コトバ表現研究所
はなしがい152号
1999.3.1 

 三月二日の新聞に、高等学校の学習指導要領の改訂内容が発表されました。昨年十一月の小中学校の学習指導要領の改訂につづいて、約十年ぶり、戦後七回目の改訂です。その目的は、週五日制の実施による授業時間数の減少に対応することと、時代の要求に応えることでしょう。

●「基礎的な学習」とは何か

 東京新聞には「改訂案骨子」として八項目があげられています。その中に気になるものがいくつかあるので、それを引用しながらお話ししましょう。

 第一は、学習の基礎となる科目まで「選択」にするという問題です。――「一、「保健体育」を除く必修教科に、基礎的な学習内容の科目を含む選択必修科目を設ける」

 近ごろは教育の内容について「興味・関心の多様化」「個性を尊重する」ということばが目立ちます。しかし、だれでもが学ぶべきこと、だれでもが人間として身につけるべきことがあるはずです。それが基礎的な教育です。

 しかし、これまでの指導要領でも、今回の新指導要領でも、どのような能力を教育の基礎にするのかはっきりしていません。しかも、時代の変化に対応することを優先しているので、ますます基礎教育があいまいになってます。「基礎的な学習内容」がほんとうに重要な基礎であるなら、必修から外すことはできないはずです。

 指導要領に欠けているのは、基礎の基礎とはなにかという考えです。わたしは、高等課程の教育では、ものの考え方の基礎となる哲学や論理学の系列の科目が必要だと思います。とくに人類の思想の歴史をあつかう「哲学史」や考えの組み立て方を教える「論理学」は重要です。

●情報とコンピュータの教育

 第二は、「情報」の考え方と、コンピューターの教育の問題です。――「一、コンピューターを実習する必修科目「情報」を新設」

 「情報」という教科はABCの三分野に分かれて、「A、機器の使用、B、コンピューターの仕組みの理解、C、情報社会への態度育成」という内容です。しかも必修だというのです。

 わたしはコンピューターの教育には大きな疑問があります。一と口にコンピューターの教育といっても、プログラムを組むことから機械を操作することまでいろいろです。

 プログラムの言語にも流行すたりがあり、機械の機能も型も二年もすればすっかり変わってしまいます。コンピューターの進歩はまさに日進月歩ですから、五年、十年後のコンピューターは、まちがいなく変わります。たとえ最新のソフトと機器で授業を受けたとしても、いざ仕事につくときにはきっと型遅れの教育になっているでしょう。

 新指導要領の「総則」〈教育課程編成の方針〉では、「生徒に生きる力をはぐくむことを目指し、特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び、自ら考える力を養成する」と述べられています。それなら、機械にしたがうのではなく、人間が機械をどう使いこなし、どんな機械を必要とするのかということを考えるべきだと思います。

 わたしは今も前号で紹介した『アラン教育随筆』(1999/論創社)を感動しながら読み続けていますが、そこにコンピュータを連想させる発言があります。

 「道具の性能があがるにつれて、道具から何かを引きだすためには、それ以上に考えなければならない。顕微鏡は無知な人間を陶然とさせる。それ自体では教育にならない。」(50章 経験のあいまいさ)

 知識を得ることとは、物を見るだけでなく、「物についての正確な概念を得ること」だというのです。たとえ、いい望遠鏡があっても、ただ見るだけでは、知識は得られないというのです。

 わたしはここからいわゆる「総合学習の時間」についても考えさせられました。――「一、生徒の興味や進路に応じた「総合的な学習の時間」を新設」

 新指導要領では、体験的な学習としての「総合的な学習」があげられています。しかし、うっかりすると、ただ体験するだけのものになりかねません。大切なことは、体験を通じて「自ら学び、自ら考えること」です。そのためにも、基礎となる哲学や論理学の系列の教育が必要なのです。

●「国語」の教育と「考える力」

 わたしは新指導要領の「国語」の内容がいちばん気になります。今の教育の現場で哲学や論理学を教育できるのは、この科目だと思うからです。アランは「考える力」の養成手段として「読むことと書くこと」を重視しました。

 しかし、新指導要領では、もっぱら「話すこと・聞くこと」が強調されています。それはわるいことではありませんが、そのために「読むこと・書くこと」が軽視されるようになっては困ります。

 「国語」の教育は総合的な言語能力の教育です。「話し聞き、読み書き」と総合的に教育されてこそ意味があります。わたしが気になるのは、〈国語表現〉の「@自分の考えを持って意見を述べたり、相手の考えを尊重して話し合ったりすること」という内容です。「自分の考え」を前提として表現が強調されますが、むしろ表現すべき「考え」を生みだす教育が必要なのです。人はどうやって考えるのか、どうしたら自分の考えができるのか、そのための能力をつけることこそ教育の課題です。

 「話すこと・聞くこと」は、コトバ教育の最初の課題です。コトバの能力をさらに高めるには、「考えながら読むこと」「考えながら書くこと」の教育が必要です。このような訓練をすることで、「話すこと、聞くこと」にも、さらに上達できるのです。

 ところが、〈国語表現〉には、「A情報を収集、整理し、正確かつ簡単に伝える文章をまとめること」と書かれています。ここでの重点は、考えることより情報を集めることにあります。「総則」で「自ら学び、自ら考える力」をつけるといいながら、実際に教育されるのは「情報」の集め方や「総合的な」体験なのです。

 もしかして「情報」を教育に取り入れることによって潤うのは、生徒たちではなく、情報産業なのかもしれません。教育の方向は時代の経済の要求に強く影響されるものですが、人間はそんなに早く変われるものではありません。教育の仕事は、百年くらいの大きな単位で、ゆっくり変わっていく人間を対象とするものなのです。


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