コトバ表現研究所
はなしがい 173号
2000.12.1 

 十二月四日、教育過程審議会が、小中学校の指導要録と内申書の成績評価を、到達度による「絶対評価」にすべきだという答申を打ち出しました。これまでのように、一クラス全体を一定の割合で54321に振り分けるのでなく、個々の生徒の到達度をみるべきだというのです。

 しかし、絶対評価というのは、なかなかむずかしいものです。わたし自身、専門学校で、中学を卒業して入学した生徒の国語・算数の成績の絶対評価を試みたことがありますが、とても苦労しました。

●国語の力の絶対評価

 絶対評価といっても、比較するものがない評価ということではありません。ほかの生徒と比較しないで評価するという意味ですから、それにかわる比較物が必要です。それが到達目標なのです。ところが、その到達目標を立てることがたいへんです。国語力での「読み・書き」をとっても、その目標がいったい何なのか問題です。「読み」というと、たいていの人が漢字の読み書きを考えますが、文字が読めれば読む力があるというわけではありません。文章の意味を理解するためには、文字の読みばかりでなく、もっと広いことばの能力が必要です。

 そんなわけで、結局、わたしの立てた到達目標は次のような大まかなものでした。

読み――一般の新書程度の本が読める力(これはかつて岩波新書が高校卒業程度の能力で読めることを目標としたことからの発想です)
書き――内容にかかわらず八〇〇字(原稿用紙二枚)くらいの文章が気軽に書ける力

 さらに、どのようにして到達度を評価するか、到達点を知るためのテストを作ることがたいへんです。そんな緻密なテストなどできませんから、ほとんど直観によって五段階の差をつけるようになってしまいました。

 ほかの科目を担当する先生もそれぞれの立場から到達目標を立てて評価しました。担任の到達目標は、生徒の生活習慣に関するものでした。専門科目の先生は目標設定に困ったようです。しかし、それらの評価を集約してみると、おもしろいことに一人ひとりの生徒の総合的な評価は、だれもがうなずけるものになっていました。

 絶対評価をするためには、一人ひとりの生徒をそれぞれ個として見る必要があります。しかし、評価というものはこわいもので、評価をする者の評価力も試されるのです。わたしが担当した特殊な教育なら評価も独自なものでよいかもしれませんが、公立の小中学校の教育では、評価をどのように統一するのかという問題が出てくることでしょう。

 また、絶対評価では、基準となる学校教育の目標そのものの価値が問われることになります。わたしは今の教育には人間の理想を視野に入れた哲学的な人間観が欠けている気がします。だから、一人ひとりの生徒が人間として見えてこないのでしょう。教育者は生徒の現実を見るだけではなく、高い理想の見地から人間を見る目も持たねばならないのです。

●個人と家庭とのかかわり

 ふとしたきっかけで、下村湖人『論語物語』(講談社学術文庫493)を読みはじめました。人間の生き方をテーマにしたすばらしい作品です。

 わたしは教育の中心となる仕事はモラルの形成だと思っています。『論語物語』を買ったのも、日本人のモラルの基礎となる中国の思想を読みたいと思ったからです。学生時代には「論語」は儒教道徳の手本だと思って敬遠していました。しかし、考えてみれば、わたしは自分自身に儒教道徳がどのように身についているのか知りません。それで近ごろは意識的に中国古典から学ぼうとしています。

 『論語物語』は、わたしの目的に最適の本でした。これまで難解な書き下し文で読んでいた「論語」の思想が二十八篇の短篇小説として身近に感じられます。孔子とその弟子たちとのあいだで繰り広げられるエピソードから孔子の思想を知ることができます。単なる絵解きではなく、そこには文学作品としての感動があります。

 これを読んでいるうちに、かつて読んだ同じ著者の『次郎物語』(新潮文庫)を思い出して買いました。小学校低学年のときに母が買ってくれた絵入りの本で読んだし、大学時代にも文庫本で読んだのですが、どちらの印象もはっきりしません。しかし、『論語物語』の著者の書いた作品として読み返してみたくなったのです。

 ところが読みはじめると、そのおもしろさに驚かされました。今は上巻の半分、第一部を読了したところです。上中下三冊で一冊が五百ページもある文庫本なので、どこまでおもしろく読めるか不安もありますが、『論語物語』を書いた著者の作品ならまちがいないだろうと思っています。

 『次郎物語』は著者の自伝的な長編だといわれています。幼いころ乳母に預けられて育った主人公・次郎が実家の家族とのあいだで繰り広げる精神的な葛藤が中心テーマです。著者は次郎の立場から、家族や家庭を見つめるとともに、次郎の精神的な成長の段階を一歩一歩とらえて描きだします。ちょっとした事件のたびに、兄弟と自分、母と自分、父と自分の関係が見直されていきます。次郎の人間観察は成長とともに深まっていきます。それまで家族の外にあった次郎の思いや悩みは、新たに家族とのかかわりを形成するための苦しみなのです。

 また、次郎は他人を観察するだけでなく、自らの人間としての目覚めも自覚していきます。とくに印象的なのは、家の破産のために祖父の家に再び預けられることになったとき、祖父に教えられた北極星を見たときの感慨です。

 「いつまでも動かない星、――それが、ふと、ある力をもって、次郎の心を支配しはじめた。彼は歩きながら、ちょいちょいと空を仰いで、北極星を見失うまいとつとめた。そして、これまでに経験したことのない、ある深い感じにうたれた。「永遠」というものが、ほのかに彼の心に芽を出しかけたのである。」

 わたしの記憶では、物語は次郎が私塾で教育を受ける青年期のことまで追っていました。そこでの教育によって次郎の思想がどのように発展するのか期待がわきます。この作品は戦争の時代に書きつがれたものですが、著者が時代をどう意識したのかも気になります。思想家であり、小説家でもあった下村湖人へのわたしの期待は大きくふくらみます。


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