コトバ表現研究所
はなしがい 175号
2001.2.1 

 一七二号で現代の高校生の意識構造の分析を紹介したとき、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(日高六郎訳・東京創元社)を思いつきました。学生時代の話題の本でした。読んでいないのに内容は知っていました。現代人はますます自由になっているのに自由をおそれて結局すがりつくものを求めてしまった。その一例がファシズムだというのです。

 それが現代の高校生の意識に重なるのではないかと思ったのです。高校生は勝手気ままに見えますが、じつは孤独と不安のうちにあり、ふとした拍子に自分を何かに丸ごと預けてしまう危うさがあるのです。

●フロム『自由からの逃走』

 最近、古書店で買って読みました。原著の出版は昭和16年(1941)、ナチスのポーランド侵攻から二年目、日本の真珠湾攻撃の年です。翻訳の初版は十年後の昭和26年(1951)、入手した本は平成5年(1993)の102刷ですから、たいへんなロングセラーです。

 今の高校生の親は「全共闘世代」以後の世代です。「全共闘」は、六〇年代から七〇年代にかけてあらゆる思想の価値を否定しました。民主主義でさえ否定の対象でした。それ以後の世代には、あらゆる思想の価値からの「自由」が残されました。

 フロムの基本テーマは次のようなものです。

「他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだ。」

 「原初的な一体性」とは、歴史的には中世社会の親密な人間関係、人間では親子の一体感のことなどです。自由になった人間が出会ったのは個人としての無力感と不安感でした。フロムはそんな社会状況を分析することによって脱出の道をさぐっています。

●「権威主義」のゆがみ

 フロムがまず注目するのは現代人のマゾヒズム的・サディズム的な傾向です。それは服従と支配の心理の表現です。その社会的な現われとして権威主義的な性格をとりあげています。次のような指摘から、現代のさまざまな事件が連想できるでしょう。

「無力な人間をみると、かれを攻撃し、支配し、絶滅したくなる。(中略)権威主義的人間は、相手が無力になればなるほどいきりたってくる。」

「権威主義的性格は、人間の自由を束縛するものを愛する。かれは宿命に服従することを好む。」

「すべての権威主義的思考に共通の特性は、人生が、自分自身やかれの関心や、かれの希望をこえた力によって決定されているという確信である。」

 こんな考えは、特定の個人や社会集団に限らず、「全生活をなんとはなしに自分の外がわの力に関係させているような人びと」にも見られます。そんな人びとが救いのイメージとして抱くのが「魔術的助け手」です。それが人間なら、神、原理、両親、夫や妻、目上の者などです。「恋愛」という観念によって性欲にあやつられるようなこともあります。

 また「破壊性」の心理的原因もとりあげられます。

「生命はそれ自身の内的な力学を持っている。すなわち生命は成長と表現と生存とを求める。もしこの傾向が妨害されると、生命を求めるエネルギーは、分解過程をたどって破壊を求めるエネルギーに変化する。」

 そして、権威主義とならんで現代に特徴的な逃避の道をあげています。それは人びとが自らすすんで自我を画一性に押し込めてしまうことです。動物が自らを防御する「保護色」のようなものです。

「個人が自分自身であることをやめるのである。(中略)他の人びととまったく同じような、また他の人びとがかれに期待するような状態になりきってしまう。」

 そんな生き方に対して、フロムがとり上げるのは、生き生きした感情の必要性です。

「われわれの社会においては、感情は一般に元気を失っている。どんな創造的思考も感情と密接に結びあっていることは疑う余地がないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。「感情的」とは、不健康で、不健全で不均衡ということと同じになってしまった。この基準を受けいれたため、個人は非常に弱くなった。かれの思考は貧困になり平板になった。他方、感情は完全に抹殺することはできないので、パースナリティの知的な側面からまったく離れて存在しなければならなくなった。その結果、映画や流行歌は、感情にうえた何百万という大衆を楽しませているような、安直でうわっつらな感傷性に陥っている。」

●逃避からの脱出

 近代人が獲得した自由と独立を、不安と孤立にしないためにはどうしたらいいのでしょうか。フロムの理想は「自由でありながら孤独ではなく、批判的ではありながら懐疑にみたされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できること」です。それは愛と仕事の自発性によって実現されます。

 「愛」とは、自我を相手のうちに解消するものでも、相手を所有してしまうことでもありません。相手を肯定し、自らの自我の確保のうえに立って、相手と結びつくものです。そして、人間が自然と一つになるような創造としての仕事も重要です。  これらの活動が可能になるためには政治的・社会的な変革も必要です。一方では、人間が生きることの根本的な意味がより深く問われることになります。

「自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現できなかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない。」

 フロムは人生の意味についてこうまとめます。

「もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば、かれは孤立した原子ではなくなる。(中略)強迫的にでも自動的にでもなく、自発的に生きることができるとき、この疑いは消失する。かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであることをみとめる。」

 わたし自身の自我のあり方が問われます。


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