コトバ表現研究所
はなしがい 176号
2001.3.1 

 毎年、わたしは新年度が近づくと、書店に行って教育関係の本をいろいろと見ます。教育をめぐるおよその状況を知りたいからです。今年は、寺脇研『21世紀の学校はこうなる“ゆとり教育”の本質はこれだ』(新潮社OH!文庫)を見つけました。

 著者はわたしと同年齢で「闘う文部官僚」という肩書きがあります。同年齢の者が文部省のスポークスマンとして、どんなことを発言しているのか知りたくなりました。表紙カバーには経歴があります。

「1952年福岡生まれ。東大法学部卒。92年、文部省初等中等教育局職業教育課長に就任、中学での業者テストと偏差値による進路指導を追放し、ミスター偏差値の異名を取る。広島県教育長、生涯学習振興課長を経て、99年から大臣官房政策課長。文部省のスポークスマンとして、精力的に教育改革に取り組んでいる。愛称はワッキー。NPO日本映画映像文化振興センターの一員でもある。」

●美しいスローガン

 残念ながらわたしの期待したような本でありませんでした。あちこちで講演した内容をまとめたような本です。役人の講演だと割り切ればましな方でしょうが、おもしろくありません。明確な主張があるわけではなく、一般に受けそうな実例をあげながら、おもしろそうに文部省の考えを解説するものです。

 文部省のスローガンには、ことばだけ聞いたら感心されそうなものがあります。たとえば、新しい教育課程についての三つの目的があげられます。

 「自分の頭で考えて、自分の考えで行動する人間になってほしい」「きちんと人とコミュニケーションできる人間になってほしい」「自分を尊重すると同時に他人を尊重する、きちんとした人権意識を持ってほしい」

 また、新しい教育指導要領の二つの柱は、@「総合的な学習の時間」、A「基礎・基本の徹底」だといいます。しかし、政策の意図や目的についての話はまったくなく、こんなことがやれるという実例が次々とあげられるだけです。子どもにとって人間にとっての基礎・基本とは何なのかという根本的な問いかけがありません。そのあたりがいかにも政策一本やりの役人の話です。現状への根本的な疑いのないまま対症療法の政策を打ち出しているようです。

●学歴・職業・フリーター

 わたしが著者の教育理念らしいものを感じたのは次のことばです。「これからは、自分の中の最も輝く部分、最も得意な部分を伸ばそうではないかということです。算数は苦手だけれども牛の飼育だったら得意だというのであれば、その分野でもトップクラスを目指せばいいわけです。」

 授業の内容を三割減らしてすべての子どもたちに「基礎・基本」を身につけさせるというのです。教育内容を少なくすれば、それをかんたんにクリアーしてしまう子どもたちも出てきます。そんな子どもたちのためには、教育機会の多様性として学校以外のいろいろな道が用意されています。

 いわばできる子どもをもつ親たちの不安にこたえる政策です。学校教育のレベルは下げて、それに不満足ならば、学校以外の教育機関を利用せよということです。勉強のできる者はできるなりの仕事、できない者はできないなりの仕事という新たな差別化が生まれそうです。より高度な教育を受けさせたいのならお金を出しなさいということになります。それは、教育の機会均等の原則が、家庭の経済力に支配されるということです。

 もともと学校教育の制度には三つの意義がありました。第一に、国家の立場からは国家にしたがう国民の養成、第二に、国民の立場からは公共サービスとして教育を受ける権利、第三に、子ども自身にとっては自らの能力養成という面です。著者の考える教育改革は、第二と第三に問題があります。公共サービスの低下、家庭の経済負担の増大、子どもたちの教育レベルの低下につながるものです。それも二本の財政再編の一端ということなのでしょう。

 著者は教育内容の自由化をいいながら管理の問題にはほとんどふれていません。教育委員会から校長を通じた学校の管理は当然のこととしています。校長の権限については、おそらく日の丸、「君が代」問題を意識した次のような発言もあります。

 「いずれにしても、明確にしておかなければいけないのは、法律で決まっていることと校長の意思でやることを、はっきり分けて考えることです。」

 そして、卒業式については、教師や生徒の意見を聞くのもいいが、最終的には校長が法律にしたがって決めるというのです。そして学校が法にしたがうという「順法意識」の薄いことを嘆いています。

●人間としての「基礎・基本」

 ただ一つ「第9章 私自身の学校体験」に書かれた父親の話はおもしろいものでした。わたしと同年の著者の父への思いには、わたしも共鳴できます。著者の父はもとは軍人志望で陸軍士官学校を受けようとしましたが身長が足らないので医者になり、「大学の医学部の先生」となったそうです。定年後は何もすることがなくなってしまいました。そして、文部省に勤めるようになった著者に「オレのような寂しい老人を作らないように、きちんとした教育改革せんといかんよ」と言ったそうです。

 はたして、著者のめざす教育改革は父親の期待に応えられるものなのでしょうか。父親の寂しい生活はどこからくるのでしょうか。筆者は父親のことを、戦前の教育システムの中の優等生として過ごし、社会でも評価を受けたものの、楽しむことを経験しなかった者としています。そこから、教育における「基礎・基本」の意味を考えられそうです。

 わたしは若者たちの「フリーター」の増大を連想しました。若者たちが特定の職業を選択せずに、あえてフリーターを選ぶのは、人生の意味を考えようとしているのかもしれません。職業のレベルを越えた人間としての生き方への迷いや疑問があるのかもしれません。しかし、その迷いや疑問を発展させて解決するためには、まさに基礎・基本の能力を必要とします。

 教育における「基礎・基本」とは、単なる知識の量に還元されるものではなく、人間としての基本的な思考能力や問題解決能力です。古くギリシャ時代に、ソクラテスやプラトンは、どのような職業についたものにも「徳」が必要だと説きました。教育の仕事の「基礎・基本」というものの根本はここにあるのだと思います。


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