コトバ表現研究所
はなしがい 177号
2001.4.1 

 二〇〇二年度から使われる小中学校の教科書の検定が話題になっています。歴史の教科書には「新しい歴史教科書をつくる会」(西尾幹二会長)が参入して、日本の歴史の常識を変更しようとしています。他の教科書もこの風潮に影響されて「従軍慰安婦」の語句をいっせいに外すなどの事態が生じています。また「つくる会」は教科書の採択の仕方について、全国五〇〇以上の地方自治体に、教育委員会による一括指定をするように申し入れをしました。そして、かなりの議会で賛成の採決がされたと伝えられています。

 これまで教科書の選択は、各地域で教員の協議によって行われ、将来は学校ごとの選択も目ざすという方向でした。今回のやり方はまさに逆行です。教育委員会の長は文部省が指名していますから教科書の選択においても中央集権化がすすむことになるでしょう。

 そもそも教科書の検定制度というものが民主主義の時代にふさわしいのかどうかが問題です。いちばんいいのは、教科書の検定もなくして、学校ごとに、あるいは教員が自由に選んで使えるようにすることです。それができないのは、学校教育が文部省の「学習指導要領」にしばられているからです。

 その文部省がすすめてきた「ゆとりの教育」の内容も近ごろは教科書のかたちで具体的に見えてきました。授業時間を三割減し、教育内容も「基礎・基本」にしぼるということです。しかし、円周率を三・一四でなく三にしたり、月の満ち欠けを満月と半月にするようなことでいいのでしょうか。

●立花隆の教養論

 『文藝春秋』(2001年3月号)は「親たちよ! 教師たちよ! 教育再生・私の提言」という特集でした。「奉仕」活動を主張する曾野綾子、文部大臣・町村信孝、東京都知事・石原慎太郎など二〇人の執筆者でした。その多くがわたしの関心をひくものではありませんでした。

 しかし、立花隆が東大で教えた学生たちと対談した「東大生はバカになったの?」はおもしろく読みました。大学の教養学部の意義と教養について語られた内容は、学校教育で問題になっている「基礎・基本」を考えるヒントになります。

 立花隆は、さまざまな分野に関心をもって学びつづけている人です。現代教育の課題である「自ら学ぶ態度」が身についている人ですから、その発言はいつもわたしに刺激をあたえてくれます。

 まず、大学の教育を三つの要素で考えています。

「大学教育というのは、一見講壇講義しかないようだけれども、実は同世代の人間が集まって学ぶことで、学生同士が刺激し合う効果の方がはるかに大きい。」「講義、学生間の相互刺激、本とメディアという三つのチャンネルの総合的な教育の場が大学なんです。」

 そして教養学部で学ぶ意義について述べています。

「教養学部では、文系的なものから理系的なものまでいくつかの系列に科目を分けて、各系列から何科目履修しないといけないという緩やかな強制がありますね。その強制による思いがけない出会いがあると思う。」

 わたしが不安になるのは、「ゆとりの教育」の「基礎・基本」の内容の貧しさです。理科や社会についての基本的な考えかたは小中学校からでも身につけられます。それなのに「基礎・基本」の根本をはっきり定められないまま、単純に知識の量を切り捨てているように感じられます。

 立花隆は教養の出発点を「教養課程では、まずサイエンス系と文科系を偏らずに学ぶ必要があります。それが第一の基本です。」とまとめています。

 そして、対談のために「一生懸命考えた」という教養の内容が次のように定義されます。

「その時代そのときの人類社会全体が、時代を超えて受け渡していく、知の総体がどうなっているのか。どういうふうに自分たちの世界が構成されていて、どういうふうに世界は動いていくのか、その全体像が教養です。基本的に、それは幅が広い常識と言っていい。」

●教養の実践的能力

 立花隆らしい指摘としておもしろいのは、教養に必要な「実践的能力」の三つです。

「第一に、論を立てる能力です。それからその系列として、誤った議論を見抜く能力、そして人を説得する能力。論を立てる能力の中には、論理力と表現力が入りますね。誤った議論を見抜く能力は、同時に、誤った議論に反駁する力でもある。」

「二番目に重要なのは、計画を立てる能力、計画を遂行する能力、計画遂行のために他人をオーガナイズする能力。(中略)チームを作る能力、チームを動かす能力が大事です。」

「三番目としては、情報を収集する能力、情報を評価する能力、情報を利用・応用する能力の三つです。」

 この三つの能力は学校教育での「基礎・基本」の基準ともいえます。現在、唱えられているのは、三番目の情報能力ばかりです。何よりも大切な理論能力の教育は、ほとんど見られません。せいぜいディベートの提唱があるくらいです。しかし、わたしはディベートの実践に、そもそも論を立てることが欠けているのがずっと気になっています。見られるのは、論がきちんと立てられないまま、論題について情報をぶつけ合うようなやりとりばかりです。

 二番目の計画能力は「総合的な学習」の時間でさまざまに工夫されています。しかし、大学にあるような学生同士の刺激ではなく、まだまだ教師主導のものが多いようです。しかも、生徒同士のかかわりも、お互いの失敗を許さないような堅苦しいものです。そのような人間関係も不登校の遠因になっていると思います。

 立花隆は最後にこんな発言をしています。

「それともう一つ、大学が面白いと思うのは、ポジティブな刺激と同時にネガティブな刺激があることだよ。大学生活においては、変なヤツとけっこう出会うんだよね(笑)。しかも、変なヤツに限って変なパワーを持っていたりする。大学というのは、そういうポジティブ、ネガティブ両方の意味でいろんな人間に出会えて、人間世界の成り立ちを学ぶことができる場としてとても重要だと思う。」

 これは大学だけのことではなく、学校全体に言えることです。立花隆の発言は、教育の「基礎・基本」に関わるだけでなく、人間関係の根本についても語られているようです。


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