しかし、幸福についての問いかけは読者の心に深く印象づけられます。

●「表現よみ」のすすめ

 チェーホフのこんな世界は、表現よみすることによって深く入ることができます。作品を声に出すことによって、文章の意味がよくつかめるのです。「声に出してよむ」と「声を出してよむ」とは意味がちがいます。「声を出す」は物理的に声が出ればいい感じです。しかし、「声に出す」は「ナニを」を想像させます。「ナニを」とは何でしょうか。それは表現されるものです。

 表現には二つのものがあります。一つは、よみとった内容、もう一つは、よみ手が受けた心の揺れや思いです。この二つは切り離せないものです。内容がつかめていないと思いは浮かびませんし、内容がつかめると自然に思いは浮かんでくるものです。本を読んでいるときに、はらはらしたり、どきどきしたり、楽しくなったり、しんみりしたりといった気持ちになるのは、本の内容がしっかりつかめているからです。理解なしに感動はありません。

 黙って読んでいても、こんな感情は起こりますが、声を出してよめばなおさら心の動きがはっきりします。聞き手にもそれが伝わります。ただし、どんな読み手でもそうなるわけではありません。心の動きを表現して本をよめるようになるには多少の訓練が必要です。残念ながら日本の学校教育では声に出して本をよむような教育はほとんど行われていません。

 声に出して読むときのポイントは単純です。人に聞かせるのではなく、自分で自分の声を聞きながらよむのです。大きな声を張り上げないほうがいいのです。両耳の後ろに手のひらをあてがうと、驚くほど自分の声がよく耳に入ります。そうして文章の一節一節の意味を考えながら、情景をイメージしてゆっくり着実によむのです。自分のよんだ声を自分で確かめながらよむのです。

 今すぐできる工夫として、黙読の仕方を変えることをおすすめします。黙読のときにも、自分の声を聞くような読み方をするのです。文字を目で読んで済ますのではなく、文字のもつ音を一つ一つ意識に感じながら読み進みます。これなら「声を出すと意味がつかめなくなる」という人でも、発声に意識を向ける必要がないので内容に集中できます。

 さて、わたしのチェーホフ「すぐり」の表現よみ公演も、基本にあるのは、人に聞かせる意識ではありません。声に出しながらよむことで、あらためて作品の世界から内容をつかみとろうという作業です。しかし、人まえでよむのですから、聞き手にも共有される世界を示さなければなりません。そこに表現よみの芸術的なよみとしての課題があります。


バックナンバー(発行順) ・ 著作一覧(著者50音順)