コトバ表現研究所
はなしがい157号
1999.8.1 

 わたしは今、八月八日(日)、高知市の県立文学館で予定されている表現よみの講演と石川啄木作品の朗読発表をひかえて緊張しています。この準備の過程で啄木についていろいろな発見がありました。

 今回、朗読する「雲は天才である」という小説はおそらく啄木の実体験をもとにした作品でしょう。学校という組織における教員の管理のあり方への批判が、漱石の「坊ちゃん」のようなスタイルで書かれています。「S―村尋常高等小学校」の代用教員である二十一歳の新田耕助が主人公です。あるとき、自分の作詞作曲した校友歌を自分の家に遊びにきた生徒にバイオリンを弾きながら歌って聞かせると、二、三日後に学校中に広まってしまいます。それを校長の田島金蔵が知ってとがめだてをします。ところが、主人公はそれに対抗して、論理的な問い詰めでやりこめてしまうのです。

 何よりもおもしろいのは、主人公の行為を批難する校長の会話の語り口に見られる論理です。責任を口にしながら責任を逃れる事なかれ主義、教育への情熱のなさ、校長の地位を収入の源とする考えなどが、自らの語ることばで明らかになってしまいます。

 それに対して、主人公の教育熱心さも書かれています。主人公の不満は校長が妻の病気のために、放課後の課外授業を中止させられたことでした。生徒たちと親しみをもって接しているようすが、そんなエピソードから浮かびあがります。バイオリンを弾いたり、歌を歌って聞かせたりする主人公と啄木の姿が重なってきます。わたしは、やはり同じように生徒と接していた宮沢賢治を連想しました。今の先生たちは、生徒たちとどんな交流をしているのでしょうか。

●本を読めない先生たち

 わたしが朗読の指導をしている会に、若いとき一時期、学校の先生を経験した人がいます。国文学系の大学を出たので、同窓生には国語の教員になった人が多いそうです。その人から、先生となった人たちの意外な苦労話を聞きました。

 新たに卒業して先生になったとき、まずはじめに困ることが、教科書を生徒たちの前で朗読することなのだそうです。一般的な授業では、先生が生徒の模範となる「範読」をすることからはじまります。この「範読」が大きな圧力になって、教師をやめたという人を何人か知っているということでした。

 考えてみればムリもないことです。国語科の教育養成の大学でも、声を出して本を読むような授業がカリキュラムには設けられていません。「音声表現論」などという科目があっても、それは日本語の音声理論のようなもので、教員が実際に本を朗読する力をつけるようなものではありません。

●読書の力と音声表現

 来年は「子ども読書年」だということを七月二三日の東京新聞で知りました。国会議員が超党派で準備をすすめています。かつての女優・扇千景が、その企画プロジェクト座長です。

 わたしは「主な行事」というものを見てあきれてしまいました。いったい何のための読書なのだろうかと思いました。計画しているのは、国際子ども図書館の開館、シンボルマークと標語の募集、記念切手の発行といったことです。ほかに、国際子ども文化基金の企画もありますが、「日本と世界の子どもたちのための文化活動を支援する国際参加型基金」とされるだけで内容は未定です。

 この企画はいったい何を目的にしたものでしょうか。「読書」とはいうものの、その周辺だけに目を向けているように感じられます。一応、「朝の10分間読書運動」「母と子の読み聞かせ運動」との連携も考えられているようですが、もしかして、読書ではなく、本を売らんがための企画ではないかと勘ぐりたくなります。

 八月一日の東京新聞で、本に詳しい津野海太郎という批評家が、小田光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか』(ぱる出版)を紹介しています。三十五年前の日本では、一年に二万点の本が出版されていたのですが、今では六万五千点だそうです。それを「隆盛」という人もいるのですが、小田はただの「水ぶくれ」「末期現象」だといいます。そして、「いまの読者は〈読書をする人〉ではなく、本をコンビニ・オモチャのように〈消費する人〉らしいのだから。」と皮肉っています。そんな出版事情のなかで、どうしたら、子どもがしっかりとした読書をするようになるのでしょうか。

 アメリカでも、十年前の一九八九年に「青少年読書年」が行われたそうです。そのときには、著名作家らがテレビやラジオで率先して朗読会を開いて盛り上げたそうです。わたしは子どもたちの読書ばなれは、日本の文化から本を読む声が消えつつあることと関係があると思っています。小さい子どもたちの読み聞かせの必要はよくいわれますが、中学校や高校などでは、国語の先生の声で作品のよみを聞く機会はずいぶん少なくなっているのでしょう。そもそも、読書というものは、運動として本を消費するものではなく、ひとりひとりが地道に本そのものを読むことしかありません。

 わたしは今年も専門学校の前期の授業で、ほとんど毎時間、本の紹介をしてきました。書名をあげて概要を話すだけではなく、わたしの手持ちの本を回覧して手に取って見てもらいました。また、新聞もしばしば持ちこんで、開いた記事を見せながら、ニュースの解説もしました。その甲斐あってか、試験用紙のウラに書いてもらった授業感想には、本の紹介を歓迎する声、本を読む気になったこと、夏休み中にはぜひ一冊読みたいなどということが書かれていました。

 わたしはさらに今一歩すすめて、声でよんで理解することの意義、声に出して味わうことの魅力、声に出してよむことの楽しさについても、伝えたいという気持になっています。

 わたし自身、最近よんでいる文学作品は、新しいものではありません。明治以降の日本の近代文学の作品です。それらの作品は、これまでに繰り返し出版されたもので、図書館や文庫本で読めるものです。そんな読書が増えたとしても、消費のための本の販売には貢献しないのですが、わたしはむしろ、そんな傾向の読書こそ、これからの日本の文化を支える力になるものだと思っています。

 はたして来年の「子ども読書年」はどのように展開されるのでしょうか。そのあたりを、子どもの教育の問題としても注目して行きたいと思います。


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