コトバ表現研究所
はなしがい165号
2000.4.1 

 十年ぶりに改められた「小・中学校指導要領」による授業が、一部、四月からはじまります。東京新聞サンデー版「世界と日本 大図解シリーズNo.420」でも、「学習内容3割減―知識量より体験重視」という見出しで取り上げられ、そのポイントとして次の6点があげられています。――@完全週5日制に対応(週あたり二時間減)、A教える内容を3割減らし、基礎・基本を徹底、B3―6年生で「総合的な学習」の時間を新設、C自ら課題を見つけて学び、考える「生きる力」をはぐくむ、D知識の詰め込み・暗記よりも、学ぶ意欲や学び方の習得を重視、E授業の創意工夫と特色ある学校づくりを進める

 教育内容の量については、ここ二十年ほど減少の方向にあります。小学校六年間の総授業時間数を見ると、一九七一年の三九四一時間、現行の三四五二時間、新指導要領の二九四一時間と比較すると、それぞれ五〇〇時間、一〇〇〇時間の減少です。絶対的な時間の減少のなかで「基礎・基本を徹底」することが、どれだけ実現できるのでしょうか。

 算数では明らかな変更があります。円周率はおよそ3で計算するとか、分数のかけ算・わり算から帯分数を外しています。これでは真理の探求である学問を単純な技術に引き下げてしまうような気がします。学問は単に分かればいいというものではなく、真理の深さを知ることにも価値があります。「やさしく、やさしく」という配慮が、学問への安易な意識を育ててしまいそうです。こんなやり方で「自ら学び、考える力」を育成できるのでしょうか。

●国語の力とコミュニケーション

 では、あらゆる教科の「基礎・基本」となる国語科はどうでしょうか。東京新聞では「文学的な文章の読解」よりも「生活に役立つコミュニケーション能力の育成」とか、「漢字は習う学年で読めるようにし、書けるのはその上の学年までにできるようにする」という点が紹介されています。

 わたしが何よりも気になるのは「五、六年の朗読を削除」したことに見られるように、前回あれほど重視された音声言語の指導が消えてしまったことです。すでに教育の世界では朗読やディベートなどの話題もずいぶん少なくなりました。今後それにとって変わるのが、「情報」をキーワードにしたコミュニケーションです。しかし、その内容は、人間同士の基礎的なコミュニケーション能力の育成ではなく、インターネット産業を背景にした情報収集のためのコミュニケーション能力の開発のようです。

 人間が自ら学び、考えられるためには、コトバの総合的な能力が必要です。「読み、書き、ソロバン」はよく言われる教育原則です。コトバの能力としたら、「話し、聞き」も入れたいところです。しかし、かつての時代は、それを言わずにすむような社会状況でした。個人と個人との関係は密接で、生産過程でも、商取り引きでも、家庭生活でも、人と人との直接のかかわりは多かったのです。

 ところが、現代社会では、人と人とのコミュニケーションがますます間接的になっています。ですから、コミュニケーション能力の教育を考えるときには、現代の社会生活に欠けている「話し、聞き」をより重視する必要があります。それなのに、学校での音声言語の教育が軽くなったのはじつに残念です。

●インターネットのメーリングリスト

 わたしはここ三年ほどインターネットを利用しています。メールのやりとりだけでなく、自らホームページも出しています。インターネットの効用は、いろいろなホームページから情報を収集するだけのものではありません。これまでになかったような新たなコミュニケーションの可能性も秘めています。

 その一例が、メーリングリスト(以下MLと略す)というものです。何人かのグループの内部で、お互いのメールをグループ全員が読める仕組みです。MLの全員に宛ててメールを書いてもいいですし、メンバー個人に当てて書いてもいいのです。要するに、お互いのメールがグループ全員で読める公開書簡のようなものになるのです。  わたしは今、三つのML(チェーホフ、朗読、文章表現)を運営していますが、そこで感じる問題の多くは、インターネットという最新の技術に関するものではなく、ごく基本的なコミュニケーションの問題です。古くからある手紙のやりとりや話し合いと共通する人と人とのかかわり方の問題です。人に声をかけること、人の呼びかけに答えること、それを繰り返すことがコミュニケーションの基本です。

 ところが、こんなやりとりのできない人が目立ちます。MLが続くかどうかのカギはこのやりとりの成立にあります。わたしの知る限り、せっかくMLを開設したもののメールが寄せられず閑古鳥の鳴くようであったり、開設して間もなく閉鎖するというMLもめずらしくないようです。

●対話・思考・接続語

 人間はものごとについて考えるときコトバを使うます。そのほかイメージを使うこともありますが、厳密な思考は文や文章のかたちで行われるものです。一つの文で「ナニがドウした」と言ってから、次の文へと考えをすすめていきます。文から文へ移るとき、考えの方向を決めるきっかけが接続語です。

 わたしは、接続語は文章の交差点のようなものだと考えています。はっきりしたコトバによるコミュニケーションでは、相手のコトバへの反応は接続語のかたちをとります。たとえば相手のコトバに対して、「だから」と結論を考えたり、「しかし」と対立する意見を考えたり、「たとえば」と考えを具体化したり、「つまり」と一般化したり、「また」と同類を連想したり、さまざまな反応が考えられます。

 かつての社会では、人間は直接に向かい合った人たちのコトバに反応して、お互いの考えを育てていきました。しかし、今の社会では人と人とが直接に向き合う機会がますます失われつつあります。

 インターネットで起こる事件の多くは、実際に人と向き合ったら起こり得ないようなことです。日常的な現実で薄くなった人間関係が、インターネットにも持ち込まれたとも言えそうです。ここでも、現実生活での人との関わりがコミュニケーションの基本となっていることがわかります。

 現実の世界で人と人との関係づくりの基礎となるのは、コトバによるコミュニケーションです。そこから考える能力も育つのですから、学校教育においても、総合的なコトバ能力の教育がもっと重視されなくてはいけないとわたしは考えています。


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