コトバ表現研究所
はなしがい155号
1999.6.1 

 八月はじめに高知市に出かけて、表現よみという朗読の理論の話と、石川啄木の作品を朗読することになりました。高知で朗読の活動をする方の紹介で高知県立の文学館が使えることになったのです。

 啄木の作品は文学館の要望です。高知市が啄木の父の終焉の地であることにちなんで展示会をするのだそうです。ありがたいことに、啄木はわたしには親しみのある文学者です。父が啄木の短歌が好きだったので、幼いころから父の晩酌の席でよく聞かされたものです。そのいくつかは今でも暗唱できます。

 父に連れられて啄木を主人公にした映画を見たこともありますが、ただひとつ啄木が女性と並んで話しながら夜道を歩くシーンだけしか記憶にありません。また、中学生のころに、父の本棚にあったぼろぼろの昭和十年代に印刷された表紙のちぎれかけた『一握の砂』も読んでいます。

●「日本一の代用教員」

 最近、啄木の日記を読んで「日本一の代用教員」という文字を見つけました。そのとき、以前に聞いて印象にとどめたことに気づきました。明治三十九年(1906)四月二六日、啄木二十一歳の日記です。

「英語の時間は、自分の最も愉快な時間である。生徒はみな多少自分の言葉を解しうるからだ。自分の呼吸を彼等の胸深く吹き込むの喜びは、頭の貧しい人の到底しりうる所でない。/余は余の在職中になすべき事業の多いのを喜ぶものである。余は余の理想の教育者である。余は日本一の代用教員である。これ位うれしい事はない。又これ位うらめしい事もない。/余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。」(いくつかの漢字を仮名に訂正)

 当時、啄木は「渋民村尋常高等小学校尋常科代用教員」として月給八円で教壇に立っていました。

 啄木は岩手県のある寺の息子として生まれ、幼いころから「神童」とよばれました。十五歳で与謝野鉄幹にひかれて短歌をはじめます。十六歳のとき、校内ストライキに参加し、学校の勉強をサボるようになり、十七歳のとき、カンニングで放校になります。それから、勉学するために上京して新詩社の同人にもなりました。しかし、結核を発病して、わずか四ヵ月で父に連れられて帰省します。

 それから、さかんに詩や短歌の発表を続け、十月には処女詩集『あこがれ』の刊行のために上京します。しかし、この年の暮れに啄木の生涯の転機がおとずれます。父が宗費を滞納したという理由で、寺の住職を罷免されたのです。一家は寺を追われます。それが、予定していた啄木の結婚と重なって、父、母、妹、啄木、妻せつ子の五人が、四畳半と八畳と二間の小さな家で暮らすことになります。啄木は一家を支えるために代用教員の職につきました。

●詩人と教育者

 当時の啄木の日記には、広く政治、社会、文学のほか、教育の考えや学校でのできごとが書かれています。貧しくて本も買えない暮らしですが、ニーチェやワグナーの哲学の研究をしたり、ドイツ語を勉強したり、ヴァイオリンの練習もしています。

 ロマンチシズムの詩人として出発した啄木は、非常に高い理想主義を持った人です。それが一家の貧窮によって生活苦に直面します。だが、それにめげることなく、理想主義の立場を追及していきます。教育の仕事も、単に収入を得るための仕事ではなく、詩人にこそふさわしいものだと考えていました。

「芸術の人はひろく一般人類の教育者である。しかしながら、詩ないし一般芸術が教育の奴隷ではない。むしろ教育なるものは、芸術のうちの一含蓄に過ぎぬ。人間教化の要求が、芸術の内容と分離して、実際的になり直接的になって初めて普通のいわゆる実際的教育なるものが起った。」

 啄木は芸術至上主義の立場から、教育での人間教化を芸術と同等の価値ある高貴なものと見ています。辞令を受けた四月十三日のことを「我が自伝が、この日、また新しい色彩に初められた」と書きます。

「自分は今まで無論教育といふ事について何の経験も持って居ない。しかし教育の事に一種の興味をもっていたのは、一年二年の短かい間ではない。再昨年のあたりから、一切を放擲して全たく自分の教育上の理想の為めにこの一身を委せようかと思った事も一度や二度の事ではなかった。」

「ただ一つ遺憾に思うのは自分はかなり高等科を受持ちたかったのだがそれが当分出来ぬ事である。これは自分が教壇の人と成るのが、単に読本や算術や体操を教えたいのではなくて、出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたい為であるのだ。」

●「人間」教育としての教育

 教壇に立つうちに、ある日、教育者の喜びを感じます。それが初めに引いた四月二十八日の日記です。

「自分は、一切の不平、憂思、不快から超越した。一新境地を発見した。何の地ぞや、曰く、神聖なる教壇、すなわちこれである。/繰り返して記すまでもない。自分は極めて幸福なのだ。ただ一つの心配は、自分は果たして予定のごとく一年位でこの教壇を捨て去る事が出来るであろうか。という事である。/自分は、涙をもって自分の幸福を絶叫する。」

 教育議論の中でよく「むかしの先生はちがう」といわれます。わたしは代用教員・啄木に、むかしの先生の典型を見る思いがします。実践の場に立ったとき、理想主義は教科の指導にも生かされます。

「児童はみな余のいう通りになる。なかんずく、たのしいのは、今まで精神に異状ありとまで見えた一悪童が、今や日一日自分のいう通りになって来たことである。教授上においては、まず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みている。文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬのだ。」

 翌年四月に提出した辞表が一旦保留になりますが、結局、校長排斥のストライキを指揮したため辞職になります。母校の校友会からの依頼で書いた「林中書」では、後輩たちに教育の仕事につくことを訴えるとともに、教育の本質を述べています。

「教育の真の目的は『人間』を作る事である。決して、学者や、技師や、事務家や、教師や、商人や、農夫や、官吏などを作る事ではない。どこまでも『人間』を作る事である。ただ、『人間』を作る事である。これでたくさんだ。知識を授けるなどは、真の教育の一小部分に過ぎぬ。」

 啄木が考えていた教育の理想から、わたしが学ぶべきものは、まだまだたくさんありそうです。


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