コトバ表現研究所
はなしがい 182号
2001.9.1 

 夏休みが終わって専門学校の授業がはじまりました。最初の授業で学生たちの反応から考えさせられたことが二つありました。一つは、人と人のコミュニケーションのこと、もう一つは、歴史の基礎知識とは何なのかということです。

● 返事とコミュニケーション

 第一は、郵便局の窓口での返事のことでした。名前をよばれたとき、わたしは「はい」と返事をすると話したら、数人の学生から「えーっ?」という声があがりました。「返事なんかしない。おかしい」というのです。「じゃあ、黙って窓口にぬーっと近づいていくのか」と尋ねると、そのとおりだといいます。「人に名前を呼ばれたら返事をするのは常識だろう。むしろ、黙っている方がおかしなことでしょう」というと、学生たちはもう否定しませんでしたが、やはり納得いかない表情でした。

 しかし、考えてみると、わたし自身、あいさつに意味があると思うようになったのは中年になってからです。若いころに今ほどマメに返事をしていたかどうか自信がありません。むしろロクな返事もしなかったような気がします。

 わたしが意識的に人に声をかけるようになったのはここ十年ほどのことです。最近では、買い物をして釣り銭をもらうときにも、「どうも、ありがとう」と口にしています。今、住んでいる高層アパートでも、人と出会えば必ず「こんにちは」とあいさつします。ところが、相手は視線を外したり、聞こえないのか返事をしなかいことがよくあります。

 たしかに現代社会では、ことばを交わすことが危険な場合も少なくありません。にこにこと近づいてきて、やさしそうな声で話しかける人間が悪人であるのもめずらしくありません。しかし、ひとこと声をかけてコミュニケーションをとるのは人間生活の基本です。近ごろの人たちは極端にコミュニケーションを拒否する傾向があるようです。そのかわりに、あとからしっぺい返しのような失敗をすることがあります。日常のコミュニケーションで人とのつき合い方が訓練されていないので、ちょっとしたことから相手に付け込まれる危険があるのです。

 わたしの頭にあるのは、さまざまな訪問販売、インターネットでのつき合いをめぐるトラブル、支持率八〇%という首相への支持など、今の社会の人間関係に共通する傾向です。あらゆる場面において基本となるのは人と人との直接のコミュニケーションです。どんな社会現象でも人と人とが向き合うやりとりによって組み立てられています。歴史上のできごとや事件を考えるときにも、人と人とが直接向き合う場面を具体的に考える必要があります。

● 歴史の基礎知識

 第二は、歴史を考えるときの基本的な知識はいったい何だろうかという疑問です。この秋からわたしは「社会」の授業で日本史の概略をとりあげます。それで、授業の最初に黒板の横幅いっぱいに一本に線を引いて、いちばん左に 1、いちばん右に 2000と書きました。そして、西暦一年とは何を意味する年なのかと問いかけて知らない人に手をあげさせると、四分の三以上があがりました。自信をもって手をあげた学生は二、三人でした。また、西暦の表示に使うBCとADという略語について知らない学生も九割ほどでした。

 ちなみに、BCは英語で、Before Christ(キリスト以前)です。そして、ADの意味は少しめんどうですが、ラテン語で、anno Domini(アノー ドミナイ) 英語に訳すと the year of our Lord (わが主の年代)です。西暦を使っていても、その意味が学生たちには常識ではないのです。

 じつは、わたし自身、毎年、歴史の話をするときには、あらためて基本的な事実を学びなおしています。古い時代の歴史として、ぜひとも常識にしたいと思うのは次のような年代です。
  約四十六億年前  地球誕生
  約五十万年前   原始人類誕生(旧石器時代)
  約一万年前    新石器時代
  B・C 八千年  縄文文化
  B・C 三〇〇年 弥生文化

 歴史というものは、年号だけ並べてもイメージしにくいものです。わたしは黒板いっぱいに書いた二〇〇〇年の線を物差しがわりにして学生たちに説明をします。年代の近いものから遠いものへと線の長さを指でたどって、「ここが弥生文化。二〇〇〇年を八倍にしたところが縄文文化」と示しながら教師を歩きます。原始人類の誕生などは、教室を何周したらたどり着けるのか計算してもらいます。

 そして、最後に二〇〇〇年の終わりに近いところにある一八六八年の明治維新から、日本の近代の位置を確認します。さらに、学生たちの誕生した年、一九八三年の位置を記入します。わたしのねらいは、学生たちの生活している現代を歴史のながれのなかのどの位置にあるのか、具体的なイメージとしてとらえてもらうことです。

● ファンタジーと歴史

 最近、インターネットで自ら小説を発表する若者が増えています。そのほとんどが、未来社会や宇宙を舞台にしたファンタジーものです。また、若い人たちに多く読まれている小説も、幻想的なものやホラーといわれる怪奇ものです。これらの作品に共通するのは、現実から大きな距離をおいたところに作られた世界だということです。現実的な題材はほとんど取り上げられません。現実を直視せずに、そこから逃避しているともいえます。

 しかし、わたしはそのような傾向を単純に否定することはできない気がします。そこには、若者に特有の理想主義があって、現実を嫌悪した結果なのかもしれません。また、遠い未来に夢と希望をたくした想像なのかもしれません。これまでの歴史においても、生きることがきびしく辛い時代には、人々が古い時代や宇宙へと視線を向けることもありました。それは苦しみに耐えて生き延びるとともに、未来に希望をつなぐための手段でした。

 とはいうものの、わたしは若者には現実の歴史と結びつけた世界を考えててほしいと思うのです。それには自分の生きる時代を歴史のながれにおいて考えられる知識が必要です。わたしの授業は、これから戦後の五十年間について話をすすめることになります。学生たちが、歴史のながれと宇宙のなかで、自分の生きる時代を実感するための手がかりになればいいと思っています。


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