コトバ表現研究所
はなしがい 183号
2001.10.1 

 「世の中は複雑だ」とは、よくいわれるコトバですが、そこには単純で素朴なものにあこがれる思いがありそうです。わたし自身がそうです。絵画でいうならミロ、小説では文章の簡潔明快さから志賀直哉が好きです。しかし、世の中を見るといかにも複雑で、時には生きる勇気を失いそうになります。

●「簡素な生活」とは?

 しばらく前から目をつけていた本を読みました。シャルル・ヴァグネル『簡素な生活 一つの幸福論』(2001.5/講談社学術文庫)です。タイトルを見ると、生活の切りつめをすすめる実用本のようですが、根本的な生活のあり方を問いかける哲学風の本です。

 この本は一八九五年に書かれました。当時のフランスでは、資本主義の発展により、さまざまな問題が明るみに出てきました。人々の精神も資本主義の文化に染まりはじめたようです。そんな時代に、キリスト教の牧師である著者が、人びとに生活の根本について語りかけたのです。

 そういうといかにも説教めいた内容に思われるかもしれません。たしかに所どころ牧師らしい口調がありますが、全体としては他人への説教ではなく、自らの生活の指針を確かめる語り口です。いささかくどい翻訳ですが、今後の座右の書としたい一冊です。内容が豊富なので、全体をまとめて要約するのでなく、断片的に引用しながらご紹介しましょう。

 「簡素な生活」とは、いろいろなものを所有することで複雑になっている人間生活の根本的な価値を問うものです。その根本は人間の価値にあります。

「人が人間であり市民であるのは、自らに与える財貨や快楽の数によってでもなく、知的・芸術的教養によってでもなく、その享けている名誉や独立によってでもなく、その倫理的気質の堅固さによってなのです。そしてこれは要するに今日の真理であるだけでなく、あらゆる時代に通じる真理であります。」「簡素とは一つの精神状態です。それはわれわれを活気づける中心の意図に在るのです。ある人の最高の心がかりが自分のあるべきものであろうとすることに存している時には、すなわちただ単に人間であろうとすることに存している時には、その人は簡素なのです。」

●人生、三つの心がけ

 では、どう生きるべきかという問いには「お前の生活を濫費するな! お前の生活をして実を結ばせよ!」と答えています。

「人間の理想は生活を生活そのものよりも偉大な宝物に変えることに在るということになりましょう。われわれは人間の生活を一つの原料にたとえることができます。この原料そのものは、それから引き出されるものほど重要ではないのです。芸術品の場合と同じように、そこで評価するべきは、作者がそこに何をこめることができたかということです。」

 そして、人生の教訓となる「信頼を抱き、望み、善良であれ」という考えを示します。この三つはさらに次のように説明されます。

 信頼――「われわれのうちに信頼の念を増してくれるものはすべていいのです。なぜなら、静かなエネルギー、落ちついた行動、人生とみのり多い労働とに対する愛は、そこから生まれるからです。根本的な信頼はわれわれのうちにあるすべての力を動かす不思議な原動力です。」

 希望――「生活からは何かが結果として生じるはずだということ、生活のそのものよりも偉大な一つの宝が生活の中で段々に出来あがり、その宝の方へと生活は徐々に動いていくということ、そして人間と呼ばれるあの痛ましい種蒔き人は、あらゆる種蒔き人のように、明日という日をあてにする必要を感じるということです。人類の歴史は抜きがたい希望の歴史です。」

 善良――「人類の道におけるもう一つの光の源は善良さです。(中略)善良さは信頼や希望と同じように、神から出たものにちがいありません。あれほど多くの力が善良さに反対しているのにもかかわらず、善良さは滅びることがないからです。」

 また、日々の生活の細部についての態度も次のように述べられます。  「人間の野心は大きなことを夢見ます。けれども(中略)小さな事どもにおける忠実さが、達成されるあらゆる大きなものの基礎をなしているのです。(中略)とりわけ困難な時代や、生涯のつらい時期においては。人は難船の際には、甲板の破片や、櫂や、板の一片にしがみついて結構たすかるものです。」「めいめいの活動の根拠地は身近な義務の領域です。この根拠地をなおざりにすれば、あなたが遠くで企てることはすべて危険に瀕するでしょう。」

●教育と子どもの見方

 教育についても語られています。教育の目ざす根本もやはり人間の形成です。

「教育とは自分の精神で考え、自分の心で感じ、個性的なささやかなもの、内部の潜在的な自我を表現することに在るべき」です。「子供の運命を一言で約言しようとすれば、未来という言葉が唇の上に浮かんできます。子供は未来です。この言葉がすべてを語っています――過去の骨折りをも、現在の努力をも、将来の希望をも。」

 親や教師に対する次のような注意も具体的です。

「教育者は子供から気まぐれの柵みたいなものに見られてはなりません。必要とあれば障害の高さを見定めて、飛び越えてもいいようなものに見られてはなりません。そうではなく、透明な壁みたいなものに見られるべきです。その壁ごしに確固不動の実在のもの、諸々の掟や、道しるべや、真理が見え、それらのものにはどうしてもさからえない、といったような透明な壁みたいなものに見られるべきです。こうすれば尊敬の念が生まれて来ます。」

 子どもたちについての次のような見方にも、わたしはハッとさせられました。

「子供は生まれつき尊敬の念はあまり知らないものであるとして、その意見を裏づけるために、子供たちが人を尊敬しない幾多の例を挙げる者があれば、それは誤りです。実をいえば、尊敬の感情は子供にとっては一つの欲求なのです。子供は何かを尊敬し賛嘆したいというあこがれを漠然と抱いています。」

 この本から感じられるのは、著者自身が抱いている人間と社会への信頼と希望です。どこを読んでも著者の善意の感じられる表現があります。わたしも、信頼と希望と善意に満ちた人間の価値というものを確認することができました。


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