コトバ表現研究所
はなしがい162号
2000.1.1 

 新年おめでとうございます。何はともあれお互いに新年を迎えられたことはありがたいことです。若いころには「おめでとう」に抵抗感を持ちましたが、今では人々がこのことばにこめる思いも分かります。

 ふと思い出すのは、夏目漱石「こころ」の一場面です。大学を卒業した「私」が田舎の家に帰ると、父親が「卒業できてまあ結構だ」と繰り返します。「私」は、尊敬する先生が口では「お目出とう」と祝いながらも腹の底でけなしたことと比べて、父親の「無知から出る田舎臭いところ」に不快を感じます。「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」と応じると、父親は「結構」とは卒業したことだけを言うのではなくもう少し意味があるといいます。自分が一年前には死にかけた身であったのに、元気で動けるうちに卒業できたことがうれしいのだと。それを聞いた「私」は次のように反省します。

 「私は一言(いちごん)もなかった。詫(あやま)る以上に恐縮して俯向いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚かものであった。」(中・一)

 若いときには、自分の立場からしかものごとを考えられないものです。かといって、その若者に向かって「ひとのことを考えろ」というのも、若者自身の立場の放棄を迫るような押しつけがましさがあります。大切なのは自らの行動を自ら判断できるモラルの形成です。すぐれた文学作品は、人間と人間の関係をモラルの視点から示してくれます。

●「生き方・読者アンケート」

 昨年の十二月二十日、東京新聞が行った読者アンケートの結果が「変わる道徳観・心は家族回帰」という見出しで一面に掲載されました。質問項目は、@今の時代、社会について(11)、A日本人の価値観について(7)、B次の時代の道しるべについて(2)の三分野二〇項目です。めぼしい項目として七項目があげてあります。

 @あなたが今、一番怒っていること/A今の社会で、一番変化している価値観は?/B21世紀と聞いて、どんな言葉が思い浮かびますか?/Cいじめ、非行など、子どもの心の問題を解決するには、どこを一番直すべきか?/Dあなたは何のために働きますか?/Eあなたは何を頼りに生きています/Fあなたが一番大切にしたいものは何ですか?

●家族と生きがい

 アンケートは東京新聞の読者約一万五千名から寄せられたものの集計です。@「怒っていること」は「政治、政治家のあり方(27・1%)」「日本人のモラル低下(25・7%)」とつづきます。A「価値観の変化」では「道徳観(54%)」が圧倒的です。「家族」という答えは、D「働く目的」でトップ(35・4%)、E「生きる頼り」でトップ(50・7%)、F「大切にしたいもの」でもトップ(45・5%)です。その心情の背景となる時代意識は、「今の時代を表す言葉」として「混乱(30・1%)」「不安(27・6%)」「多様(17・3%)」からも分かります。

 D「働く目的」が「家族」という世代別の分布を見ると、六十代から九十代では40%以上、つづいて五十代(38・3%)、四十代(37・3%)となります。それに対して、若い世代では「家族」の人気は低く、三十代(25・0%)、二十代(13・6%)、十代(5・3%)となります。しかし、二十代から六十代まですべてに共通するのが「生きがい・心の豊かさ」で、どの世代でも33%前後になっています。男女別でもちがいがあり、男性では「家族(41・3%)」がトップですが、女性では、「生きがい・心の豊かさ(37・8%)」がトップになります。

 同じ「家族」がトップになったF「一番大切にしたいもの」では、三十代(66・7%)、四十代(60・7%)、二十代(54・8%)、五十代(45・5%)が目立ちます。家族をかかえた「はたらきざかり」の世代の生活ぶりが浮かび上がってきます。

●子どもの教育をどう考えるか

 では、子どもの問題はどうでしょうか。いじめ、非行など、子どもの心の問題を解決するために直すべきものについての答えは、「親(42・8%)」「大人の風潮(27・0%)」「教育制度(12・1%)」「学歴偏重社会(10・2%)」「子供自身(4・3%)「学校(2・4%)」です。「学校」が極端に低いのは、もう学校には期待しないのか、学校は直しようがないというあきらめからくるのでしょうか。

 しかし、十代の回答ではまったく順位が変わります。ベスト・スリーは「子供自身(24・4%)」「大人の風潮(23・8%)」「親(23・3%)」です。子供と同世代の者の方が、子供自身の責任を重く見ています。周囲のおとなから言われているからか、それとも自ら責任を引き受けようとする積極的な態度なのか判断に迷うところです。

 また、二十一世紀と聞いて思いつく言葉では、若い人たちの回答にはたのもしさが感じられます。たとえば、「希望」という言葉を思い浮かべるのは、十代では42・9%、二十代では31・9%、三十代では29・2%となっています。しかし、「希望」の内容を具体化して実現していくことこそ重要です。そのために、若い人たちには、自らのさまざまな能力を育て上げるという課題があります。

 アンケートの全体から浮かび上がるのは、モラルの喪失を嘆きながら、家族に期待を託そうとする人々の姿です。多くの人たちが、家族のつながりを守ろうとしつつ、個人的な生きがいや心の豊かさに閉じこもってしまいそうです。

 しかし、そんな中でホッとさせられたのは、「この十年間で、生き方、価値観を変えるできごとがあったか」への回答です。四分の三の人たちが「はい」と答えて、用意された十七項目のうちトップが「人との出会い(17・0%)」でした。これにつづくものはずっと少なくなって「病気(9・5%)」「バブル崩壊(8%)」「政官界のモラル低下(7・6%)」「リストラ、倒産(5・5%)」です。

 人との関わりがトップであるのは、社会の基礎となる人間関係の本質的な重要性を示しているのだと思います。「こころ」の父と息子のやりとりからも、人間関係におけるモラルがどこから生まれるものかがわかります。わたしは今年もまた、周囲の人たちとの関わり合いと、新しい人たちとの出会いの中で、教育について考えていこうと思っています。


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