コトバ表現研究所
はなしがい 172号
2000.11.1 

 前号に書いた「教育改革国民会議」の中間報告に関する本を見つけました。西尾幹二編著『「教育基本法見直し会議」緊急報告 すべての18歳に「奉仕義務」を』(2000小学館文庫)です。ところが、よく見ると「教育基本法見直し会議」という名が付いていました。そんな会があるのかと思ったら、この本のためにわざわざつけられたものでした。

●「奉仕活動」の目的と意義

 この本は、タイトルどおり教育改革国民会議の報告にある「社会奉仕活動の義務付け」と「教育基本法の改正」の提言を国民に訴えるために編集されたものです。内閣が「有識者」の発言をまとめた二つの文献から西尾氏が編集したものです。西尾氏は「奉仕活動」について「必ず反対者が出てくるであろう」と心配してドイツの例をあげています。

「現にドイツでは義務制として定着している制度である。徴兵に自由意志で応じないドイツの青年は、徴兵の代わりに1年6カ月の社会奉仕活動が義務づけられているのである。」

 しかし、これは徴兵制度の代用としての奉仕活動です。奉仕は全体への義務ではなく、義務は徴兵なのです。これに続けて西尾氏は、この本を作った理由を次のように述べています。

「恐らく左がかった日本のマスコミの一部が、徴兵の予行演習だと言って悪宣伝を言いふらしかねないので、そうではないことをはっきりさせ、日本の場合には教育的動機がすべてであることを本書第一部の収録論文で読者が確認し、納得してもらうことにも、十分に本書の役割があるであろう。」

 しかし、ほかの人たちの発言は「奉仕活動」にふれてはいても、その意義を主張しているものでもないし、その目的が西尾氏と一致しているわけでもありません。

●教育基本法「改正」のポイント

 「教育基本法」について西尾氏の考える「改正」のポイントは、次の六項目です。

 一、伝統の尊重と愛国心の涵養/二、家庭教育の重要性/三、宗教的情操と道徳教育/四、国家と地域社会への奉仕/五、文明の危機に対応するための国際協力/六、教育における行政責任の明確化

 あいかわらずといいたくなるような昔どおりの注文ですが、各項目につけた西尾氏のコメントを見ると、その内容がさらによく分かります。

 一のコメントは天皇制国家の強化を望むような内容で、歴史認識としてもまちがった表現があります。

「古来、私たちの祖先は、皇室を国民統合の中心とする安定した政治基盤の上に、伝統尊重を縦軸とし、多様性包容を横軸とする独自の文化を開花させてきました。教育の第一歩は、先ずそうした先人の遺産を守るところから発しなければなりません。」

 三について「個人の生命をも超えた、大切なものがあるという意識のもとに祖先が守り伝えてきた様々な徳目」とか、「奉仕体験を通じて共同体に属する自己の存在と使命を発見させることが望まれます。その意味からも国家・社会に対する奉仕の精神を育むため、普通教育(小・中・高校)の中で、奉仕活動を必修化することが求められます。」といいます。

 これは西尾氏の尊重する「教育勅語」の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」に通じる考えです。わたしは国家への奉仕を絶対的に否定するのではありませんが、今の日本で奉仕を義務とすることは、やはり戦前の滅私奉公の復活につながる危険を感じます。

 五では「教育基本法が制定された被占領時代に当然視されていた他者依存型国際協調とは、うって変わった自己責任完遂型の国際協調が、いま内外から待望されています。」といいます。

 これも昨年のガイドライン法案や憲法「改正」論議とのつながりを感じさせ、アメリカに依存しない日本独自の軍事力の強化の方向を感じさせます。

●「日本的な個人主義」とは

 ひとつだけ、この本を買ってよかったと思える論文がありました。喜入克(都立大泉学園高校教諭)が学生の「日本的な個人主義」を分析したもので、現代の日本人についての深い洞察となっています。

 「日本的な個人主義」とは、あらゆる個性について評価を抜きに絶対的に平等だとするものです。各人の自己評価は他人の立ち入ることのできない絶対のものとされます。そこには、価値や評価の対立は当然であり、話し合いによって公の場で論議されるという考えがありません。だから、個人の評価が絶対化されると同時にそれぞれが孤立状態にあります。

 そこで、お互いは表面的には価値を対立させないようなどうでもいい関係を保ちます。しかし、孤立した不安があるので、自分を全面的に受け入れてくれるものがあれば、そこへ突っ走ってしまうのです。つまり、個人と個人の関係において深いコミュニケーションが成り立たなくて、共同性を形成できないところに教育の根本問題があるのです。しかし、現在の教育論議では、それが理解されていません。

「今日の子供達の個人主義というものを、改革派はその伝統的な共同性に対するカウンターとして捉え、保守派はその伝統的な共同性に回帰できるものとして捉える。つまりは、両方ともが結局は従来の伝統的な共同性という、同じ土俵の上で議論をしているのにすぎないのである。だが、(中略)今日の子供達にとって特徴的なことは、そのような共通する土俵が彼らには全くないということなのである。」

 そこで喜入氏が提唱するのが、「教科書通りの個人主義」という「ドライな契約関係の導入」です。つまり「それまでは慣習として行われてきたことを一つ一つ洗い出し、それをドライな契約関係として選びなおしていく」というのです。

 そのためにとりあげた一例が「奉仕活動」なのですが、それは西尾氏の考えるような国家・社会への奉仕ではありません。むしろ市民社会における個人の協力と共同の意志の形成を目ざすものです。つまり、「日本的な個人主義」を打ち破るための「様々な形での集団行動」なのです。しかし、それが政策とされるときには、これまでのような国家への忠誠をつくすものとされる危険があるのは皮肉です。

 西尾氏が熱意を燃やして、このような本を出した意味はいったいなんでしょうか。わたしには、昨年のガイドライン法案の制定や憲法の見直し論議にもあるように、あらたな形で日本を天皇中心の軍事的に統一された国へと編成するための教育改革のように思えてなりません。


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