コトバ表現研究所
はなしがい 178号
2001.5.1 

 わたしは専門学校で法律の基本科目も担当しています。毎年はじめに話すのが法と道徳のちがいです。道徳にはモラルやマナーなどもふくまれます。人間の行為を規制するものにはいろいろありますが、それを法律と道徳に代表させて比較するのです。二つの分野にはいくつかの点でちがいがあります。

 第一に、法はいわば外から行動を規制するのに対して道徳は内から生まれます。第二に、法には罰則や強制がありますが道徳には強制力がありません。第三に、法には権利と義務といった利害関係がありますが道徳には義務があるだけです。わたしたちの行動の多くは法よりも道徳にしたがっています。

●在るもの自体の倫理

 そんな関心から、前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書1544)を買いました。読みにくい文章で論旨のとらえにくい本なのですが、あちこちにはっとさせられることばがありました。

 書きだしは、うまいトンカツを食べさせるトンカツ屋のおやじの紹介です。そこに倫理の問題の根本を見ています。理屈を言わなくても、倫理とはそこに存在する人間によって示されるというのです。

 息子がトンカツ屋の修業をするとしたら、おやじの権威というものを感じる必要があります。それについてこんなことがいわれています。

「怖れることができるには、自分より桁外れに大きなものを察知する知恵がいる。ところが、この桁外れに大きなものは、桁が外れているが故に、寝そべっている人間の眼には見えにくい。」

 この怖るべきものの根源は、人間が個人としてではなく共同体で生きるということからくるものでしょう。共同体の維持とは、人間同士の小さな利害や政治的な対立などを越えたところにある巨大なものです。だから、教育においても、「道徳教育の根幹は、子供たちに倫理の原液から上ってくる欲求をはっきりと経験させることにある。」ことになります。

 人間はこの地球上で自由に生きのびてきたかのようですが、人間が越えられない大きなものがあります。それについてのアランのことばがあります。

「在るものの前に身を屈めることは、池で溺れるみたいに自分の理性を殺すことではない。(中略)どんな理性も存在を授けることはできぬ。どんな存在もそれの理性を授けることはできぬ。」

 こんな考えはうっかりすると、自分に都合よく人々を支配しようとする者によって利用されがちです。いわく、おまえたちは「現実」にしたがうのだ」というわけです。しかし、アランのいう「在るもの」とは、そんな小さなものではありません。

●〈物の学習〉と〈心の学習〉

 それでは、人はものの世界とどのように向き合うのでしょうか。教育においては〈物の学習〉と〈心の学習〉とが問題になります。

「どんなやり方であれ、〈物の学習〉を深めた人間なら誰でも知っている。〈心の学習〉は、〈物の学習〉によってだけ可能になることを。あるいは、その一部分でしかないことを。」

 人間が生きるときには、〈物の学習〉が前提になります。近ごろは「心の時代」などといわれますが、著者は基本的な〈物の学習〉が十分に行われていないことが問題だといいます。〈物の学習〉とは、じっさいに人が生きるための能力や技術のことです。

「大工がものの役に立つということは、ものの性質に、その変化と循環とに応じられるということである。」「釘をまともに打てることは、なぜ大事か。そこには、〈物の学習〉を通して人がものの役に立つ路が、ほんのわずかだけ開けているからである。下手でも上手でも、人はこういうことを一生懸命やってみるのがいい。その時、木や鉄のほうから問いかけてくる何かがある。」

 それは躾についても言えることです。

「躾を欠いたままの技術教育は、まことに非効率的なものである。逆に、技術教育の裏づけがない躾は、まことに不安的なものであり、すぐに馬鹿馬鹿しい頽廃をみる。」

 その教育は「感化」によるものです。

「躾は、感化と一体になった時、社会の圧力を必要としなくなる。躾を支えるものは、非人称的な圧力ではなく、名前を持ったある人間の技倆である。」

 アランの師であったジュール・ラニョーという人は、自分では本を出さない人で、もっぱらプラトンとスピノザの注釈の授業ばかりだったそうです。話しは下手で、わかりにくいのですが、その注釈の力はすばらしいものでした。哲学の教師としての技量は、それだけで十分に発揮されたのだといいます。

●人は何のために生きるのか?

 さて、それではわたしたちは日々、何をめざして生きるのでしょうか。カントのことばがあります。「あれこれの意志が手段としてだけあるのではなく、その行為が同時に目的として見なされなければならない。」

 つまり日々のひとつひとつの行為を別の何かの手段とするのではなく、それ自体を生きる目的とすべきなのです。他人に対しては次のような態度です。

「自分の人格のうちにも他の誰の人格のうちにもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。」

 本のおわりで、著者は生きることと死ぬこととの相互関係をまとめています。

「生きる目的は、ほんとうは私たちにどうにもならない死の成就と切り離すことができない。私たちの中で育っていく死によって、少しずつ遂げられていくような生の目的がある。」

 生きることは一方で死んでいくことです。それに気づいたとき、人はなぜ生きるのかと問いかけます。

「私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的と同じ方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。」

 わたしは宮沢賢治の話を思い出します。賢治が農学校の教員をしていたとき、ある学生から「人は何のために生きるのか」と問われました。「わからない」と答えてから「もしかして、何のために生きるか考えるために生きている」と付け加えたそうです。

 日々の行為を愛しながら生きるところに高い倫理があります。倫理の根本とは、まさに、その人の生きる態度そのものなのだと言えます。


バックナンバー(発行順) ・ 著作一覧(著者50音順)