コトバ表現研究所
はなしがい160号
1999.11.1 

 前々号、前号と二回つづけて、先生の質が低下したのかという問題をとりあげてきました。わたしはあまりに直感的に判断してしまったことをいささか反省していたのですが、「いや、わたしもそう思う」というお便りをいただきました。

 お手紙を下さったのは、日本にあるアメリカの子どもたちの教育施設で20年近く教員をしている日本人女性のKさんです。以前にもお便りをくださったことがあります。

●日本の先生たちの問題

 書きだしはこんな内容です。アメリカもそうだという点についてはもっとお聞きしたい気がします。

「私もじつは日本の教員の質がわるくなってきたと思っています(アメリカもそうなんですが)。質がわるいというか、マナーがわるいというか……。日本の学校との交流会や学校見学を通じて、最近、とくにそう思います」

 そして、Kさんは日本の教師のマナーについて、5つの問題点をあげています。わたし自身も反省を迫られる思いがあるので、「ひとの振り見て我が振り直せ」という思いを込めてコメントをします。 

 「第一に、日本の最近の先生は、あいさつができません。連れてくる生徒の方がまだいい」――かつてのわたしなら、あいさつは不合格だったでしょう。しかし、今の専門学校では、「おはようございます。いらっしゃいませ。ありがとうございます」などのあいさつは毎朝の発声訓練です。廊下ですれちがうと生徒たちは次つぎに「こんにちは」「お疲れさまです」と声をかけてくれるので、わたしからも生徒に声をかけるようになりました。

 「第二に、自分の生徒なのにまとめられません。十分に生徒の注意を集められず、私語をしていても平気で説明します。生徒に分かってもらう努力をせず、叱って管理して行動させようとします」――近ごろの教室では「私語をしない」ことを生徒に徹底するのはかなりむずかしいことです。同僚は「いちいち私語を注意していたら授業の時間がなくなる」といって、私語を無視して授業をする人が多数です。しかし、わたしは私語が気になるので、はじめに必ず「話しをやめてください」というし、私語をする生徒には声をかけて注意します。気を使って小声で話している生徒にも「もっと小さな声で話しなさい」といい、注意が四、五回つづくと、「私語をやめるか、外に出て話してください」となります。

 また最初の授業では、なぜ私語がよくないかという話もします。人は話しながら何を話そうか、次に何を言おうか考えているのだから、私語があるとそっちに気をとられて考えを見失ってしまう。いい話を聞きたいなら、話しのジャマをしない方がいいと話します。一回で分かるわけではありませんが、私語の意味を知らせることは重要だと思っています。

 「第三に、生徒に対するコトバづかいが「です・ます体」ではなく、まるで友だちのようです。教師と生徒が平等であればあるこそ、そうはならないと思います」――Kさんの言いまわしは乱れていますが、おそらく、教師は友だちのようなコトバづかいで親しみを表現しようとするかもしれないが、それは平等の意識の表現ではないという意味でしょう。

 わたし自身、若いころには塾でそんなコトバづかいをしました。しかし、それは生徒を現在のレベルから引き上げず、そこにとどまらせることです。生徒を自分と対等であるという意識で相手にする必要があります。ゲーテのことばに、親や教育者は子どもは相手がそうなってほしいというように接するべきだというのがありました。さすがだと思います。

 「第四に、交流会、学校訪問の申し入れがあって、予定の調整などを話し合うとき、いくらこちらの事情を説明しても、うまく行かないと不愉快をあらわにし、事情を分かろうとしません。校長も同じ感じです。最近のひどい例では、勝手に日にちや時間を指定してくるのです。以前はこんなことはありませんでした」――先生という職業は、常に感謝を受ける立場にあります。どうしても「先生、先生」と自分を奉ってくれる生徒や保護者をしたがえた「お山の大将」の気分になりがちです。また、人にものを教える仕事には自己満足がつきもので、それが押しつけやおせっかいにもつながります。そんな日ごろの意識が、そのまま外の世界へ持ち出されてしまうと、相手を自分の生徒のように扱いたくなるのでしょう。それが、校長のように上に立つ人になるとなおさら増幅されることになります。

 「第五に、当校で交流会をすると、先生たちは、お客さまになってしまい、全然うごきません。せめて、自分たちの生徒に声をかけてもらいたいと思います。生徒がどのように参加しているのか、教師だったら興味がありそうなものですが……」――「お客さま」も「お山の大将」の延長です。生徒そっちのけで、どっかりとあぐらをかいているような先生の姿がイメージに浮かびます。

●大学入試の変化

 さて、先生から生徒たちの方へ目を転じてみましょう。つい最近発表された中教審の中間報告があります。東京新聞(99・11・2)では、「学生との相互選択必要―大学入試の多様性」という見出しで一面にとりあげられています。引き続く少子化傾向によって、2009年になると大学進学は100%可能になります。いわゆる「大学全入時代」です。そうなると、どこにはいれるかではなく、いかに自分に合った大学を選ぶかが問題になります。そこで、入学者の選択についても、多様な尺度で合否を判断することが必要だというのです。おどろくことには、これまで「ゆとり」を強調して受験科目を減らしてきたのとは逆に増やすことも提案されています。

 また、今、話題になっている学力低下の問題についても報告されています。小中学校段階での学力を「おおむね良好」だとし、大学生の学力低下についても「近年の学生の学力が低下していると断定することはできない」という判断です。しかし、進学率の上昇による平均学力の低下や、学ぶことへの意欲、関心の低下は深刻な課題だとしています。それなのに具体的な提案はなされていません。

 広く目を社会全体に向けると、わたしはやはり日本文化のレベル低下が気になります。教育においても、先生たちにも、生徒たちにも、いろいろな面で低下が感じられます。しかし、先生たちの意識が変わることによって、生徒たちを向上させることはできるのだと思います。そんな考えで、わたしはまた明日から生徒たちと向かい合っていくつもりです。


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